夜来香を聴きながら
それはあまり記憶にない、確か3歳くらいの頃だったと思う。
ある日突然、私の側から母がいなくなった。
理由はよくわからない。産後の肥立ちが悪かったらしい、と聞くだけだった。
そのほんの少しの間、私は祖母に育てられた、ようだ。
ようだ、というのは、両親から直接詳しい話を聞いたことがないからで、親戚からの又聞きだからである。
だけど、私はその時のことを“香りの記憶”というものでほんのり覚えている。
父の郷里、東北から遥々やって来た祖母と父と、まだ幼子である私との奇妙な暮らし。
父は勤めがあるので、日中は祖母とふたりきりだった。
母親の香りを求め、愚図る私。
甘えさせてくれたのは、着物に割烹着姿の祖母だった。
その時の香りをよく覚えている。
着物の袂からほのかに匂う、箪笥のナフタリンとお香と天花粉が混ざりあったような香り。
以来、その香りを嗅いだことはないのに、たまに祖母を思い出すたび、深呼吸をすると記憶の断片からあの香りがすっと鼻孔の奥に優しく甦る。
香りの記憶というのは不思議なモノだと思った。
たとえば、本の香り。
これは新旧問わず、私が好きな香りのひとつである。
新品の本をめくると漂うあのインクと紙の匂い。
世界一美しい本を作るので有名なドイツのSTEIDL社。
昨年、ゲルハルト・シュタイデル氏の本作りのこだわりを記録した映画『世界一美しい本を作る男~シュタイデルとの旅』を観た。
本のデザインは勿論、紙やインクのこだわりが半端ない上、何度も香りを嗅いでいるのが印象的だった。
「本に香りがあることは忘れられつつある」と言う。
そこでSTEIDL社は、ファッション界の巨匠・カール・ラガーフェルド氏とコラボして香水付きの本を作った。
カール・ラガーフェルド氏は「印刷されたばかりの本の香り、それはこの世で一番素晴らしい香りなのです」と言う。
電子書籍の時代に本の香りが楽しめるよう、香水まで作ったというわけだ。
子どもの頃、図書館が現実逃避の場だった私は、図書館の匂いが好きだった。 本の背表紙を眺めたり、触ったりしながらお気に入りの本の背を少し奥に押したり、新しく出会った本を前に出してみたり、本を相手に遊んでいた。
エーリッヒ・ケストナーやマンロー・リーフの本に顔を埋めて香りを満喫した。本の背や溝、耳や角の隅々を触ったり、紙の束の感触を指で幾度もなぞったり、スピン紐をしゃぶってみたり。
もぞもぞと恍惚な気分に浸っていたりしていたのだった。
今思えば、あれはもしかすると、私が生まれて初めて感じたエクスタシーに近い快感だったのかもしれない。
私には懐かしさを感じられるものを好む傾向がややある。
古い建物、廃墟、ファッションや音楽、映画もそうかもしれない。
しかし、古ければいいというものでもない。
私の“のら猫ひげアンテナ”がピキッと反応するものでなくてはならない。
それは、ちょっとキッチュでポップで、でたらめだったり。
だけど、とても手が届かない高貴で気品あるものであったりする。
街の香りの記憶。
今でも忘れられない、子どもの頃に連れて行ってもらった横浜の中華街。
夜遅くなると、薄暗い通りにランタンが灯り、親子で美味しい炒飯や蒸篭に入った点心などを「本格的な中華料理だね!」と言いながら喜んでを食べた。
家鴨や叉焼がぶら下がっている店の軒先。見たこともない乾物の瓶や漢方薬、瓶入りの酒などが並んでいる土産物や。薄暗い通りのあちこちから漂う、不思議な香りにドキドキした。
それは私にとって、初めての異国の香りだった。
1972年、日中の国交が正常化。私は7歳だった。
上野公園にパンダを観に行ったり、中国物産展で、マーブル模様が美しい芯の堅い鉛筆やプラスチックで出来た小さな小鳥の鉛筆削りを買った。
日本製のモノよりも書きにくく壊れやすいモノではあったが、キッチュで愛らしいのが気に入った。
BCLブームに乗って、ラジオの周波数を短波放送に合わせ、北京放送を聴いたりもした。懐かしい「東方紅」のインターバルシグナル。受信した知らせを書いて放送局へ送ると、ベリカードというカードを貰えた。
中国の美しい切り絵のカードで、それは私が生まれて初めてもらったエアメールだった。
それは何枚かのシリーズ盤で出ていた。
「中国なんてダサいよ。やっぱアメリカだよ」
そう笑うトモダチも周りにたくさんいた。彼らはいつも同じ仲間と学校の中や周辺で遊んでいた。
中学生になった頃、私はアメリカンスクールに通う女の子たちと文通トモダチになった。
たまに渋谷で会うと、東急ハンズで彼女たちの買物につきあい、別れてから、一人で渋谷消防署前にあった「文化屋雑貨店」で毛沢東バッジを買ったり、「大中」という中国雑貨専門店でキッチュな雑貨を買った。
当時から私の中で、中国のキッチュなモノはポップだと捉えていたのかもしれない。
としごろになると、恋の相手の香りにも敏感になるわけだが、女子校の同級生の間では、アラミスやタクティクスといった、いかにもオトコを連想させる匂いばかりが流行っていた。
そんな中でも私は相変わらず、天花粉や本やレコードといったモノの香りにうっとり取り憑かれていた。
ある日、オトナの恋をした。
ちょうど百日紅が咲き乱れる、夏の終わりの頃だった。
何時になく深く鮮やかな花の紅色は、恋うつつの私そのものだった。
初めて肩を抱かれた時、不思議なオトナの香りを感じた。
そのひとの香りを今やっと思い出したところで、それもあやふやだ。
はなればなれの恋だったせいだろうか。
その恋は、そのひとの香りよりも、鮮やかな百日紅の紅色で記憶されている。
それ以来、何度か恋をしたけれど、恋の相手の香りにこれといって強烈に性的魅力を感じなくなった。結局、その時々の場面で感じられる、何かと相まって漂う香りの記憶が、好きなのかもしれない。
先日、月下をとぼとぼ歩いていたら、暗がりに百日紅の鮮やかな紅色が眼に飛び込んで来た。
ああ、私の恋の花。くらくらした。
ちょうど風邪を引き、発熱していたせいもある。
帰宅すると、山口淑子さんの訃報を知った。
山口淑子さんの存在は、昔のワイドショーで知ってはいた。
だけど、彼女の存在を“李香蘭”として認識し始めたのは、私が女優を始めた頃だ。
そもそものきっかけは、川島芳子だった。
満鉄関連の本から満映に興味を抱き、東洋のマタ・ハリ、男装の麗人などと呼ばれた川島芳子の存在を知り、李香蘭の存在も知った。
そして、岸田理生の戯曲『終の栖・仮の宿 川島芳子伝』を中島葵さんがプロデュース、彼女自ら二人のヨシコを演じた。その舞台をベニサン・ピットで初めて観たのも大きかった。
これが素晴らしかった。中島葵さんを通じて初めてこの二人の存在の凄さに感動し興味をそそられた。
李香蘭という女性が生きた時代背景やいろいろなことを調べているうちに、中国という国にもっと興味を持つようになり、高校生の頃から漢詩にも興味があったので、中国語を習い始めたりもした。
李香蘭の歌声を毎日聞くために、せっせとCDを買い求める私。
かつて「六本木WAVE」というビルがあって、地下には映画館のシネヴィヴァンでゴダールの新作などの映画を観て、上階に行くとCDやビデオを扱う大型ショップがあった。(現「六本木ヒルズ」のある辺り)
そこのワールドミュージックのコーナーにこの頃よく通っていたので、李香蘭の貴重なCDや広東オペラを手に入れ、至極ご機嫌な私。
90年代には、李香蘭の古い録音(もちろん中国語バージョン)の音源を手に入れることもできた。
それは何枚かのシリーズ盤で出ていた。
「百代」(Pathe Record)という中国レーベルの S P 音源を英国EMIがアビーロードスタジオでリマスターし、香港EMIから復刻盤で何枚かシリーズで出ていた。
蓄音機はもとより、レコードプレーヤーも当時は持っていなかったので、昔の音源をCDで聴けるというだけで喜々とした。
他にも戦前戦後に中国で人気を博した歌姫たちのもあって、白光、周璇、など知らない歌手のモノも買った。
甘く切ないメロディーに玉を転がすような声が、味のある S P 録音の音と共に時空を超え、私を遥か昔の異国の地へ誘う。
ある日、同年代の俳優に「変な音楽ばかり聴いてるよね」と笑われたが、「李香蘭よ、知らないの?」と一瞥して返した。
私は、同年代の男子から見たら、相当ズレて話の噛み合ない変な女だと思われていたのだろう。
変な女の私は孤独だった。
はなればなれの恋の淋しさを紛らわすために、映画館に通い、一人部屋で音楽を聴きながら読書三昧の日々。
香港で買ってきた花模様のネル地でできたチャイナカラーのパジャマに着替え、別珍でできたビーズ刺繍のスリッパを履き、中国茶を嗜みながら、往事を妄想しながら聴くのである。
紫檀でできた花や鳥の美しい彫刻の中国屏風がやたら主張している部屋に、原宿のオリエンタルバザーで買った陶器のランプスタンドを灯す。シェードの上に紅い薄絹のスカーフを被せ、中国のお香を焚く。
当時の気分に浸るためなら、私はセッティングに余念なく中国的なモノ、あるいは、シノワズリなモノを集めた。
そんな空間でのひとときは、私にとって特別なひとときで、当時私が愉しんだ「デカダンスごっこ」だった。
やがて映画では、愛新覚羅溥儀を描いたベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストエンペラー』にも辿り着くわけだが、ある日、もっと凄い出来事が私を旧満州の世界へ誘うのであった。
20代のその頃に所属していた事務所の女社長に、旧満州映画についての本を読んでいると話したら、「あなたも変わってるわねえ。じゃあ一度、スゴい人のとこ連れてってあげるわよ」と、言われた。
すると、間髪入れずマネジャーが、私に小声で耳打ちした。
「甘粕大尉の秘書を勤めてた女の人で、甘粕の最期の時にいた人、だって!」
私は一瞬にして鳥肌が立った。
行きたい。でも怖い。けど会ってみたい。
「いいわよ、今晩にでも連れてってあげる。その代わり、怪しい目つきでやたらじろじろ見ちゃだめよ!」
いきなり私は銀座に連れられて行ったのだった。
そこはバーだった。
入り口に「BAR Beret」と書いてあって、ドアを開け女社長が「ども~!」と声高に挨拶をし入っていくと、カウンターの中にいる女主人が「あら~久しぶりじゃないの」と我々を迎え入れてくださった。
ゆるやかな弧になったカウンター。15人も座ればいっぱいで、店は賑わっていた。
なぜか著名な漫画家の人たちが描いた猫の絵が沢山飾られた店内。
「ここはね、横山隆一さんや小島功さんとかがよく通っていた店なのよ~」
女社長が私に説明すると、隣でまたマネジャーが間髪入れず耳打ちしてきた。
「あんた! あの、あの女の人! あの人が……そうなんだって!」
ええっ!? あの女の人って、私の目の前にいるこの女主人のこと?
……近い。近すぎる。あまりに近すぎて私は顔を上げられなくなってしまった。
おまけに飲んだ酒の味すらも覚えていない。
カウンター越しに彼女の一瞬の隙を見つけて凝視した。
品があってしっかりとした、まさに甘粕の最期に出くわしたほどの強者。歴史の生き証人。
当時の陸軍大尉・甘粕正彦の話は甘粕事件をはじめ、満州映画協会の理事を務め終戦直後服毒自殺したことなど、 書物や映画を通じてなんとなくだが知ってはいたものの、史実が今ここに!
そう。今私の目の前にいるのは、まさに、その甘粕理事長の秘書、甘粕の最期を目撃した人ではないか!!
私は興奮の渦に巻かれっぱなしだった。
後で調べたら、そのひとは、伊藤すま子さんという方で、お父様が満映の映画技師だったためにご家族で満州へ渡り、彼女も満映に入社、しばらくして甘粕理事長室付きになった。
8月15日は社内で玉音放送を聞き、「いざという時に、使いなさい」と赤い薬包(恐らく青酸カリ)を理事長からいただいたそうだ。
8月17日の朝。6時15分にお茶を持って行き、それから事は起こった。慌てて部屋に戻り水を飲ませようとしたそうだが、もう駄目だったという。
伊藤すま子さんの他、そこには内田吐夢監督もいらっしゃったそうだ。
そして彼女は、満映の看板スターであった李香蘭との交流もあったのだった。
私の中で、点と点が結ばれ、銀座の夜空に、星座のように広がった。
私はそれ以来、しばらくは李香蘭のことも満映のことも頻繁に口にしなくなった。なぜかはわからないが、それがいいと思ったからだ。
時は経ち、ある春の日に両親を連れて沖縄へ行った。
夕暮れどき、首里城のお膝元「美里御殿跡」の庭を眺めながら琉球料理を楽しんだ。
店を出る頃にはすっかり夜の帳が降り、辺りの景色が変わっていた。
玄関を出ると、出迎えてくれた元気いっぱいの南国の草花たちが、暗闇でライトアップされ艶やかに客を見送る。
そこに、甘い香りが漂っていた。
夕暮れどきにはなかった香りだ。
「夜に香る花、イエライシャンです。よろしかったらどうぞ」
店員の人が花を手折ってくださった。
その香りはひとを穏やかにさせるというより、心躍らせる甘い恋の香りがした。
小娘のような足取りで石畳を弾みながら、花を手に歌い出す母。
「あわれ春風に~♪」
彼女も甘く切ない恋はしただろう。
その恋の相手は父ではなかったと私は思う。
だからどうだ。
あのとき、私の前から突然消えた母のことも、祖母に育てられた事情も聞かないままで、もういい。
香りの記憶が残った。
わたしたちにはそれだけで、もうじゅうぶんだ。
香りの記憶は時に胸いたく哀しいときもある。
だが、見るだけ、聞くだけ、では得られない、何か特別な秘密を持つような特別な思い出として残る、それがその人だけが持てる“香りの記憶”なのかもしれない。
そろそろ、秋が深まってくる。
甘く香る金木犀の花が咲く頃だ。
あれで秋を感じるというのも、やはり香りの記憶だろう。
