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日本国憲法施行から70年。「個人の尊重」に代表される憲法の価値に関わる生きざまや個性を通して、憲法について、あらためて考えてみたい。

【第32回】住民支え被害伝える 土呂久鉱害、環境教育に  元記者「運命決めた」

2017.8.12 0:00
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説明会に出席した大坪篤史さん(前列中央)。患者の認定審査を担当していた当時は「純朴な高千穂の人々がこれほど怒るのだから、相当なことが起きたのだと感じた」という=6月28日、宮崎県高千穂町(撮影・堀誠)
説明会に出席した大坪篤史さん(前列中央)。患者の認定審査を担当していた当時は「純朴な高千穂の人々がこれほど怒るのだから、相当なことが起きたのだと感じた」という=6月28日、宮崎県高千穂町(撮影・堀誠)

 山あいの公民館は異様な緊張に包まれていた。6月28日、宮崎県高千穂町の土呂久地区。1970年代、ヒ素鉱害が社会問題になったが、水俣病やイタイイタイ病と違い、今は知る人は少ない。記憶を継承しようと、県が大学生への授業計画を立て、説明会を開くと、住民らが詰め掛けた。
 「環境教育にふさわしい土地です」。朝日新聞記者を辞め、患者支援に人生を懸けた記録作家川原一之さん(70)が力を込めた。だが、農作物の「風評被害」を心配して反発する声が住民から上がる。半世紀近くたっても続く不安の強さに川原さんは打ちのめされた。
 

 ▽突き刺す視線

 気まずい空気の中、県農政水産部長大坪篤史さん(59)が切り出した。「農家民泊をやっていただくとか、いろいろ仕掛けたいんです」
 2週間前、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が周辺の「エコパーク」登録を決めていた。自然の保護と利用の両立が評価され、観光客増を期待して地元は沸いた。
 県がこの機を逃すまいと計画したのが鉱害の歴史を教え、環境教育との一石二鳥を狙う大学生のバスツアーだった。「難しい」「よく分からない」。小声が聞こえる。
 「民泊は無理。受け入れ態勢がない。去年結論出とったろう、川原さん」。減り続ける住民の中心的な男性が視線を向けた。「難しいということでしたね」とつぶやくしかない。「県を責めているようで、俺を突き刺している」。針のむしろで、川原さんは支援の難しさを痛感していた。
 大坪さんとはかつて鋭く対立する関係だった。患者の支援者と、認定審査の担当者。時は流れ、今は共に記憶継承に努める。立場は違えど、風化させまいとの思いは同じ。その姿が、住民には県側に立つように映った。
 

 ▽「生きたい」

佐藤鶴江さんが住んでいた家の前で「土呂久は鉱害の時代は生き延びたが、このままでは過疎でつぶれてしまう」と語る川原一之さん=6月27日、宮崎県高千穂町(撮影・堀誠)
佐藤鶴江さんが住んでいた家の前で「土呂久は鉱害の時代は生き延びたが、このままでは過疎でつぶれてしまう」と語る川原一之さん=6月27日、宮崎県高千穂町(撮影・堀誠)

 土呂久鉱害が表に出たのは71年。小学生の体調不良を不審に思った教員の調査がきっかけだ。大正時代から62年まで、農薬や毒ガスの原料に使われた亜ヒ酸を断続的に製造した鉱山が原因だと訴えた。煙や汚染水で呼吸器や消化器の障害が起き、死者や寝たきりの患者が多数出ていた。
 最終鉱業権を持つ住友金属鉱山(東京)は補償を拒否。収拾のため県が提案した補償のあっせんは対象を皮膚の症状に限り、金額も平均240万円に抑えられた。
 72年12月、患者7人が苦悩の末、県庁で調印。記者会見で「他の病気は持病にされた」「50年苦しんできたとです。早く見通しをつけたかった」と悔しがる患者に、入社4年目で宮崎支局員の川原さんは胸を痛めた。
 翌月、患者の佐藤鶴江さんから裏話を聞く。調印前夜、納得できず公衆電話で記者に連絡したかったが、廊下に県職員がいて近づけない。知事の前では同席の町長の顔を立てねばと判を押した。
 「勇気を出して飛び出しておれば。人が良すぎる。情に負けたとよ」
 力になりたくても、記者の立場では限界があった。転勤したものの、退職して宮崎に戻り、支援団体の柱になる。
 患者側は「県の責任を追及しない」とのあっせん内容に不満もあり、75年に提訴。原告となった佐藤さんは法廷で訴えた。
 「裁判長、私たちは例え根治の見込みがないと言われましても、生きていく権利があります。また、生きとうございます」。心からの叫びに感動した川原さんは「最後まで支える」と決意したが、佐藤さんは77年、56歳で他界。90年に最高裁で和解が成立した。
 

 ▽バングラでも活動

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 当時、井戸水でのヒ素中毒がアジアで問題に。土呂久の住民も後押しし、川原さんはNPO法人「アジア砒素(ひそ)ネットワーク」を設立、バングラデシュで浄水装置の設置活動を続けた。しかし、体調を崩して昨年帰国。再び土呂久に目を向けた。大坪さんも環境を担当する部署になり、2人の時計の針が動き始めた。
 住民から厳しい意見が出た説明会を振り返り「ショックだったな」と川原さん。授業計画は地域を存続させたいと焦る住民のためでもあるのに。「高齢化する住民も自分も残り時間は多くない」
 大坪さんはかつての認定審査で、理詰めで迫る川原さんが怖かったという。「人が死んでいるので、必死に言いたくなる気持ちは分かる。よく続けてきた」と感心する。
 川原さんは大坪さんに「『土呂久』の場所を示す看板を作ってほしい。風評被害をなくすには、県が安全宣言をしてくれないか」と伝えている。
 支援者という立場の難しさは度々直面し、乗り越えてきた。「住民に説明を続ければ、分かってもらえるはず。土呂久が俺の運命を決めたわけだから、もう一回頑張るか」。川原さんの夢は、公民館を自然の中で学ぶ拠点「フィールドミュージアム」に改築することだ。(共同=徳永早紀)

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