メニュー 閉じる メニュー

「病、それから」漫画家たむらあやこさん 壮絶体験も笑いに変える 病で知った自分の天職

2020.2.21 19:32
 神経が侵される重症のギラン・バレー症候群を患い、20代の2年近くをほぼ寝たきりで過ごした漫画家たむらあやこさん(39)。今も多くの後遺症があるが「好きでたまらないことを仕事にできたのは病気のおかげ」と言う。壮絶な体験も笑いに変えられる漫画はきっと誰かの力になる。そんな思いで描き続ける。
 ×   ×   ×
 発病は2002年秋。地元北海道函館市の小児科医院で准看護師として働いていました。当時22歳。体力を過信して無理を重ねていたんですね。
たむらあやこさん
たむらあやこさん

 


 ▽全身襲う激痛
 高熱に吐き気、発疹。突然足の感覚がなくなり、医院の床にすとんと膝をつきました。原因は大きな病院でもなかなか分からず、骨髄液を調べて診断がついたのは入院10日目くらいでした。
 ある日を境に猛烈な痛みが襲ってきました。内臓がちぎれたのかと思うような全身の激痛が一日中。嘔吐(おうと)も止まらず、頭に浮かぶ言葉は「痛い」「つらい」「具合悪い」だけ。本当は筋力を保つリハビリが大切らしいのですが、自律神経もやられて、体を起こすと血圧が下がって失神してしまうんです。
 ▽これほど好き
 入院して1年余り。体を起こせる時間がちょっとずつ延びてきた時期に主治医から「これ以上良くなることはないでしょう」と宣告されました。ショックで泣きました。
 普通の仕事はできないと思ったとき「絵を描けるようになりたい」という願いが芽生えました。小さい頃から大好きで、美大進学を勧められたこともありましたが「手に職を」との身内の勧めもあって諦めていた。
 病気でいろんなことができなくなった中で、絵が描けないのが一番つらかったんです。指に絵の具を付けて描くことから始め、1年かけて筆も使えるように。重い脳障害の男性が、私の描いた馬の絵を見て初めて言葉を発した場面に、絵の大きな可能性を感じました。
 発病から4年を過ぎてようやく痛みや吐き気が減り、約30キロ落ちた体重も徐々に回復してきました。漫画を描き始めたのは、中学時代から一緒に同人誌を作っていた友人たちの勧めです。中にプロの編集者もいて「あんたならできる」と励ましてくれました。
 感覚まひのせいで枠線は真っすぐ引けないし、ものすごく苦労しましたが、構想が浮かぶと描きたくて描きたくて夜も眠れない。自分はこんなにも漫画が好きだったんだと初めて知りました。
たむらさんと母
たむらさんと母

 


 ▽使えるものは
 どうやら描けるようになるまでに6年。発病からは10年です。「絵が下手でも大丈夫」とあった新人漫画コンテストに応募し入賞したのが2014年。闘病の日々を振り返った作品は翌年のデビュー作「ふんばれ、がんばれ、ギランバレー!」のもとになりました。
 今は「寛解」といって、かなり普通の生活ができていますが、手足の感覚はありません。手元を見ていないと持った物を落とすし、血が出たのを見て初めて傷に気付きます。血圧は上が80台、下は40台で長く立っているのは大変。外出には車いすを使っています。
 漫画の方は大きな変化がありました。17年にパソコン作画を始めました。下絵は紙に描きますが仕上げはタブレットにデジタルペンで。摩擦がなく快適で、枠線も楽に引ける。余分な線がないから「絵がきれいになったね」と褒められて、パソコンさまさまです。
 手塚治虫先生だって私と同じ状況なら絶対パソコンを使っていたはず。表現したい題材はたくさんあるので、使える物はどんどん使って描いていこうと思います。(聞き手、写真・吉本明美)

最新記事