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村長になった日本人移民 世界遺産擁すマチュピチュ ペルー 

2019.10.16 18:25 共同通信

 ペルー南部、標高約2千メートルの山あいの村に、雨期には貴重な好天が訪れた。国内外からの観光客がここぞとばかりに、さらに約400メートルの高みにある世界遺産マチュピチュ遺跡にバスで繰り出す。インカ帝国の神殿都市の遺構内では、観光ガイドのセサル・ノウチ(74)が年齢を感じさせない身のこなしで急勾配を軽々と登っていった。
 「たばこは吸わないし、酒もほとんど飲まない。健康の秘訣です」。日焼けした顔に笑みを浮かべる。セサルは麓のマチュピチュ村の村長だった日本人移民、野内与吉(のうち・よきち)(1895~1969年)の2度目の結婚で生まれた長男だ。

ペルーの世界遺産マチュピチュ遺跡を案内する観光ガイドのセサル・ノウチ=4月(共同)
ペルーの世界遺産マチュピチュ遺跡を案内する観光ガイドのセサル・ノウチ=4月(共同)

 ▽成功の夢
 与吉の生涯を紹介した著書があるセサルの息子、野内セサル良郎(よしろう)(43)によると、与吉は福島県玉井村(現大玉村)の裕福な農家の次男として誕生。1917年、21歳のときに異国の地での成功を夢見て、契約移民として横浜港から船でペルーに向かった。
 当初は北部の農園で働いたが賃金の不払いなどの理由から半年で辞め、職を探してボリビアなど各地を放浪した。23年に再びペルーに戻り、南部クスコで鉄道会社に勤務。同年、後にマチュピチュ村に発展する集落に住み始めた。
 「ジャングルの中の何もないところから、父と40人程度の仲間が村をつくり上げた」とセサルは語る。手先が器用でアイデアマンだった与吉は、山から水路を引いたり、ダムを造り水力発電で電気を供給したりするなど集落の発展に貢献した。
 与吉は温泉を発見し、住民らに日本の風呂の習慣を教えた。村のはずれには現在、プールのように仕切られた温泉が整備され、水着姿の旅行者が疲れを癒やしに訪れる観光名所となっている。
 亡き夫が与吉と親交が深かったマルセリナ・ベニテス(89)は、与吉について「陽気でよくしゃべる人だった。歌が得意でバイオリンも弾けた。パーティー好きだったけど、働き者でもあったわね」と回想する。スペイン語が堪能で、先住民語ケチュアも話せた。

 ▽先見の明
 48年、与吉は土砂災害に見舞われた村の復興のために地方政府から村長に任命された。現在の村長ダルウィン・バカ(35)によると当時はまだ選挙が導入されておらず、与吉は「名誉村長」と呼ばれているが「人々の尊敬と信望を集め、村の創始者の一人と見なされていた。マチュピチュの将来に関するビジョンも備えていた」とかつての先輩に敬意を表する。
 ジャングルの奥地に築かれたインカの都市マチュピチュは16世紀のスペインからの侵略者にも発見されず、長年忘れ去られ「失われた都市」と言われた。上空からしか確認が難しいことから「空中都市」とも呼ばれる。1911年に米国の考古学者ハイラム・ビンガムに「再発見」され脚光を浴びたが、現在のように多くの観光客でにぎわうようになるのは20世紀後半になってからだ。
 与吉は35年、集落で初めてのホテルを開業した。3階建てで計21室。近隣都市クスコなどへの行商人や労働者らを対象にした宿泊施設だった。一方で決して多くはなかったが、遺跡目当ての観光客もすでに訪れていた。

ペルー・マチュピチュ村の村長を務めた日本人移民、野内与吉は温泉を発見し、住民らに日本の風呂の習慣を教えた。温泉は現在も観光名所として旅行者の人気を集める=4月(共同)
ペルー・マチュピチュ村の村長を務めた日本人移民、野内与吉は温泉を発見し、住民らに日本の風呂の習慣を教えた。温泉は現在も観光名所として旅行者の人気を集める=4月(共同)

 ベニテスは「ホテルに入りきらない旅行者らが道で寝ていた」と思い起こす。現在のマチュピチュ村は、世界中からの観光客向けの大小さまざまなホテルがひしめき合う。観光ガイドもしていた与吉の先見の明が、ここにも表れていた。

 ▽交流の縁
 与吉は68年、大玉村に約50年ぶりに一時帰郷し家族や村人から歓迎を受けた。翌69年8月、73歳のときにクスコでこの世を去った。与吉が縁となり、マチュピチュと大玉の両村は2015年10月に友好都市協定を締結し、交流が続く。
 協定締結を後押しした孫のセサル良郎は「人として大きな財産を残してくれた野内与吉の子孫であることを誇りに思う」と話す。セサル良郎は現地調査を通じ、忘れられていた与吉の歴史を掘り起こして著書「世界遺産マチュピチュに村を創った日本人」にまとめた。現在は日本とペルーの交流を深めることを目的とした非営利団体「日本マチュピチュ協会」(名古屋市)の会長を務める。
 「日本人が内向きになった」と言われて久しい。だが世界での活躍を目指して海外に出る、与吉のような若者は今も多い。日本学生支援機構の調査によると、17年度は前年度比8・7%増の約10万5千人が海外に留学した。
 セサルは「父は生涯、日本人であり続けたが、同時に自分を温かく受け入れてくれたペルーを祖国のように思い、マチュピチュの発展に尽くした。日本人が異国の地で大きなことを成し遂げられるということを示した」とたたえる。
 時代は違えど、与吉の生き方は現代の若者にとって一つの模範となっていると言えるだろう。(敬称略、文・小西大輔、写真・カルロス・ガルシア・グランソン)

取材後記

コスモポリタンな土壌

地図
 

 あの有名な世界遺産マチュピチュ遺跡がある村の村長を日本人が務めた。そんなことがあるのかと最初は半信半疑だった。しかし取材を進めるにつれ、第2次大戦前から戦後にかけて、日本から遠く離れた南米ペルーの片隅に「スーパー日本人」ともいえる人物が足跡を残していたことが分かった。
 世界中から観光客が訪れるようになった現在のマチュピチュ。村長のダルウィン・バカは「コスモポリタンな村であり、異なる人種を受け入れる」土壌があると説明する。与吉の別の息子の故ホセ・ノウチが1981~83年にやはり村長を務めたことも、それを物語っている。(敬称略)

 

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