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「上を向いて歩こう」愛唱 ペルーを変えたアキラ ペルー

2019.9.24 19:41 共同通信

 「上を向いて歩こう。涙がこぼれないように…」。ペルーの首都リマ、地元客でにぎわう午後のレストランに日本語のメロディーが切なく響く。女子バレーボールの元ペルー代表選手が集合、会の最後に日本人コーチ加藤明から教わった歌を合唱し「マエストロ(師)アキラ」をしのんだ。
 1960年代後半、白人、先住民との混血、黒人、日系2世の新チームが生まれた。67年南米選手権(ブラジル)優勝、68年メキシコ五輪4位と実績を挙げていく。加藤は選手たちにバレーだけでなく、専門学校や大学で学んで職業に就くよう指導、ペルー人として誇りと自活を促した。
 マエストロは肝炎を患い、82年3月に49歳の若さで急逝する。翌日の新聞は「ペルーは泣いている」と大見出しで英雄の死を悼んだ。

恩師加藤明をしのび「上を向いて歩こう」を合唱する元ペルー女子バレーボール代表。(前列左端から)エスペランサ・ヒメネス、ルイサ・フェンテス、後列中央がオルガ・アサト=2018年11月、リマ(共同)
恩師加藤明をしのび「上を向いて歩こう」を合唱する元ペルー女子バレーボール代表。(前列左端から)エスペランサ・ヒメネス、ルイサ・フェンテス、後列中央がオルガ・アサト=2018年11月、リマ(共同)

 ▽規律
 64年東京五輪でバレーボールが初めて採用され、女子の日本が体格で勝るソ連(当時)を破って金メダルを獲得した。
 小柄な選手たちの大活躍がペルーのバレー関係者を驚かせ、日本にコーチ派遣を要請する。加藤は慶応大の先輩でもある松平康隆(後の日本バレー協会会長)から打診され、日本人国際コーチの先駆けになることを了承。勤務先の八幡製鉄(当時)を休職して65年5月、ペルーに旅立った。
 「東洋の魔女」を率いた大松博文のハードな日本式練習を基本に「規律」を求めた。練習が終われば、日本食や中華料理店に選手を誘い、日本の歌を歌って楽しんだ。
 主将として信頼の厚かったエスペランサ・ヒメネス(愛称ピランチョ)(79)は「アキラはペルーのバレーを全て変えた。恋愛は禁止。話し方から笑い方まで教える。一番うまい選手が練習をずる休みして代表から外された。厳しい人だったけど彼を信じたの」
 旧チームで残ったのはピランチョともう一人の選手だけ。加藤は各地を巡り、10代の新戦力を探す。その一人がペルーを代表するアタッカーになったルイサ・フェンテス(愛称ルーチャ)(71)だ。リマの南300キロにあるイカで原石を発掘する。補欠で試合のベンチに座っていた、のっぽの少女をリマの学校に転校させて鍛えた。ルーチャは「よく怒られ、よく泣いたわ。でもバレーを続けた。アキラが父であり、仲間だったから。私の居場所ができた」

▽日系人
 練習用の1面コートは国立競技場の観客席下にあった。天井が斜めで狭く、愛称は「ボンボネラ」。日系2世選手のオルガ・アサト(70)は「トイレもシャワー室も汚い。サッカーの試合がある日は尿が上のトイレから漏れて臭かった」と劣悪ぶりを話した。
 加藤にアサトを紹介したのは日系2世のヘラルド丸井(90)だ。後にスポーツ庁長官、ペルー日系人協会会長を歴任した重鎮だ。「加藤さんの活躍は日系人の誇り。特に父たちは彼を尊敬した」という。
 2019年は日本人のペルー移住120年、日系人は約10万人を数える。暗い歴史もあった。第2次世界大戦で敵国となり、移民の一部が米国の強制収容所に送られた。父が広島、母が福岡出身の丸井は1世と2世の違いを説明する。「親世代は出しゃばらないようにした。子ども世代は表に出て頑張った。僕らはペルー人だから」
 アサトは両親が沖縄出身。「小学校は日本人学校。沖縄の方言で話したら笑われた。それから話さなくなった。私は日本人ではない。ペルー人として生きてきた」ときっぱりと話した。

ルイサ・フェンテス(右)を指導する加藤明=1968年(ペルー・バレーボール連盟提供・共同)
ルイサ・フェンテス(右)を指導する加藤明=1968年(ペルー・バレーボール連盟提供・共同)

 ▽開花
 加藤はブラジル、西ドイツ(当時)、チリでも指導者として招かれ、ペルーと行き来する。74年世界選手権(メキシコ)がペルー代表チームを率いた最後となった。
 82年、リマ市内のリカルド・パルマ病院に入院。栄養士として勤務していたピランチョが看病した。「アキラは見舞いに来た昔のメンバーの面会を全て断った。ダンディーだったから、弱った姿を見せたくなかったのでしょう」
 加藤が同病院で亡くなった翌日、遺体は思い出が詰まった「ボンボネラ」に移された。弔問を受けた後、元選手らがひつぎを担ぐ。「上を向いて歩こう」の愛唱歌が静かに流れた。その後もひつぎは友人や市民に担がれて国立競技場を一周する異例の展開になり、ペルーの恩人を悼んだ。
 教え子たちはコーチになり、マエストロの技術と規律を伝えた。88年ソウル五輪で銀メダルを獲得、まいた種が花を咲かせる。バレーボール関係者は「アキラが土台を築き、今も継承されている。ペルーはアキラを忘れない」と口をそろえた。
 ペルー日本大使公邸前、通りの中央分離帯に「アキラ・カトー記念碑」が立つ。「チャンピオン精神」をたたえた言葉が刻まれている。(文、写真・原田寛、敬称略)

取材後記

人間力が鍵

ペルー
 

 加藤明がパイオニアとなり、海外のチームを指揮する日本人が続いた。日立女子バレーボール部総監督の菅原貞敬(すがわら・さだとし)(80)もその一人だ。
 菅原は1960年世界選手権に日本代表で加藤と共に出場、64年東京五輪代表で銅メダルを獲得した。「尊敬する大先輩」の後を追い、アラブ首長国連邦男子に続いてケニア女子を指導、2000年シドニー五輪でアフリカ勢初出場を果たす。
 「加藤さんの苦労が分かった。バレーだけなら教えられる。コミュニケーションが取れない。泣きましたよ」。言語、宗教、習慣が違う中、選手を引きつける「人間力」が成功の鍵になることを知る。スポーツに限った話ではない。(敬称略)

 

 

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