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「ときを結ぶ」(4) 「伝える水俣」

2019.9.16 13:22 共同通信

人生決めた世界的写真家

  差別と分断の地を撮影 魂の言葉、子どもらに

 食文化を探求するフォトジャーナリスト森枝卓士(64)が写真を本格的に始めたのは高校生の時だ。きっかけは世界的写真家ユージン・スミス(1918~78年)との出会いだった。
 71年、公害病の原点とされる水俣病の実態を撮影するため、森枝が暮らす熊本県水俣市に写真家は移り住んできた。仕事には厳しいが、人懐っこくて温かい人柄。「ユージンは、田舎の少年に世の中を意識するきっかけを与えてくれた」

水俣の昔からの海岸が残る岬を訪れた森枝卓士。岬の反対側は水銀を含むヘドロを埋め立てた公園になっている=熊本県水俣市
水俣の昔からの海岸が残る岬を訪れた森枝卓士。岬の反対側は水銀を含むヘドロを埋め立てた公園になっている=熊本県水俣市

 ▽親子の葛藤
 森枝が4歳だった59年11月2日。水俣病による漁業被害の補償などを求めた漁民が、新日本窒素肥料(後のチッソ)水俣工場に乱入した。自宅はすぐ近く。祖母に手を引かれて工場を隔てる小さな川の手前に立ち、怒号やガラスが割れる音を聞いた。「中は見えないが、音がすごかった」と語る。
 少年時代、社会問題にさほど関心はなかったが、雑誌でユージンの作品を見て感動した。社会的なテーマを扱っているのに美しい。その写真家が水俣にやってきた。居場所を知って顔を出すと、初対面なのにバッグを手渡された。助手のようについて回った取材は、チッソを擁護する人々の集会。高揚した気分で家に帰ったら、父親が顔を見るなり怒鳴った。「こん、ばかもんが」
 両親は同社社員。従来の労働組合の闘争方針に批判的だった父親は新労組に加入、集会にも参加していた。会社を「告発」しに来ただろう米国人写真家の行動を苦々しく見ていると、横に自分の息子がいて、仰天した。「こんなことするのなら親でも子でもない」。接触を厳しく禁じた。
 世界に衝撃を与えた写真集「水俣」(ユージン・スミス、アイリーン・美緒子・スミス著)は内緒で通い続ける森枝の姿をこう記す。「彼は写真に関心があり、ジャーナリスト志望で、ユージンと話をしたかったのだ」
 撮影した写真を見せると、気軽にアドバイスしてくれた。「今、思うとすごいよね」。森枝は続ける。「水俣病患者に初めて接したのはユージンと一緒に行動してから。水俣に住んでいても出会うことはなく、話題にならなかった」。抑圧を嫌う写真家の姿勢を通し、社会問題に深い関心を寄せるようになっていた。
 ▽災厄と語り部
 鹿児島県伊佐市にある曽木発電所遺構。1906年、チッソ創業者野口遵(のぐち・したがう)が設立した曽木電気はチッソのルーツだ。「ここに水力発電所が建設されて水俣に工場ができ、仕事を求めて天草から多くの人が渡ってきた」

 鹿児島県伊佐市の曽木発電所遺構。この電力を用いチッソの前身となる会社が水俣で操業した
 鹿児島県伊佐市の曽木発電所遺構。この電力を用いチッソの前身となる会社が水俣で操業した

 森枝の父も昭和初期、家族で天草から来た。水俣は企業城下町へと発展する一方、豊かな海に生きる人々に災厄をもたらし、地域は分断された。
 水俣病の公式確認は56年、国がチッソの排水が原因と公害認定したのが68年。患者と家族は苦しみと貧困の中、差別と偏見にさらされ続けた。
 杉本肇(58)の母栄子は、魂の深部に響くような水俣病の語り部だった。代々網元の家。杉本の祖父は水俣病で亡くなり、両親も発病して苦しんだ。ただ、語り部としての母の姿は見たくなかった。「つらい思い出がよみがえる」からだ。
 2008年に亡くなった母の葬儀で心境に変化が起きる。いじめに遭った子どもに栄子の言葉は届いていた。「勇気をもらった」などのメッセージが多数寄せられ、家に弔問に来る子も。「差別が一番つらかったと母は言った。差別されたからこそ、相手を憎んだり恨んだりしない。深い覚悟で生き方を語る言葉が現代の子どもたちに勇気を与えたのではないか」
 子どものために語ろう。杉本は母の死後、語り部になった。栄子を知る森枝が「最近、似てきたんじゃない」と言うと、「よく言われる」と杉本。不思議な話だが、と笑いながら「亡くなった後になって母に相談する機会が増えた。東日本大震災があり福島の事故が起きた。あんただったら、何を語るの? そんなことを問いかけます」。
 ▽正しい道を
 今、ユージンが住んだ家は雑草が生い茂る空き地だ。頻繁に通った森枝だが、「家がないと、昔の記憶がはっきりしない」。90歳を超えた父親に会った。当時について聞くと、穏やかな笑みを浮かべ「よく覚えていない」。往時はかなたにある。
 写真家に憧れた高校生は大学を卒業後、フォトジャーナリストとしてアジアを中心に活動し、戦場取材も経験した。だが、日々の暮らしを知る大切さを痛感し、人々の営みを食から探る方向へと仕事をシフトさせた。
 教えている大学で学生に言う。「歴史と文化の違いを相対化したら、人に寛容になれる」。ユージンとの出会いをきっかけに、人々にきちんと向き合いながら世界各地を歩いてきた実感である。
 高校卒業の前後にもらった写真がある。ユージンはこんな言葉を書き添えてくれた。「君が今後、どのような道を歩むにしても、その道が正しいものであるように」(敬称略、文・西出勇志、写真・堀誠)

生誕百年で注目、映画化も

熊本県水俣市、曽木発電所遺構(鹿児島県伊佐市)
熊本県水俣市、曽木発電所遺構(鹿児島県伊佐市)

 水俣病を世界に伝えたユージン・スミスは20世紀を代表する写真家の一人。生誕100年、没後40年だった昨年から、その作品や行動に再び、注目が集まっている。
 太平洋戦争下、従軍カメラマンとしてサイパン、硫黄島などでの戦争を撮影。沖縄戦で日本軍の砲弾を受け、戦後もその傷に苦しみながら「カントリードクター」「スペインの村」などの秀作を数多く発表した。水俣には3年間住み、患者らを撮影した。
 昨年はテレビなどで特集が組まれ、米人気俳優ジョニー・デップの主演による映画「ミナマタ」(原題)の製作が決まった。公開時は大きな話題となりそうだ。

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