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村上春樹さん特別インタビュー②

2019.6.18 6:00 共同通信
デビュー以来40年間の村上春樹作品から
デビュー以来40年間の村上春樹作品から

 

殺し、再生する神話 
大切なリアルな感触 物語の重要な役割

 

 ―「騎士団長殺し」の題名通り、この小説では騎士団長が殺されます。「ドン・ジョバンニ」の冒頭で一度殺される騎士団長が、小説の中でもう一度殺されるわけです。

 村上 僕の小説のタイトルに「殺し」という言葉が入るのは初めてかと思います。でも、例えば「ノルウェイの森」も自殺する人が多い物語ですが、その人たちは、自分で自分を殺す人たちなのです。あの小説でも死ぬこと、つまり殺すことが大切な意味を持っていました。

 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でも「世界の終り」に入っていくことは死と同じです。「海辺のカフカ」で「僕」が深い森に入っていくのも死の世界に入っていくことです。

 ▽物理的な手応え

 ―「1Q84」では、カルト宗教のリーダーが自分を殺せと、女主人公の青豆に語っています。彼女が愛する天吾を生き残らせるためにはリーダーを殺せと言うのです。

 今度の「騎士団長殺し」では、行方不明になっている少女まりえを取り戻すためには、騎士団長を殺せと、騎士団長自身が言います。そして、主人公が出刃包丁で騎士団長の小ぶりな心臓を刺し突くのですね。

 村上 もちろん物語の中のことですが、その殺すときの感触が大切になります。「海辺のカフカ」ではジョニー・ウォーカーが猫をメスで殺します。あの切り裂く感触が重要なのです。物理的な手応えというか。

 ―さらに詳しく、話していただけますか。

 村上 殺す行為は、神話的に言えば再生です。何かを殺して、再生する。父親殺しという神話もありますよね。何かを殺すことで新しい生命が生まれる。それは神話ではよくある話です。死んだ体から芽が出てきて、みたいな。日本の「古事記」にも、そんな話がありますね。

 ―死と再生の話ですね。

 ▽フィジカルな効果

 村上 現実の世界で、生身の生きている人間を殺すことはできません。しかし「騎士団長殺し」のような物語の中で「殺す」ということを人は擬似的に体験することができます。これは物語の重要な役割の一つです。そしてこの物語において「イデア」としての騎士団長を「殺す」ことは、象徴的な行為としてどうしても必要なのです。

 ―他の村上作品にも共通したことですか。 

 村上 僕は小説を書き出した頃からフィジカルな効果というものをすごく目指していました。例えば「風の歌を聴け」の読後に「ビールがすごく飲みたくなった」という人が多かった。それは僕にとってとても嬉しいことでした。

 ―「ノルウェイの森」もそうですか?

 ▽飛び散る血しぶき

 村上 「ノルウェイの森」ではセックスの感覚をできるだけリアルに、直接的に書きました。そのことでいろいろ批判されたり、嫌われたりしましたが、でも触知できるリアルさは、僕にとってすごく大事なことなんです。それを抜きにしては物語は書けない。

 日本の近代小説には、直接的な感触がリアルに書かれたものは意外と少ないような気がするのですが、僕が全作翻訳したレイモンド・カーヴァーの小説には直接的な感触がたくさん描かれていますよ。そういうところから少しずついろんなものを学んできました。

 ―「騎士団長殺し」では、出刃包丁の刃先が騎士団長の細い身体を突き抜け、背後まで突き出る。騎士団長の白い衣服も主人公の手も、真っ赤な鮮血に染まっています。

 村上 実際に自分で包丁を持って、相手を突き刺し、血しぶきが飛び散る手応えが、物語という通路を通して読者にじかに伝わることが大切だと思っているんです。あくまで一つのシミュレーションとして。フィジカルな部分からしか生まれてこないものがあります。

 

心の闇に潜む暴力性 
歴史を背負って生きている 基準となる想念を作る小説

 

 ―この小説の主人公は画家です。油絵の肖像画を描いています。

 村上 油絵を描いたことがないので、本で学んで書きました。でもあとで何人かの絵を描く人に訊(き)いたら、間違ったところはとくにないと言われました。絵も小説も、ゼロからものを創り出すという基本は同じですから。

 ―主人公が滞在する家は高名な日本画家・雨田具彦(あまだともひこ)の家です。その雨田が若いとき、ウィーン留学中に、ナチス・ドイツによってオーストリアが併合されます。その体験が書かれています。また同じ頃に、雨田の弟である継彦が日中戦争に従軍して体験した南京戦のことも描かれています。

 村上 物語は主人公が暮らす家の敷地から騎士団長を掘り出すところから、大きく動き出します。一種の過去を引っ張り出してよみがえらせる話です。

 ▽絵空事でない戦争

 ―騎士団長は「歴史的な繫がり」「過去からのメッセンジャー」かもしれないと村上さんはおっしゃっていました。

 村上 どれだけ穴を掘って隠しても、出てくる時には出てくるんです。僕らは歴史というものを背負って生きていて、それはどれだけ隠しても必ず外に出てくる。歴史は、自分たちが背負うべき集合的な記憶なのだと、僕は考えています。

 ―村上さんは、戦後の1949(昭和24)年生まれですね。  

 村上 国家の論理によって大きな戦争がおこなわれ、人々が殺し合った生々しい記憶が、まだ空気に残っていた時代でした。戦争が今も絵空事ではないという意識は強くあります。僕らが固い地面だと思っているのは、実は実は軟らかな泥にすぎないのかもしれないです。

 ▽恐ろしさを感じる

 ―戦争のような人間が持つ暴力性は現代社会の中でもありますか。

 村上 僕が小説の中で、手探りで用心深く扱ってきた、心の底の魑魅魍魎や闇の世界が、今のSNS(会員制交流サイト)とかのインターネットの仕組みの裏から、我々の表の世界にじわじわと忍びだしてきている気がします。

 心の底の闇の世界に潜む暴力性のしるしのようなものを、日常的なものごとの中に感じないわけにはいかないのです。過去から、そんなものがよみがえってくるような恐ろしさを感じることがあります。

 ―そのような社会の中で作家が果たすべき役割はどんなことでしょうか。

 村上 僕ら小説家は自由に物語を作っていく。でもその自由さの中に一本の筋として、自然なモラルがなくてはいけないと思います。基準となる「想念」をしつらえていくのは小説家の責務です。たとえそこでどろどろの悪が描かれているとしてもです。

 ―心の闇の世界を探る仕事では、1995年に起きたオウム真理教信者による地下鉄サリン事件の被害者らへのインタビュー集「アンダーグラウンド」がありますね。

 ▽宗教よりSNS

 村上 それを書いている時、小説家として、麻原彰晃が信者に伝えた物語みたいなものに、打ち勝つ物語を作り出さなくてはいけないと思いました。オウムの時代には宗教に力がありました。でも現代では宗教よりはSNSの方が、もっと直接的で強力な拡散力を持っているように感じます。SNSそのものが悪だというわけではないけれど、そういう力が現実に機能していることを忘れてはならないでしょう。

 ―「騎士団長殺し」はそのような力と対抗する物語でもありますか。

 村上 SNSに表れる暴力性はあくまで断片的で、繫がりを持っていません。僕は個人的には物語というものは、長ければ長いほどいいんじゃないかと考えています。それは少なくとも断片ではないからです。そこには一貫した価値の軸がなくてはならない。そしてそれは時間の試練を乗り越えなくてはならない。

 ―物語の力ですね。

 村上 言葉を通して、何かを実際あった出来事のように人に体験させるのは、小説にしかできないことです。そういう物語を経験するかしないかで、人の考え方や、世界の見え方は違ってくるはずです。生身の人間を通過させる物語を書きたい。小説が持つ、その力に本当に期待しています。(聞き手は文芸評論家・湯川豊氏、共同通信編集委員・小山鉄郎)