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生き証人、若者に自由説く 冷戦下、逃亡し運び屋に ドイツ

2019.4.5 22:21 共同通信

 アートの街として知られ、奇抜なデザインの建物が無秩序に立ち並ぶベルリンは秋晴れの中、観光客でごった返していた。市内に点在する「ベルリンの壁」を訪れたハルトムート・リヒター(70)の白髪交じりの髪に、強い日差しが降り注ぐ。当時の灰色のまま残る壁を前に、表情は一段と硬くなった。
 命懸けで東ドイツから西ドイツに渡った後、東側市民の逃亡を手助けする「運び屋」として暗躍した記憶がよみがえる。
 苦難の末に壁を乗り越えた人生。現在は学校などで自身の体験を語り、若者らに自由の尊さを説く日々を送る。「いまだに活動するのは、過去を美化したり、軽視したりする向きに腹が立つからだ」
 ▽嫌悪
 第2次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)で知られるナチスの圧政後、東側では戦後も独裁体制が続いた。やっと手に入れた開かれた国を守るという思いがリヒターを駆り立てる。
 東西冷戦まっただ中の1960年代。16歳のリヒターは、東ドイツの秘密警察に学校から連行された。「髪が長いからと言って社会主義への忠誠心が薄いわけではない」。リヒターは必死に訴えたが、伸ばした髪を力ずくで切られた。ローリング・ストーンズやビートルズなど西側のバンドに憧れた若者の間ではやった長髪を、当局は「退廃的」と取り締まった。
 親戚の家からベルリンの壁の建設を目撃したのは13歳の時。東ドイツ政府は「防御壁」と呼んだが、国民を閉じ込めるための壁だと知っていた。

保存されている「ベルリンの壁」を訪れたハルトムート・リヒター。現存する壁の多くは色とりどりの落書きで覆われているが、ここは冷戦当時の灰色のまま残されている=9月、ベルリン(共同)
保存されている「ベルリンの壁」を訪れたハルトムート・リヒター。現存する壁の多くは色とりどりの落書きで覆われているが、ここは冷戦当時の灰色のまま残されている=9月、ベルリン(共同)

 髪を切られてからは、体制への嫌悪感を抑えられなくなった。「社会主義は人間中心の世界観を掲げているのにこれだ。国を出たくなった」
 66年1月、共産圏のチェコスロバキアと永世中立国、オーストリアの国境から西側に渡ることを思い立ったが、列車内で逮捕されてしまう。「泣きながら両親に後悔の手紙を書いた」。約3カ月の取り調べの末、執行猶予付きの有罪判決を言い渡された。
 ▽脱出
 気が付くと病院のベッドに横たわっていた。66年8月26日深夜、18歳のリヒターは国境の運河を泳ぎ、ついに東ドイツから西ベルリンに逃げた。「たった1キロなのに4時間かかった」。有刺鉄線や監視用の照明を避け、暗い場所をたどって少しずつ移動し、人の声が聞こえると水の中でじっと耐えた。未明に岸にたどり着いた時には体が冷え切り、疲労困憊(こんぱい)していた。
 西ベルリンから北部ハンブルクに渡り船員に。「デトロイトにシカゴ。名古屋、東京、横浜にも行った」。世界を股に掛け自由を満喫した。
 72年から東西関係に改善の兆しが見られ、リヒターは東ドイツを訪れることが可能になった。73年、知人に頼まれ、小屋で待っていた女性を車のトランクに隠し、東ドイツから西ベルリンに連れ出した。知人らからの依頼は後を絶たず、計33人の逃亡を手助けした。
 だが慢心と油断が落とし穴になった。リヒターは警察に監視されていた。75年3月3日深夜、東側の検問でトランクに警察犬が飛び乗り「運び屋」の活動が発覚した。頭の中が真っ白になり、死を覚悟した。「俺を撃て」と絶叫した。
 収監中は心理的な拷問にさらされた。仲間の密告を要求されて断ると、両親からの手紙が届かなくなり、テレビを見ることも禁じられた。あまりのつらさにハンガーストライキを行い、繰り返し栄養失調になった。
 苦しみの人生は5年余りも続いたが、西ドイツ政府が解放に動き、80年10月2日に再び西ベルリンの地を踏んだ。
 ▽分断
 89年11月9日、ベルリンの壁が崩壊して東西統一への道が開かれた。東ドイツの国民車トラバントがゆっくりと西ベルリン側に滑り込む場面に目頭が熱くなった。自らも壁のあったブランデンブルク門前に駆け付けたことを今でも鮮明に覚えている。
 あれから約30年。統一で西側に吸収される形になった旧東ドイツは経済が崩壊、不本意な転職を余儀なくされた国民も多い。収入面の格差を感じる者もあり、いまだに見えない壁が残る。
 不満は2015年、中東から難民や移民が押し寄せると爆発した。統一後、苦労して生活基盤を立て直した旧東ドイツ国民に、大量流入を新たな「脅威」と感じた者は少なくない。
 旧東ドイツでは排外主義的政党が世論調査で首位に立つなど破竹の勢い。欧州各地で排外主義が台頭して国境の徹底監視を求める声が強まり、欧州連合域内の移動の自由が揺らぐ。リヒターは「このままでは、社会の分断がさらに深まってしまう」と不安を募らせる。

中東などからの移民であふれるベルリンの移民街。トルコ、シリアなどの商店やレストランが並び、買い物客でごった返している=9月(共同)
中東などからの移民であふれるベルリンの移民街。トルコ、シリアなどの商店やレストランが並び、買い物客でごった返している=9月(共同)

「自由にどこへでも行ける欧州だけは譲れない」。東西分断の悲惨さを知る生き証人として、激動の時代と向き合い続ける覚悟だ。(敬称略、文・桜山崇、写真・澤田博之)

 

 

 

 

取材後記

新たな壁 

ドイツ南部ミュンヘンのノイペルラッハ地区。閑静な住宅街を抜けると、うっそうとした茂みの奥に壁がそびえ立つ。3・6メートルのベルリンの壁よりも高い4メートル。難民用施設の建設計画が持ち上がったことを受け、近隣住民が訴訟を起こして2016年に建設させた「防音壁」だ。
 ミュンヘンは15年、難民や移民の窓口となった。中央駅に次々と列車が到着し、大勢の難民らがホームに降り立つと、足を止めた市民が温かい拍手を送った。戦争を逃れた難民らへの同情論が大勢を占めていた。
 雰囲気を一変させたのは欧州各地で起きたテロ。実行犯が難民らに紛れて欧州に来たことも明らかになり、治安への不安が一気に強まった。ノイペルラッハの壁は、寛容な社会の維持がいかに難しいかを示している。(桜山崇)

 

SDGsの第10目標 人や国の不平等をなくそうドイツ・ベルリン

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