第3部「平和国家、続けますか」(2) 「ごめん、帰れない」 赴任先は「戦地」(検証なき社会②)
国際貢献の実績づくりのために、明かされることのなかった「戦地」の実態。自衛隊の動向ばかりが注目され、報道機関も目を向けなかった文民警察官の赴任地では、何が起きていたのか。

カンボジア北西部アンピル。1993(平成5)年4月14日、国連平和維持活動(PKO)要員の文民警察官平林新一(ひらばやし・しんいち)(63)は一人で国連の車を運転中、銃声と同時に自動小銃を持った男たちに囲まれた。
車から引きずり出され、冷たい銃口がこめかみに突きつけられた。「ごめん。お父さん、帰れないや」。死を覚悟し、目をつぶって日本の家族を思った。数分が経過しただろうか。目を開けると、ロケット砲や自動小銃を構えながら車で逃げる男たちの姿が見えた。国連の車は奪われた。
赴任先の村には至る所に地雷が埋まり、ロケット砲や銃が家の軒先に転がっていたが、自動小銃に対応できる防弾チョッキも防弾ヘルメットも支給されていなかった。

各地に配置された同僚も「戦地」の現実を目の当たりにする。
文民警察官は、現地警察へのパトロールの指導などが主な任務で、武器の携行は禁じられていた。しかし、別の地域にいた同僚は不在中に宿舎を襲われ、ひそかに自衛用の自動小銃を購入した。宿舎付近にロケット弾が着弾する事件もあった。
「PKO要員を殺害する」。不穏な予告は後を絶たず、平林は襲撃に備えて宿舎の周囲に土のうを積み上げた。外出できない日が続き、食料や水が尽きかけていた。
首相官邸の危機感は薄かった。官房長官の河野洋平(こうの・ようへい)(81)は、文民警察官の主な任務は地元警察の交通指導だと思っていた。「派遣反対が強かった自衛隊の情勢ばかり気にし、警察官には目が行き届いていなかった」
惨劇は平林の事件から3週間たった5月4日に起こる。オランダ軍の車列と共に平林の拠点を訪ねてきた高田晴行(たかだ・はるゆき)=当時(33)=が武装勢力に銃撃され死亡した。
「機会があれば再び海外で仕事をしたい」と、周囲に語る高田の言葉を聞いていた平林。帰国後、活動内容をまとめた警察内部の報告書に、高田の遺志もくんで思いをぶつけた。
「日本として最悪の状況にどう対応すべきか議論が必要だった」「われわれは覚悟はできていた。ただ建前だけで派遣されるならごめんだ。命の重みを忘れないでもらいたい」。日本政府への要望欄に記した。
帰国した他の警察官も報告書を提出した。しかし、蓄積されたPKO活動の貴重な経験が、生かされることはなかった。

当時を知る警察幹部は明かす。「(現地での)惨状が明らかになれば、国際貢献という国策に泥を塗ることになる。報告書には触れてはいけない雰囲気があった」(敬称略、年齢・肩書は新聞掲載当時)
高田警部補射殺事件 1993(平成5)年5月4日にポル・ポト派とみられる武装勢力に射殺され死亡。同行していた邦人文民警察官4人も重軽傷を負った。国連平和維持活動(PKO)要員で唯一の日本人犠牲者だった。岡山県警出身。