(20)北朝鮮、日本 飢えと絶望、覚悟の脱北 父の戸籍謄本、日本と結ぶ 夫婦で開いた焼き肉店

新月の夜だった。
1998年4月、赤塚峰女(あかつか・みね)(45)は北朝鮮北東部の咸鏡北道(ハムギョンプクト)・会寧(フェリョン)にあった家を出た。案内役の夫婦と合流し、暗闇の中を歩き続ける。
前年に父が病死し、生活は困窮を極めて日々の食料にも事欠いていた。「このままでは飢え死にする。もう行くしかない」。約2時間後、中朝国境を流れる豆満江(トマンガン)にたどり着いた。
胸まで水につかりながら、案内人と手をつないで川を渡る。対岸で待っていた高齢の女性に連れられ、朝鮮族の人が住む家にかくまわれた。中国に入った安心感と、いつ公安当局に摘発されるかわからない不安が入り交じり、まんじりともせず夜を過ごした。
心の支えとなったのは、大切に携えてきた1枚の紙だ。「これを持っていれば、日本に行く道が開ける」。父がそう言って峰女に託した、日本の戸籍謄本だった。
▽帰国事業
幼いころから、不思議に思っていたことがあった。父方の祖母が話す朝鮮語が、周りの大人たちとは違って滑らかではなく、外国語のようにも聞こえていた。小学校に入った頃、祖母や父は日本で生まれ育ったと教えられた。
東京・浅草出身の父は日本人だったが、祖母は夫に先立たれ在日朝鮮人と再婚した。再婚相手は60年7月、家族と共に帰国事業で北朝鮮に渡った。父は「赤塚勇(あかつか・いさむ)」の名前を捨て、「金勇(キムヨン)」として生きていかなければならなかった。
母の朴老金(パクノグム)(75)は在日2世で、山口県宇部市で生まれた。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の強い影響を受けていた母方の祖母は、北朝鮮が「地上の楽園」だと信じ、帰国事業に加わることを決意した。
「私と父は反対したけれど、母は『朝鮮人として祖国で生きる』と言い張った」。60年9月、新潟港から家族7人で帰国船に乗った。

北朝鮮で金勇と朴老金が家族と住むこととなったのが会寧だった。勇は炭鉱で、老金はれんが工場で働いていた。2人は帰国者仲間の紹介で知り合い、結婚する。勇が24歳、老金は21歳。夫婦の間には3人の娘が生まれ、末っ子が峰女だった。
▽苦難の行軍
「金峰女(キムボンニョ)」として育ってきた峰女は、日本に対して「お金持ちの国」という程度のイメージしかなかった。
情報が厳しく統制されている北朝鮮では、外国のニュースに触れることはほとんどない。「中国のラジオ放送を聞いていただけで捕まった人もいた。外国がどんなところか全く知らない、かごの中の鳥だった」
自らのルーツが日本にあることを知っても、それを深く考えることはなかった。高校を卒業して農業に従事していた峰女にとって、そして家族にとって、日々の生活をしのぐのが精いっぱいだったからだ。
90年代後半、北朝鮮は「苦難の行軍」といわれる深刻な食糧難に直面していた。
「なぜ、こんなところに連れてこられたのか。日本に帰りたい」。勇は、怒りと不満をよく口にしていた。働きづめの日々を送った勇は、栄養不足がもとで病に倒れた。
周囲で餓死者が続出し、脱北者も相次いでいた。「中国に逃げるしかない」。家族で話し合うと、勇は大切に保管していた戸籍謄本を取り出した。自分が日本人であることを証明する、唯一の書類だった。
「これを日本大使館に見せれば、日本人の子どもとして扱ってくれる」。ほどなくして、勇は息を引き取った。
▽日本国籍
中国に渡った峰女は、中国人ブローカーの手引きで、東北部の黒竜江省牡丹江市に身を潜めた。
8カ月後に脱北した老金との再会を果たし、朝鮮族の男性と結婚して子どもを生んだ。一方、日本大使館にも連絡をとり、日本人としての保護を求め、調査が開始された。

2002年4月、峰女と老金は公安当局に身柄を拘束される。勇の娘であることを証明するため、峰女が北朝鮮の身分証を入手しようとして、居場所が発覚したのだった。
だが、連絡を受けた大使館側の尽力で同年末に2人は釈放され、夫と子どもとともに4人で日本に向かうことが決まった。成田空港に降り立ったのは大みそかだった。
日本国籍が認められた峰女は、日本語を学びながら、早朝から深夜までスーパーや飲食店などで必死に働いた。友人もおらず、つらさを感じることもあったが「北朝鮮の暮らしを考えれば乗り越えられた」。2人の姉も脱北し、日本に来たことも気持ちを後押しした。
峰女は11年、東京・赤坂に焼き肉店「美成家」を開く。店名は2人の子どもの名前にちなんだ。夫婦で切り盛りする店は人気となったが、コロナ禍で売り上げは3分の1ほどに減った。それでも、峰女はへこたれない。21年12月には、群馬県邑楽町に2号店を開いた。

「今やれることをやり抜きたい。こうやって生きているのだから、落ち込んだり諦めたりしたら、もったいないでしょう」。白いエプロンをまとった小柄な峰女が、照れくさそうに笑った。(敬称略、文・佐藤大介、写真・矢辺拓郎)
◎取材後記「記者ノートから」
日朝両国の赤十字によって1959年から84年まで行われた北朝鮮への帰国事業では、9万3千人が海を渡った。赤塚峰女の両親も、その数に含まれている。この中には在日朝鮮人の妻ら約7千人の日本人もいた。
帰国事業が行われた背景には、労働力や体制宣伝に利用したい北朝鮮と、在日朝鮮人を国外に出したい日本の思惑があった。国家同士の利害の中で北朝鮮に向かった多くの人たちが、自由がなく困窮した暮らしの苦しみを味わったことだろう。
峰女の母の朴老金は、テレビで北朝鮮の映像が流れると「当時を思い出す」とチャンネルを変えるという。峰女と老金は北朝鮮での生活を話しながら、何度も表情を曇らせた。そこににじむ悲しみが、自らが経験した絶望の深さを物語っているようだった。(敬称略)
筆者は共同通信編集委員、写真は共同通信写真部員。年齢は2022年11月1日現在
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