(7)ロシア 極寒サハ共和国、伝統守る 過酷な自然、時代変化も 極東の東洋系民族

霧に包まれた真っ白な大地に太陽が低くぼんやりと浮かび、日中も薄暗い。永久凍土に覆われ、北半分が北極圏に位置するロシア極東サハ共和国。2021年12月に訪れると、温度計は氷点下50度を指していた。短い夏との寒暖差が100度近い過酷な環境下、東洋系のヤクート人(サハ人)は時代の荒波の中で、独自の文化を守り続けてきた。
▽つなぐ
「このペチカ(暖炉)は14人の孫に見せるために作った。自分が懐かしむためじゃない」
共和国の首都ヤクーツクの南約70キロ、人口2千人超のオイ村。ペラゲヤ・セミョーノワ(78)は生まれ育った森の中の家を再現した小屋で、まきを火にくべた。母屋近くにある小屋は、娘婿が建ててくれた。ここにいると、隣家が数キロ離れ、寒さに強いヤクート馬の放牧などをしていた幼い日々を思い出す。

1973年、60キロほど離れた集落からソ連の集団化政策の拠点だったオイに移住した。学校で長年音楽を教え、養子を含む6人の子を育てた。「周囲に親のない子がいれば育てるのが当然のことだった」
合間に畑や家畜の世話もした。「90年代は社会が混乱したが、食料があり都市よりマシだった。若く体力もあった」
子5人は村を離れ、一番下の娘だけが村に残る。夫と2人暮らし。国営農場のトラクター運転手だった夫は91年のソ連崩壊で失業。出稼ぎで各地を転々とした長年の苦労がたたり病身だ。
村には天然ガスによる温水暖房も通うが、慣れ親しんでいるのは暖炉の火だ。煙で客人を清め、パンケーキを焼き、ホムス(口琴)を吹く。どれもヤクート人の伝統で、独自のシャーマニズム信仰とつながる。
「自由な社会になり、自分も歌謡団の公演で海外に行った。だが若者は仕事のため都会に出て、ロシア語や英語ばかりを使う。ヤクート語を忘れないか心配で、孫が来れば歌や言葉を教える。伝統をつなぐために」
▽揺らぎ
サハ共和国は帝政ロシア時代に流刑地として政治犯らが送られ、ソ連時代になると各地から入植が奨励された。資源開発やインフラ建設を担った彼らの子孫が定住し、人口は100万人弱。約半数がヤクート人だが、4割近くはロシア人だ。
「ヤクート人は帝政時代を生き抜くため18世紀ごろロシア正教徒になったが、宗教が否定されたソ連時代でも(夏至を祝う民族最大の祭り)イシアフなどの伝統を守り続けた」。全ロシア史跡・文化財保護協会のアレクサンドル・ジャコノフ(48)は話す。
ソ連末期にヤクート人の民族意識が高まり、ロシア人との摩擦も生んだ。「今は欧州文化も取り入れつつ、伝統を守っている」。ソ連時代にロシア語だった共和国の公用語はヤクート語と併用になっている。
だが、現実には若い世代を中心にロシア語化が進む。共和国外への進学や就職にはロシア語が上手な方が圧倒的に有利だ。良い職を求めて遠隔地の村から都市へと人が移動し、伝統は揺らぐ。
オイ村も人口維持に苦慮する。ソ連時代にあった国営農場や畜産研究所は姿を消した。公民館や幼稚園は老朽化し、資金不足で改修も進まない。高校までは村にあるが、大学は都市に出るしかない。医師や教師は住宅支援などで呼び寄せる。
村長ナウム・ウスチーノフ(34)は「村で育った若者が戻って来られる環境を整えるのが自分の役目。車の普及で往来しやすくなり、人口は少しずつ増えている」と話す。新型コロナウイルスの街からの流入は警戒するが、人や物の往来は生命線で、絶やせない。
▽記憶
ヤクーツクの北80キロ、人口1万人ほどのナムツィ村出身の元教師ニコライ・モスクビティン(71)は、3人の娘の将来を見据え、ロシア語教育を徹底した。婦人科医の妻エフドキア(69)は、ナムツィからさらに北700キロにある北極圏の村で生まれた。結婚後の数年はその村で働いたが、子どもの教育を考えナムツィに移った。小さな村ほど人口の流出は激しい。
娘は3人ともモスクワに進学したが、三女リューバ(34)はヤクーツクの婦人科で働いている。医学部を卒業しモスクワで数年間働いた後、母が体調を崩したのを機にUターンしたのだ。
「都会に飽き、寒い冬や澄んだ空気が恋しくなった」。休日は車で2時間かけて両親の元に帰る。

エフドキアはかつて「チャンスがあればどこへ行くのも自由」と、娘たちを故郷から送り出した。だが、今は「末っ子が親の世話をするのが伝統」と、リューバの選択を喜んでいる。
カナダに移住した長女は孫にヤクート語の名を付けた。亡き祖父の夢を見た翌朝にはパンケーキを焼いたと知らせてきたという。
「先祖や年長者を敬う伝統を幼少期に見て育った記憶は、住む場所や時代が変わっても忘れることがない」(敬称略、文と写真・八木悠佑)
◎取材後記「記者ノートから」
ロシアの中でも特に極寒の地にあるサハ共和国は天然ガスや石炭、ダイヤモンドなど資源が豊富で、古くから労働力となった流刑者や入植者の子孫が住み着いた。冬は夜が長く、氷点下40~50度の極限の寒さは日常で、全身を包む分厚い防寒着が欠かせない。深夜まで薄明るかった夏の訪問時とは別世界だ。
ヤクート人は南西のバイカル湖周辺から15世紀までに移り住み、牧畜を営んだ。17世紀にロシア人が植民地化、正教やソ連の定住化政策を経ながらも独自の文化を保持した。だが現代社会の荒波も押し寄せ、酒の過剰摂取などの問題も抱える。
セミョーノワは伝統のパンケーキに自家製ジャムやお茶で、顔立ちの似た日本人を笑顔で迎えてくれた。家の外に広がる雪原のずっと先にも住む人がいる。そのたくましさよ。(敬称略)
文と写真は共同通信ウラジオストク支局長▽年齢は2022年8月1日現在
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