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ささげられた人生に畏敬 むなしいイベントの中で  大沢真幸(社会学者)  リレー評論「解読オリンピック」

2021.8.2 11:00 共同通信

 大橋悠依選手が競泳女子400メートル個人メドレーで金メダルをとったレースを見た。直後に

大沢真幸さん
大沢真幸さん

私はこれを書いている。大橋選手の勝ち方はまさにあっぱれ。前半の背泳ぎまでにトップに出て、苦手だった平泳ぎで後続との差を広げ、自由形でもその差を縮めさせなかった。王者の勝利だ。

 ここで思う。私たちはどうして五輪を見たいのか。何が私たちを引きつけているのか。私たちが見たいもの、それは、英雄、神々の域に近づかんとする英雄だ。英雄は、人生の全てをささげるほどの「崇高な目的」をもつ。ここで崇高な目的とは、それぞれのスポーツの技術を極め、勝つことである。五輪では、そこに「ネーション(国民)の大義」が加わり、目的の崇高性が増すようになっている。私たちは、英雄たちを畏敬の念で見て、人間の偉大さを知る。

 古代ギリシャのオリンピックにもそのような意義があった。ギリシャ人は「見ること」を重視した。演劇やオリンピアの競技会は、神々や英雄を見るための機会だった。

 だから、無観客での五輪開催は、このイベントの、本来の意義との関係では、致命的にも近い欠落なのだが、幸い、現代ではテレビなどのメディアがある。私たちは、英雄たちの戦いと、誰かの勝利を見て、感動する。

 そしてどうなるのか。よし、私も自分の「崇高な目的」のために頑張ろう、と勇気をもらう…というのが紋切り型の答えだが、悲しいことに、そうはなるまい。

 私たちには、いや厳密に言えば、私たちの個々の人生ではなく私たちの現代社会には、アスリートのそれに匹敵するような崇高な目的・大義がないからである。このことを、この東京五輪が示している。個々の競技ではなく、五輪というイベント全体が、である。

 五輪にも大義がある。スポーツを通じて平和でより良い世界を構築すること。日本人はこれに「復興」「コロナに勝った証し」などの価値を付加しようともしてきた。しかし私たちは知っている。もし五輪の目的がこれらの大義への貢献だけだったら、五輪は開催されなかった、と。開催されたのは、五輪に経済的価値があるからである。

 経済的利益は、他のどんな目的と比べてもつまらないもので、崇高さのかけらももたない。もし自分の人生の目的が、人類の生存の目的が、経済的利得にしかないとすれば、それはなんとむなしいことか。だがその経済的利益のおかげで、東京五輪は救済された。五輪の大義よりも経済的利益が大事だとされたのだ。

 私たちは今、どんな崇高な目的や大義も、資本の利益の中にのみ込まれる世界を生きている。だから五輪のアスリートに憧れるのだ。そこには、私たちの社会に欠けているものがある。それにしても現代社会から大義が干上がったのはなぜか。
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 おおさわ・まさち 1958年長野県生まれ、社会学者。著書に「〈世界史〉の哲学」「ナショナリズムの由来」など