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スポーツリレーコラム

2016年02月03日

想像以上に盛り上がった日本勢V 外国出身の親方も祝福  

初優勝を報じるスポーツ紙を前に笑顔の大関琴奨菊=千葉県松戸市の佐渡ケ嶽部屋(2016年1月25日、共同) 東京・両国国技館にある東西の支度部屋は、全ての力士が準備運動をしたり、身支度を整えたりする場所である。関取衆は思い思いの場所に陣取って15日間の本場所を闘うが、一番奥の広い特等席は正横綱しか使えないという不文律がある。ただ例外もある。千秋楽の打ち出し後だけは、幕内優勝力士が東の支度部屋一番奥に座ることが許される。ここで取組後に大銀杏を結い直しながらインタビューを受け、輝く天皇賜杯を抱いて後援者らと記念撮影をする。番付最上位を意味する東の正横綱でさえも優勝を逃せば、空気を読んでいつのまにか入り口付近へと荷物を移動させている。この作業がなかなか味わい深いものだが、日本出身力士は10年、58場所連続で栄誉ある席を明け渡していたことになる。

 1月24日に千秋楽を迎えた初場所では、大関琴奨菊が2006年初場所の大関栃東以来となる日本出身力士による優勝を果たした。昇進してから2桁勝利は数えるほどで、かど番は5度とお世辞にも強い大関とは言えなかった。それでも周囲の注目度は私の想像をはるかに上回るものだった。千秋楽翌日は在京スポーツ紙6紙のうち5紙が1面で報じ、テレビのワイドショーも大々的に紹介。数年前まで不祥事が続いた角界が久しぶりに明るい話題で脚光を浴びた。外国人全盛が続く昨今の大相撲だからこそ、脇役に甘んじてきた本家の日本勢による勝利は相当なインパクトがあった。満面に笑みを浮かべ、日馬富士が譲った東支度部屋の一番奥に座る琴奨菊の姿には感慨深いものがあった。私は他競技の取材による2場所の不在を除けば、56度も外国勢の万歳三唱を見てきた。あえて国籍は明かさないが、マナーが悪く、入りきれない人数に膨れ上がった団体がどっと支度部屋に押し寄せることは恒例行事。「ホーム」であるはずの日本人力士が肩身を狭そうにして着替える姿は痛々しかった。

 ただ今回はこんな声も渦巻いた。「国技を支えたのは外国人力士」「あまり歓喜に浸るような表現は差別と捉えられる」。同じ土俵に上がれば国籍は関係ない、一人の力士の頑張りとして冷静にとらえるべきだといった意味だろう。ただ土俵の周辺はそれほど大上段に構えず、久しぶりの日本勢優勝を素直に祝福していた。ブルガリア出身の大関琴欧洲と同時に琴奨菊を指導し、常に弟子思いで温厚な佐渡ケ嶽親方(元関脇琴ノ若)もその一人。「やっぱり日本人力士が優勝したら、これだけ多くの人が喜んでくれるんだ」と、結果的に盛り上がった今場所へのおおらかな感想を口にしていた。

 

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 田井 弘幸(たい・ひろゆき)1973年生まれ。大阪府出身。96年に共同通信入社。大相撲担当からプロ野球の阪神、中日担当を経て2002年から大相撲、柔道などを担当。


2014年12月17日

「私も一緒にしびれたい」 異様な熱気に包まれる柔道男子重量級  

今年の世界選手権男子100キロ超級決勝で王者テディ・リネール(左)と対戦する七戸龍(2014年8月30日、共同) 2009年の終わりから柔道を担当している。世界選手権は10年の東京、11年のパリ、13年のリオデジャネイロ、そして今夏のチェリャビンスク(ロシア)の計4大会を取材し、2年前のロンドン五輪も見させてもらった。開催都市の風土やお国柄、出場する選手層などはさまざまで毎回新たな発見があるが、どのビッグイベントにも一貫して揺るがないことがある。それは、男子重量級の熱気だ。

 五輪の柔道は男子60キロ級の野村忠宏、女子48キロ級の田村亮子が同時金メダルで日本列島を大きく沸かせた00年シドニー大会以降、男女とも最軽量級から第1日が始まる日程が定着した。1日ごとに階級が一つずつ上がり、7日目の最終日に最も重い「超級」で締めくくられる。私が現場で見た世界選手権も無差別級を実施した東京大会を除けば同様だった。ただ最近の日本代表、特に男子は第3日までの軽量級でメダルラッシュが一段落する傾向が定番となっている。昨年の世界選手権が象徴的で、開幕から3日連続の世界制覇。だが残り4日間は1人も表彰台に立てなかった。日本男子史上初の金メダルゼロと惨敗したロンドン五輪に比べれば上々といえるものの、世界中の大男たちが一堂に会する100キロ級の第6日、個人最終戦である100キロ超級の第7日に早々と敗れ去る日本勢を見ると、やるせない寂しさ、やり切れない悔しさが何度も込み上げてくる。

 宿舎から会場に到着し、記者席に座る。最初の試合開始を告げるブザーが鳴る頃、第5日までとは全く異質、異様な熱気が場内を包む。軽量級では空席が目立つ午前中のスタンドも、ラスト2日間は既にほぼ満員。特に柔道世界一決定戦ともいえる100キロ超級ともなると、会場にいる外国人の目が血走っている。グルジアなどの旧ソ連勢や東欧勢のチーム関係者などは、拡声器を隠し持っているのかと言いたくなるほどの大声で試合中から叫びまくる。この瞬間、「ついに本番が始まったな」と感じる。ロンドン五輪もそうだった。柔道会場に向かうシャトルバスも出だしの3日間はゆったり座れて快適だったが、第4日からは徐々に混み始め、重量級の2日間はぎゅうぎゅう詰めで、海外のメディアやチームの関係者から数々の言語が飛び交う。表情は既に興奮状態で、こちらも引き込まれたほどだ。ちなみに日本は2日間とも2回戦敗退。私はひしめく他国記者に何となく遠慮しながら取材ゾーンを早々に引き揚げた。

 

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 田井 弘幸(たい・ひろゆき)1973年生まれ。大阪府出身。96年に共同通信入社。大相撲担当からプロ野球の阪神、中日担当を経て、2002年から大相撲、09年からは柔道も担当。


2011年12月28日

めったに行けない取材現場 柔道でシベリア西部の町、チュメニ訪問  

10月下旬、早くも雪化粧をまとったチュメニのたたずまい(共同・田井弘幸記者撮影) 年の瀬になると、この1年で立ち会ったさまざまな局面を思い出す。2月に発覚した大相撲の八百長問題、8月の柔道世界選手権、11月には待ちに待った稀勢の里の大関昇進と、いろいろなことがあった。

 そんな中で、今後恐らく訪れることはないだろうと言える取材現場があった。10月下旬に行われた柔道の世界無差別級選手権。開催場所はロシアのチュメニという町だ。1年くらい前には「一体どこにあるんだ? でもまあ、まさか行くことはないだろう」と思っていたが、低迷する日本男子重量級の現状を確認してこい―との指令が下った。私以外に日本メディアが一人も行かないことは、2度目の「まさか」。周囲にチュメニの存在を知っている人はもちろん誰もおらず、全日本柔道連盟の吉村和郎強化委員長には「おまえ、根性あるなあ」と変な褒められ方をした。

 モスクワから東へ2千キロ以上も離れたチュメニ。「シベリア西部」との響きは猛吹雪や大寒波しか連想できず、町のイメージすらわかない。派遣メンバーに入った男子100キロ超級の上川大樹(明大)に「大会はロシアだったんじゃないですか。チュメニってロシアにあるんですか」と言われた時は「そうみたいよ…」と返答するのが精いっぱいだった。

 

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田井 弘幸(たい・ひろゆき)1973年生まれ。大阪府出身。96年に共同通信入社。大相撲担当からプロ野球の阪神、中日担当を経て、2002年から大相撲、柔道などを担当。


2011年08月03日

皆に愛され通算1047勝  魅力的だった「人間・魁皇」  

itou.misei.jpg 以前このコラムで書いたように、朝青龍や白鵬を初めて取材した日のことは明確に記憶している。しかし魁皇となると、なかなか思い出せない。

 私が相撲記者になったのが1996年12月。当時24歳の魁皇は関脇に13場所連続在位中(ものすごい記録)で、バリバリの大関候補だった。入社1年目で23歳の私が三役力士に単独取材するのは恐れ多く、他社の先輩記者の後ろに立つ「その他大勢」の一人だった。魁皇と初めて1対1で話をした場面は浮かび上がってこないのだが、ただ一つ若き日の魁皇の微笑ましいシーンに遭遇したことは、今も強烈に覚えている。

 97年5月のこと。夏場所前の朝稽古取材で友綱部屋に行ったが、記者は偶然にも私だけだった。「やっと魁皇をひとりで取材できる」。胸は高鳴っていた。しかし、肝心の魁皇がいない。そのまま稽古は午前10時ごろに終わり、相撲専門誌の記者が友綱部屋のちゃんこ鍋を紹介する特集取材でやって来た。魁皇がおいしそうに鍋をつつく、その光景を撮影するために訪れたという。しかし、肝心の魁皇がいない。

 

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田井 弘幸(たい・ひろゆき)1973年生まれ。大阪府出身。96年に共同通信入社。大相撲担当からプロ野球の阪神、中日担当を経て、2002年から大相撲、柔道などを担当。


2011年06月01日

静寂取り戻した支度部屋 注目の技量審査場所を終えて  

takahashi.jpg 大相撲を揺るがした一連の八百長問題で注目されたのが「支度部屋」の存在だ。八百長行為の「打ち合わせ」の現場になっていたとして、まるで不正の温床のように見られた。ただ10年以上も相撲記者をしている私は、ここで取材のイロハを学ばせてもらった。

 今とは違い、1990年代は極めて口数の少ない力士が多かったから、閉じたままの口を開いてもらった瞬間の快感は忘れられない。和気あいあいの近年とは対照的で、当時はまだ緊張感が保たれていた。横綱貴乃花が歩くだけで自然と道が開き、シーンと静まり返ったものだった。貴乃花は寡黙な力士の代表格で、普段は二言三言がほとんど。千秋楽に場所を総括するケースが多かった。現役引退後、貴乃花親方は「私は目の前の土俵に集中していたので、取組が終わっても言葉が出てこなかったんです」と説明してくれた。一途な姿勢に感服したものだ。

 力士として最も脂が乗り切った時期に、勝っても負けても報道陣に背中を向け続けた中立(なかだち)親方(元小結小城錦)も難攻不落だった。名門の出羽海部屋で育った美男の技巧派で、現在は新弟子が通う相撲教習所の教官をしている。技量審査場所のある日、中立親方と支度部屋での無言の日々について昔話をしていたら、答えは明解だった。「あの場所は人としゃべるところじゃないだろう。勝負に備える場だ。それに記者さんも言った通りのことを書いてくれないからな」

 

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 田井 弘幸(たい・ひろゆき)1973年生まれ。大阪府出身。96年に共同通信入社。大相撲担当からプロ野球の阪神、中日担当を経て、2002年から大相撲、柔道などを担当。


2011年03月02日

浪速の街に春が来ない 大相撲の八百長問題に思う  

PN2011030101000846.-.-.CI0002.jpg 大阪出身の私にとって、大阪府立体育会館で開かれる3月の春場所には特別な思い入れがある
 まだ小学校高学年の頃だ。3月中旬に体育会館のあるミナミの街を母親と歩いていたら、びん付け油の甘い香りと「シャラン、シャラン」と雪駄で歩く足音が近づいてきた。大きな体に粋な着物とコートをまとった力士だった。「今は春場所だもんね。お相撲さんが大阪に春を連れてくるのよ」と母親は言った。それから数日後に春場所が終わると、外は一気に暖かくなった。大阪城の桜は満開。浪速の街に春の到来を本当に実感させたものだった。

 そんな春場所が、今年はない。大相撲が八百長問題で大変なことになっている。ここ数年の力士暴行死事件や大麻騒動、野球賭博問題のような刑事事件に発展する話ではないが、実は相撲に携わるすべての人間が最も頭を悩ませ、表面化を恐れてきた問題だった。

 大相撲における八百長の有無は週刊誌などで何度も報じられ、日本相撲協会は完全否定のスタンスを取ってきた。実際に訴訟を起こして勝訴もした。そこに今回の「八百長メール」が発覚。協会は言い逃れができなくなり、放駒理事長(元大関魁傑)は「過去には一切なかったこと」と発言したが、これは事務方が記者会見用に作成した文面を普通に読んだだけのものであって、生の「発言」ではない。

 

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2010年11月02日

大相撲はもっとおおらかに 双葉山時代にみる理想の姿  

 横綱白鵬が69連勝に向かって快進撃を続けており、戦前にこの大記録を成し遂げた大横綱双葉山の資料を探ってみた。すると驚いたことがあった。それは双葉山の場所入りの風景だ。当時の日本では、連戦連勝の双葉山が国威発揚のシンボルとなり、国民的ヒーローだった。日本中の女性たちが「双葉山を守る会」を結成したともいう。
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 そんな双葉山なのだが、資料映像を見ると、旧両国国技館へ向かう時は車にも乗らず、ただ普通に歩いていた。付け人も従えていない。渋い色の羽織はかまを着たスーパースターが人込みの中を淡々と歩き、見物客はじっと眺めている。「そばで見るだけでも幸せ…」。そんな雰囲気が画面から伝わってきた。大相撲ならではの素晴らしい光景だなと思った。

 それに比べ、野球賭博問題などの不祥事からの再出発となった9月の秋場所は、物々しい空気に包まれていた。暴力団関係者の入場を防ぐため、国技館では大勢の警察官がぞろぞろと歩いていた。監視カメラも設置。そして私が最も違和感を抱いたのは、升席のある1階とイス席のある2階を完全に隔離してしまったことだ。

 これまで大相撲観戦は、チケット1枚あれば空いている席に自由に座れていた。本当はいけないのだが、例えば朝8時半から始まる序ノ口の取組に自分の家族や友達、お目当ての力士が土俵に上がる場合、最も安いイス席の切符でも土俵のそばまで行って、その力士を応援できる。なぜなら「砂かぶり」と呼ばれる維持員席やマス席という高価な席の購入者は、そんな早朝には来ないからである。未来の大器を追い続けるマニアックな相撲ファンも同じようにして前方の席から10代の力士に声援を送り、その席が埋まり始める十両土俵入りのころには静かに2階へと移動していくのだ。

 

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2010年08月11日

土俵と向かい合う大切さ実感 異例の名古屋場所を取材して  

 野球賭博問題で一時は開催中止の可能性も浮上した、異例ずくめの大相撲名古屋場所を取材した。猛暑はもちろん、報道陣の数や世間の注目度もけた違いで、今年の7月は異常なまでの熱気に包まれていた。

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 私は大関琴光喜の解雇などを決めた7月4日の臨時理事会から、約3週間も名古屋に滞在したが、入った日から貴乃花親方(元横綱)の退職届提出騒動に始まり、NHKによる初の生中継中止、天皇賜杯などすべての表彰辞退、横綱白鵬の踏み込んだ発言もあった。「名古屋場所は強行開催」を主張していた私も、さすがに弱気になった。「場所直前にここまでゴタゴタするのなら、やっぱり中止にした方が良かったのかな」

 

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2010年05月19日

独走状態も募るイライラ 強すぎる孤高の横綱白鵬  

 2月に電撃引退した大相撲の元横綱朝青龍を初めて取材した日のことは、前回このコラムで書いた。その時に頭をよぎったのは、「白鵬は確かあの時か…」だった。
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 記憶と取材ノートをさかのぼると、2003年九州場所13日目の朝にたどり着く。白鵬の所属する宮城野部屋で以前から親しくしていた力士に「うちのモンゴル人で白鵬っていうの知ってる? 今は幕下で細いけど、あれはすごい力士になるよ。おれは毎日ずっと胸を出しているから分かるんだ。先物買いしてみたら?」と言われ、福岡市博多区の宿舎へ行った。

 白鵬は当時18歳。身長は187センチと高かったが、体重は今より50キロ以上も少ない102キロ。朝げいこを終えたテントの中で生い立ち、将来の夢、さらには「僕のお父さん、偉大なんですよ。僕を初めて取材に来てくれた記者の方だからなあ」と笑って、父がモンゴル相撲の大横綱でレスリングの五輪銀メダリストという当時の秘話も披露してくれた。取材後に一緒に食べた塩味のチャンコ鍋がおいしかった。もちろんビールも…。白鵬少年はわたしのグラスにビールを注ぎながら、ご飯をほお張るように食べていた。

 

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2010年02月10日

「貴乃花と時代がクロスしていれば…」朝青龍の引退に思う  

 朝青龍を初めて取材したのは、1999年1月上旬の朝だった。当時まだ18歳。高知・明徳義塾高から入門し、初場所の新弟子検査を受検した時だ。「目標は千代大海関と旭鷲山関です。一生懸命頑張って、お父さんとお母さんを喜ばせたい」。丸坊主の少年は引率の兄弟子に促され、相撲協会職員や報道陣に何度も深々と頭を下げていた。
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 私はその場所を最後にプロ野球担当となり、朝青龍との再会は相撲担当に復帰した3年後の1月。丸坊主の少年は新関脇だった。私のことなど覚えていないと思い、名刺を出して自己紹介しようとしたら、笑顔でさらっと言われた。「名刺なんかいらないですよ。新弟子検査にいたでしょ? 相撲に帰ってきたの? これからもよろしくね」。何て頭のいい男なんだろうと思った。それからあっという間に私の名前や会社名を誰かから聞き、覚えてくれた。1年後には横綱になり、7歳年上の私を「おい、田井!」と呼び捨てにしたが、やんちゃ坊主がそのまま大人になったみたいで、どこか憎めなかった。

 暴力問題の責任を取って―というか、それを口実に角界を追われるようにして朝青龍が引退した。問題行動は今回だけでなく、積もり積もったものが相撲協会幹部の怒りを爆発させた。私は非常に残念に思う。4日の引退記者会見で涙を流す朝青龍を見て、初めて取材した時や再会した時のことを思い出した。頭の回転が速く、根は純粋だったはずの少年はどこで脱線したのだろうか。

 朝青龍の周囲にはコントロールしてくれる人物がおらず、知らないうちに自分自身も制御不能に陥ってしまった。角界屈指の厳格な指導で知られる阿武松親方(元関脇益荒雄)は言う。「人生において『この人だけは怖い、頭が上がらない』と思うような存在は絶対に必要だ。力自慢の男だったら、なおさらでしょう」。言い得て妙だ。

 

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田井 弘幸(たい・ひろゆき)1973年生まれ。大阪府出身。96年に入社。大相撲担当からプロ野球の阪神、中日担当を経て、2002年から大相撲に復帰。


2009年10月14日

許していいのか!朝青龍のガッツポーズ 危機感薄い相撲協会に違和感  

 10月上旬、親せきの四十九日法要に参列した。粛々とお経を読み上げる僧侶の後ろ姿を見て、不謹慎ながら、ふと思った。「読み終わった僧侶が『よしっ!』と言って両腕を突き上げたら、場の雰囲気はどうなることやら…」。そんなことが起こるはずもないが、もし現実ならばこの僧侶は破門されるだろう。わたしの妄想はさらに広がり、歌舞伎役者や宝塚の女優、落語家が完ぺきな出来栄えに興奮を抑えられず、舞台で雄たけびを上げてガッツポーズをしたら―。観客は絶対に違和感を覚えるはずだ。
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 これはすべてわたしの妄想にすぎない。しかし長い歴史と伝統を誇り、礼儀や秩序、格式を重んじる大相撲でまさかの光景が現実に起きてしまった。しかも1年に2度。それも最高峰に立つ看板力士によって、である。秋場所千秋楽で白鵬との横綱同士による優勝決定戦を制した朝青龍は、1月の初場所に続いて土俵上で両腕を高々と突き上げてしまった。対戦相手への敬意や「礼に始まり、礼に終わる」という、長く培われてきた精神を全く感じさせない行為。初場所後にあれだけ各方面から批判されながら、今回は土俵を下りる前に誰かを見つめ、少し〝ため〟をつくってのパフォーマンス。「どうせ何か言われても、また謝ればいいんだろう」という確信犯のようなものだった。
 
 たかがガッツポーズ、されどガッツポーズだ。もし序ノ口優勝した15歳の新弟子が朝青龍をまねて同じことをしたら、どうなるか。即刻クビにする師匠がいるかもしれない。問題は横綱審議委員会(横審)の鶴田卓彦委員長が「その人の個性だから、違和感はないよ」と言うように、朝青龍だけを特別扱いするムードが充満していることだ。肝心の相撲協会にも危機感はない。師匠の高砂親方(元大関朝潮)を横審に呼び、1分間足らずの陳謝だけで済ませてしまった。相撲一筋で生きた男たちにとって、土俵外での数々の不祥事への対処は難しかったろう。だからこそ、せめて土俵の中に対してだけは厳しくあってほしい。朝青龍のガッツポーズは枝葉だが、〝なあなあ〟でやり過ごしていると根幹が揺らいでしまう。「一番いけないのは相撲協会。朝青龍にガツンと言わないからよ」とは横審の内館牧子委員。わたしも同感だ。
 
 誰か停滞した流れを変えられないのか、と思っていたら、突如として現れた。来年1月の役員改選で新理事に立候補する意向を固めた貴乃花親方(元横綱)だ。「われわれはとにかく土俵なんです。常に土俵に集中する。わたしのその思いだけは、絶対にぶれませんから」と言い切る。伝統文化への誇り、勝負に対する強い姿勢には一点の曇りもない。指導者全員が見て見ぬふりをせず、このスタンスを貫けば、朝青龍の3度目のガッツポーズはないはずだが…。

【写真】初場所で物議をかもした朝青龍のガッツポーズ。秋場所でも再び繰り返した(1月25日撮影、共同)

 

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2009年07月08日

すべてを変えた力士暴行死事件 さまざまな思いで迎える名古屋場所  

 2年前の6月下旬に時津風部屋で力士暴行死事件が起きて以来、わたしはさまざまな思いで7月の名古屋場所を迎えるようになった。猛暑、セミの声、夕立、ひつまぶし…といったこの場所特有の風物詩に浸っていた3年前までとは、明らかに状況が変わった。
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 週刊誌による八百長報道や力士の大麻事件に比べ、親方や力士に与えた衝撃度では暴行死事件が際立っている。事件発覚後から「おれたちにとっても、この先は地獄だ」と声を絞り出していた錣山親方(元関脇寺尾)はつぶやく。「すべての起点はあの死亡事件だ。弟子との接し方や指導法にこれほど苦しむとは…」
 
 監督官庁の文部科学省に提出する再発防止策の目玉として、相撲協会はけいこ場から竹刀や棒の撤去を宣言した。これによって師匠と弟子、兄弟子と弟弟子の関係が微妙なものとなってしまった。30代のある兄弟子は「朝げいこを寝坊した上に、ちゃんこ番を平気でさぼっても謝らない新弟子を軽くコツンとたたいただけで、その両親から苦情が来るんだ」と顔をしかめた。
 
 角界にいるほとんどの人たちが、暴行死事件のことを今も引きずっている。これは、相撲記者であるわたしも同じだ。あの事件から、マスコミへの相撲協会の対応が大きく変わってしまった。わたしが記者として、人間としても尊敬し、昭和20年代後半から50年以上も相撲記者をされているTさんという方がいる。全国紙を定年退職後も相撲専門誌に昨年まで文章を書いていた84歳の男性だ。Tさんは「親方や力士は肌と肌で会話をする。記者に対してもそれは同じだ。裸一貫で勝負してきた彼らは、肌と肌のぬくもりによる絶妙な間合いから、〝あうんの呼吸〟を生み出すんだよ」と言う。
 
 大相撲は他のスポーツ界では考えられないほど、取材に対しておおらかだった。相撲記者は理事長室や役員室などをノック一つで入れたし、そもそもドアは開きっぱなしだった。最初は恐くて、とっつきにくい親方衆も、足しげく通うことで顔を覚えてくれ、肌と肌で会話をしてくれるようになる。角界にとって不都合な話も、取材される側と取材する側のあうんの呼吸で乗り切ったはずだ(もちろん何度も怒鳴られたりはしたが…)。
 
 しかし、あの事件がすべてを変えてしまった。朝青龍のサッカー騒動の当時は事業部長として舌鋒鋭かった武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)も、最近は土俵以外のテーマには「広報部に聞いてくれ」と普通の企業のような対応をすることがほとんど。5月下旬に元時津風親方に懲役6年の実刑判決が下された時は広報部が出したコメント用紙1枚にとどめ、自ら言葉を発しなかった。理事長室や役員室も今年から出入りは禁止となった。

【写真】暴行死事件以後も相撲界は難問山積で、武蔵川理事長(中央)の苦悩の日々は続く(2009年4月22日、共同)

 

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2009年03月25日

見習うべき点多い「相撲時間」 古くから伝わる角界の伝統  

朝晩の冷え込みが和らぎ、外の空気もようやく柔らかくなってきた。季節は春。出会いと別れ、旅立ちのシーズンだ。
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 わたしはこの4月で記者になって14年目を迎える。相撲記者としては10年目の春を、大相撲春場所が行われる大阪で過ごしている。社会人としては当然のことだが、相撲記者になると特に敏感になるのが「時間」。角界には、他の世界では考えられない「相撲時間」というものが存在するのだ。大相撲担当になった記者はみんな、この相撲時間の洗礼を浴びる。

 礼儀や秩序、上下関係を重視する縦社会の角界では、後輩が目上の人を待たせるということは絶対にあり得ない。だから指定された時間よりかなり前に現場に到着し、先輩を待つ。「われ先に」という気持ちが数珠つなぎとなって早まるため、集合時間はどんどん前倒しになってしまう。

 九重親方(元横綱千代の富士)が審判部副部長だったころ、担当していた新弟子検査は午前10時開始だった。しかし30分前に始まり、何と10時には既に終了。二日酔い気味のわたしが9時50分ごろに検査会場に行くと、九重親方からは「遅いんだよ。おまえ、何年この世界にいるんだ!」とウルフの鋭すぎる眼光とドスの効いた声でやられ、前夜の酒が一気に抜けたものだ。「時間を守るどころか、少し早めに来ても怒られたよ…」と落ち込んでいたら、10時ちょうどに現れた記者もちらほらいて、そろって目が点になっていた。

 

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2008年11月26日

ことしも激動の角界 来年こそ「祝」の年末、九州場所に  

 相撲記者にとって、1年納めの九州場所は特別なものだ。1年間のさまざまな出来事を振り返り、親方も、力士も、記者も「今年もいよいよ終わりか」と感傷に浸ったりする。
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 玄界灘の風が心地よい博多の地は、とにかく料理がうまい。モツ鍋にゴマサバ、豚骨ラーメンに水炊き鍋…。これら絶品には、芋焼酎が実に合う。人情味あふれる街の雰囲気もいい。だから大相撲に携わる人々は、みんな九州場所が大好きだ。

 しかし、今年ばかりは心の底から博多の日々を満喫できなかった。角界が抱える数々の懸案に目を向けると、「来年もまた何かありそうだ」と、ため息が出る。

 

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2008年07月23日

「何で相撲界ばかり責められる?」 ジレンマの中で厳しい筆致も  

kitanoumi2.jpg 相撲記者だからと言って、角界をかばう訳ではない。他人に厳しく、自分に甘いという性分でもない(たぶん)。

 何が言いたいかというと、他のプロスポーツに比べ、大相撲に対する風当たりがあまりにも強すぎやしないかということだ。時津風部屋で起きた力士急死事件から6月26日でちょうど1年が過ぎた今、そんなことを感じる。けいこ場で起きた一連の出来事は、もちろん痛ましい。北の湖理事長(元横綱)以下、角界首脳の対応が遅すぎたのは言うまでもない。

 それにしても、だ。この問題に付随して、大相撲はさまざまなバッシングを受け続けている。閉鎖的、密室、伝統の崩壊…。相撲協会が1場所ごとに各部屋へ支給する力士養成費が高すぎるといった指摘まであった(ちなみに幕下は1人につき1場所15万円、序ノ口は7万円)。

 

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2008年04月16日

〝拡大文字〟めぐる悲喜こもごも 力士と記者の場合  

TR2008022500259.jpg 入社や入学の時期である4月はスタートの季節だ。大相撲でも3月に入門した新弟子たちが、今月下旬に発表される夏場所の新番付に一斉に名を連ねる。地位は最下位の序ノ口で、番付表の一番下の部分となる。

 角界の隠語を意味する相撲用語に「虫眼鏡」がある。番付表で虫眼鏡を使わなければ名前を探すことができないほど、字が小さな力士たちのことを表す。主に序ノ口や序二段を指していて、確かに限られたスペースの中に小さく細い文字がぎっしりと詰まっている。新十両となった力士に新番付を見た感想を聞くと、ほぼ全員が言う。「しこ名の字が大きくなってうれしい」。力士にとって、自分の字がどんどん大きくなることは、この上ない喜びなのだ。

 字が大きくなるといえば、この春から新聞業界は軒並みに拡大文字を導入している。読者の目に優しく、お年寄りや子どもたちは親しみやすいだろう。しかし記事を書く記者にとってはどうか。

 

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田井 弘幸(たい・ひろゆき)1973年生まれ。大阪府出身。96年に入社。大相撲担当からプロ野球の阪神、中日担当を経て、2002年から大相撲に復帰。


2008年01月09日

「粛」から「祝」へ変化期待 伝えたいのは土俵の熱気  

PN2007113001000701.-.-.CI0002.jpg 正月に届けられた年賀状には、「昨年は大変でしたね…」「今年こそ穏やかな1年になればいいですね…」との言葉が添えられたものが多かった。わたしも「騒動続きで大変でした」といったメッセージをたくさん書いた。もちろん双方とも、大相撲を意識してのものである。

 

 昨年の今ごろを振り返ってみる。良くも悪くも、大相撲はあまり注目されていなかった。朝青龍の独走は一段落し、大関昇進時に高い人気を誇った琴欧洲は伸び悩み、当時は大関の白鵬は休場明けで初のかど番。そして、わたしも何となく正月気分が抜けないまま、1月7日に初場所が普通に始まった。まさに「嵐の前の静けさ」だった。

 賜杯レースも淡々と進み、朝青龍が史上5人目の優勝20回を難なく達成。しかし、ここからだった。千秋楽翌日の22日に朝青龍を中心とする「八百長疑惑」報道が週刊誌で繰り広げられた。年6回ある大相撲の本場所は奇数月だから、相撲記者にとって偶数月は少し息抜きができる期間。それが息を抜くどころか、息をつかせぬ日々が初場所直後に幕を開けた。

 朝青龍騒動や時津風部屋の力士死亡問題など、その後のトラブルは周知の通り。騒ぎに埋もれてしまったが、大関栃東の病による無念の引退劇や白鵬の横綱昇進、琴光喜の大関昇進と土俵の中もそれなりに動きがあった。こんなふうにして、季節の移り変わりを感じる暇を与えてくれないほどに、角界は次から次へと取材テーマを提供してくれた。

 

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田井 弘幸(たい・ひろゆき)1973年生まれ。大阪府出身。96年に入社。大相撲担当からプロ野球の阪神、中日担当を経て、2002年から大相撲に復帰。


2007年09月13日

相撲記者には“厄月”だった8月 朝青龍問題と「佐渡さん」の死  

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「厄年」や「厄日」という言葉はよく聞くが、「厄月」はあまり耳にしない。それでもあえて言わせてもらえば、朝青龍騒動に振り回された相撲記者にとって、8月は紛れもなく「厄月」だった。大相撲担当として通算8年目を迎えるわたしの中でも、最大にして屈指の忙しさだった。

 ▽真夏の悪夢
 休日が全くないとか、猛暑の中での張り込みとか、そんなことは新聞記者にはよくあること。原稿量が格段に多くなったことも本望だ(本心ではないが)。
 今回で最も辛かったのは、過熱し過ぎる周囲の反応である。あまりにもワイドショーに引っ張られ過ぎだと思う。ワイドショーは芸能人の結婚よりも離婚を大きく取り上げるように、有名人の失敗やハプニング、トラブルで番組のほとんどを作っているだけに、朝青龍騒動は格好の材料だったろう。脇を固める師匠の高砂親方(元大関朝潮)の迷走ぶりも、見事にはまった。

 

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田井 弘幸(たい・ひろゆき)1973年生まれ。大阪府出身。96年に入社。大相撲担当からプロ野球の阪神、中日を経て、2002年から大相撲担当に復帰。


2007年06月06日

オヤジの威厳は健在! 角界の師弟関係  

 長い歴史を持つ角界には、さまざまな「隠語」がある。たとえば美女は「金星」、お金は「お米」、へそを曲げることは「北を向く」など…。そして師匠のことは「オヤジ」と呼んでいる。6月17日は父の日。角界における「オヤジ」の存在について考えてみた。

 ▽大関も震え上がる

なぜ「オヤジ」と呼ぶのか。昔は15歳で入門する力士が大半だっただけに、まさに師匠は父親代わりだからだ。相撲の技術はもちろん、角界のしきたり、礼儀など弟子に対するしつけは師匠が全責任をもって行う。まさに父親と息子。「オヤジ」という呼び方は、敬意を表したものなのだ。

 

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田井 弘幸(たい・ひろゆき)1973年生まれ。大阪府出身。96年に入社。大相撲担当からプロ野球の阪神、中日を経て、2002年から大相撲担当に復帰。


2007年02月21日

運命の巡り合わせに胸熱く 十両の里山と父博昭さん  

 久しぶりに胸が熱くなるというか、運命の不思議な巡り合わせを感じる話に出会った。

 大相撲の十両に里山(尾上部屋)という力士がいる。鹿児島県奄美市出身の25歳。176センチ、117キロの小兵ながら、鹿児島商―日大相撲部で磨いた多彩な技を繰り出すお相撲さんだ。南国育ちらしく、色黒で毛深い体も個性にあふれている。

 そんな里山の父里山博昭さんが初場所開幕前日にあたる1月6日の夜、血液の病気のため66歳で死去した。「昨年からヤマ場が5、6回あったんですが、自分が島(奄美大島)へ見舞いに帰るたびに元気になっていたんですが…」と里山は話す。虫の知らせか、亡くなる3時間前に父へ電話したのが最後の会話。「けがの治療だけはしっかりせえよ」と言われ、「おれもあしたから初場所頑張るから、父ちゃんも頑張って」と言った。

 

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田井 弘幸(たい・ひろゆき)1973年生まれ。大阪府出身。96年に入社。大相撲担当からプロ野球の阪神、中日を経て、2002年から大相撲担当に復帰。