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スポーツリレーコラム

2016年05月25日

地震被害の熊本に、巻に大きな声援 5月15日「Jリーグの日」に復帰  

約1カ月ぶりの公式戦を終え、感極まるJ2熊本の巻=千葉市のフクダ電子アリーナ(共同) ことしの「Jリーグの日」は特別な1日だった。1993年5月15日の歴史的なリーグ開幕から23年後の5月15日、千葉市のフクダ電子アリーナはJ2の試合にもかかわらず1万4000人を超える観衆で埋まった。大地震の被害を受けたロアッソ熊本が約1カ月ぶりにリーグ戦の舞台に戻ってきたのだ。試合前と終了後、千葉サポーターは、かつてホームクラブで活躍した巻誠一郎はもちろん、相手クラブへの声援を惜しまなかった。熊本サポーターとエールを交換し、スタジアム全体に苦難にある熊本の復興を願うエネルギーが充満していた。

 結果は0―2。熊本は勝てなかった。地震の影響で活動できず、全体練習再開からも十分な時間がなかったのだから無理もない。足を止めずボールに食らい付く姿勢は貫いたが、それでも後半は徐々に運動量が落ちた。前線で体を張り続けた巻も見せ場はつくれず「勝ち点1でも、熊本のみなさんに届けたかった」と、こみ上げる涙をこらえ切れなかった。

 この試合の10日前、「こどもの日」に熊本を訪れる機会があった。日本代表のハリルホジッチ監督が被災地の激励に赴き、その様子を取材するためだ。監督は県庁を訪問後にスポーツ施設を回り、地元サッカークラブの少年少女と触れ合った。多くの小中学生と保護者たちを前にお見舞いや励ましの言葉を述べ、自身の戦争体験の話を交えながら「日本代表は被災地のことを忘れずに戦う。代表選手は、みな同じ気持ちだ。みなさんは一人ではない」と語りかけた。

 

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 山室 義高(やまむろ・よしたか)1975年生まれ。神奈川県横浜市出身。共同通信の名古屋、大阪両支社を経て2005年12月から東京運動部。主にサッカー担当でワールドカップ(W杯)は2002年から3大会連続で取材。


2014年05月21日

柿谷、大久保ら「国内組」に期待 W杯サッカー ブラジルでも笑顔を  

中国から帰国後の記者会見で、W杯代表選出にうれしそうな柿谷曜一朗(2014年5月14日、共同) ワールドカップ(W杯)開幕を1カ月後に控えた12日、中国の広州。日本サッカー界が4年に1度の緊張感に包まれる、23人のW杯日本代表メンバー発表の日だった。13日にアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)広州恒大戦を控えたセレッソ大阪の選手は、中国国内ではインターネットサイトで動画や中継は閲覧が難しいため、スタッフが無料通信アプリLINE(ライン)のビデオ通話で撮影した日本のテレビ中継を宿舎で見たという。
 この日ばかりは、選手もファンも状況は同じだ。通常の代表招集ならば事前に日本協会から所属クラブへ連絡が入るが、W杯メンバーは情報漏れを防ぐ意味もあり、監督の発表をもって初めて代表入りが知らされる。セレッソ大阪の柿谷曜一朗と山口蛍らが一緒に凝視した画面の向こうで、ザッケローニ監督が選手の名を読み上げていった。「…ハセベ、アオヤマ、ヤマグチ、オオクボ…、キヨタケ、カキタニ、…」。2人の名前は、確かに呼ばれた。山口は「選ばれるか微妙だと思っていたので、すごくうれしかった。今までで一番緊張したかもしれない」と白い歯を見せ、柿谷は「めっちゃうれしい。2人でガッツポーズしました」と喜んだ。これほどうれしそうな柿谷を見たのは、いつ以来だろうか。
 今季の柿谷はJリーグで開幕10試合ゴールなしと苦しんだ。セレッソを率いた前任の名伯楽レビー・クルピ監督をして「(ブラジル代表の若きエース)ネイマールに近い」とまで言わしめた技巧的なトラップやシュートは鳴りをひそめ、思うようなプレーと結果を出せない試合が続いた。報道陣による日本代表関連の質問も重荷だったのだろう。メンバー発表が近づいても「次の試合に集中するだけ」と繰り返し、明らかにナーバスになっていた。晴れてメンバー入りを果たし「結果も出せないで『そんなんで…』っていう声も聞こえていたし、自分でもそう思っていたしね」と苦しかった胸の内を明かした。彼のテクニックは、クルピの言葉を借りるまでもなく世界トップクラスだ。メンバー選考の重圧から解き放たれ、幼少期から「天才」とたたえられた才能をブラジルで発揮してくれたら、と願う。個の力で世界を驚かす可能性も十分に秘めている。
 その柿谷が自身の選出と同じくらい喜んだのが、敬愛する大久保嘉人の代表入りだ。「オオクボって名前がちゃんと聞こえへんかったけど、嘉人さんが呼ばれたことがうれしくて…」。この大久保が今回の「サプライズ」になった。ただ、経験や実績からすればサプライズと形容するのは失礼にも思える。昨季のJリーグ得点王は、今季も発表時点で日本人最多ゴールと、目に見える立派な数字を残してきた。彼の選出は、何よりJリーグにとって良かったのではないか。これでW杯に行けなければ、国内でどれだけ頑張っても報われないという、しらけた空気が流れかねないと危惧していた。
 一時、ザッケローニ監督は欧州組偏重とも言われ、先発11人中、Jリーガーはたった1人という試合もあった。そんな傾向を反映するようにJリーグからは多くの若手が実績もないまま海を渡るケースが増えた。しかしである。今回のW杯メンバー、たしかに過半数の12人が欧州組だが、彼らは例外なく国内でプレーしていた時に日本代表に招集されている。つまり、選手として一定以上の実力と評価を高めてから海外に挑戦したのであって、やみくもに欧州へ向かったわけではない。そしてザッケローニ監督も当然ながら、欧州でプレーしているというだけで招集していたわけではない。それは今回の選考を見れば明らかだろう。
 ガンバ大阪でプレーを続け日本歴代1位の国際Aマッチ141試合出場を誇る遠藤保仁は言う。「プレーしている場所は実際にはあまり関係ない。J2でもJ3でも能力があれば代表に入れる。もっと国内のサッカーが盛り上がらないと。いい外国人もどんどん日本に来て、見に行く人が増えて、対戦相手もトップレベルになれば、国外に行く機会があっても国内に残る選手が増えるかもしれない。Jリーグの選手がいいパフォーマンスを続けることは、代表にとっても大切だと思う」。
 やはり日本代表の根本を支えるのはJリーグだ。願わくば「海外組」「国内組」という言葉の裏側に潜む「優」「劣」の気配が消え去り、そんな組み分けさえ無意味になる時代が訪れないものか。さらには、例えばフォルラン(ウルグアイ)のように強豪国のW杯メンバーにもJクラブ所属の選手が増えないものか。そうなれば日本は確実に今より強くなる。もちろん一朝一夕には無理だが、そんな期待を持つ身としてはマンチェスター・ユナイテッド、ACミラン、インテル・ミラノだけではなく、セレッソやフロンターレの存在感も世界へ向けて示してほしい。12日のように満面の笑みを浮かべた柿谷や大久保を、ぜひブラジルのピッチ上でも見てみたい。


【写真】中国から帰国後の記者会見で、W杯代表選出にうれしそうな柿谷曜一朗(2014年5月14日、共同)

 

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 山室 義高(やまむろ・よしたか)1975年生まれ。神奈川県横浜市出身。2000年共同通信入社。サッカーのワールドカップ(W杯)は02年から3大会連続で取材。2年間のプロ野球担当を経て、12年から大阪支社で主にサッカーを担当。


2010年11月17日

「地獄を見たやつの強さを!」 1季限りでJ2降格の湘南・反町監督  

 勝てば称賛に包まれるが、負ければ批判にさらされる。プロスポーツ界の常ではあるが、その落差は文字通り天と地ほどの開きがある。「就任して2年で、天国と地獄を味わった」。Jリーグ1部(J1)湘南の反町康治監督は、来季の2部(J2)降格が決まった11月14日の清水戦後、そう言って唇をかんだ。昨季最終節の劇的な逆転勝ちで11季ぶりのJ1昇格を決めた歓喜から一転、今季は勝利から見放されて辛酸をなめた。
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 もともと苦戦が予想されていた上に、DFジャーンやFWアジエルら主力が次々と故障。今季は実に10人以上が手術に踏み切り、チーム戦術を確立するよりも、指揮官は目の前の試合への対応に四苦八苦した。「けが人のせいにするのは監督としては一番楽だがそういう中でもどうにかするのがわたしの仕事。チームをコントロールできなかった」。清水戦は大量5失点を喫し、17戦未勝利。J1残留という目標は遠く、今季のもろい守備を象徴するような一戦になった。

 故障者の穴を埋める効果的な補強もままならなかった。クラブの真壁代表取締役も、反町監督も、つい愚痴を漏らすことがある。「うちにはお金がないからな…」。親会社を持たない総合スポーツクラブの経営は厳しいのが現実で、小クラブの悲哀も漂う。だが、特定の企業に頼らない市民参加型のクラブが強くなっていくことが、企業スポーツからの脱却と地域密着を掲げるJリーグ全体の明るい未来につながっていくはずだ。

 ホームの平塚競技場には、念願だった大型ビジョンが完成間近に迫った。すでにJ2降格が決まってしまったのは皮肉だが、今季の最終節には間に合うという。ここまでリーグの成績は散々ではあるが、クラブも選手もスタジアムも、少しずつJ1のレベルへと上り詰めていこうとしている。

 

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山室 義高(やまむろ・よしたか)1975年生まれ。神奈川県横浜市出身。共同通信の名古屋、大阪両支社を経て05年12月から東京運動部。主にサッカー担当でワールドカップ(W杯)は02年から3大会連続で取材。


2010年08月25日

16強入りの熱狂から4年後へ 監督人事でつまずいた日本協会  

 前回はサッカーのワールドカップ(W杯)直前のスイス・ザースフェーで、このコラムを書いた。あの時は正直、日本代表が本大会で1次リーグを突破するどころか、1勝すら難しいだろうと感じていた。だが、ふたを開けてみると岡田監督率いるチームは堂々たる戦いぶりを見せ、16強にまで躍進。南アフリカを舞台にした奮闘は、日本中を熱狂させた。あらためて「サッカーって分からない」という思いを強くした。

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 カメルーン戦での本田圭佑の先制ゴールがすべてだった。それまで自信を失いかけていたチームが、うそのように結束力と集中力を高めていった。直前で守備的な戦術になったことには複雑な思いを抱く人も多いだろうが、日本サッカー界にとって実りの多い大会になったことは事実だ。

 

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山室 義高(やまむろ・よしたか)1975年生まれ。神奈川県横浜市出身。共同通信の名古屋、大阪両支社を経て05年12月から東京運動部。主にサッカー担当でワールドカップ(W杯)は02年から3大会連続で取材。


2010年06月02日

アルプスに囲まれW杯へ最終調整 日本代表合宿地のザースフェー  

 雪に覆われたアルプスの峻険な4000メートル級の山々に囲まれ、鳥がさえずり、小さな教会の鐘が響き渡る。雪解け水の小川は透き通り、いかにも冷たそうに流れている。サッカー日本代表がワールドカップ(W杯)南アフリカ大会の直前合宿地に選んだスイスのザースフェーは、そんな高原の静かな街だ。冬のスキーシーズンは多くの観光客が訪れるようだが、今は閑散期。選手がサッカーに集中できる最高の環境が整っている。
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 ただ、山あいの小さな街だけに交通のアクセスはよくない。日本代表がイングランド代表との強化試合でオーストリアのグラーツに出向いた際の移動はきつかった。30日午後2時15分からの試合に備えて、記者の多くは29日午前2時にザースフェーを出発。日光のいろは坂のような山道を延々と下り、バスで3時間以上かけて到着したジュネーブの空港から飛び立ち、ウィーンで乗り換えてグラーツへ。約10時間の長旅だ。

 前日練習を取材し、当日は試合取材を慌ただしく終えてグラーツの空港からフランクフルトを経由し、ジュネーブへ。さらに来た道を3時間バスに揺られ、ザースフェー到着は31日の午前3時すぎ。代表チームはザースフェーから程近いシオンの空港からチャーター機で往復したため、その動きに間に合わせるために過酷な移動の連続となった。

 

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山室 義高(やまむろ・よしたか)1975年生まれ。神奈川県横浜市出身。共同通信の名古屋、大阪両支社を経て05年12月から東京運動部。主にサッカー担当でワールドカップ(W杯)は02年から今回で3大会連続取材となる。


2010年03月10日

勇気を示すのは今 W杯開催年、「サッカーの力」に期待  

 Jリーグが開幕した。3月6、7日の第1節は見応えのある試合が多かった。4連覇を狙う鹿島が小笠原、興梠のコンビで見事な先制点を挙げるなど、王者の貫録を見せて浦和に快勝。FC東京の平山は後半ロスタイムに右足でシュートを決め、ホームの大歓声を浴びた。ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会へ向け、日本代表入りのボーダーラインにいる選手たちが、各地で存在感を示した。
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 バンクーバー冬季五輪が終わり、いよいよ次はサッカーのW杯だ。しかし…。過去の大会前に比べ、盛り上がらない雰囲気が気になっていた。バンクーバーと並行して行われた2月の東アジア選手権で日本代表は過去最低の3位。国立競技場の客足も伸びず、冷たい風がスタンドを吹き抜けた。サッカー人気の陰りは誰の目にも明らかになりつつある。

 だからこそ、Jリーグ開幕戦は明るい兆しだったように思う。特に目を引いたのは、大宮の頑張りだった。ホームでC大阪に3―0と完勝。かけがえのない仲間へ贈る大きな1勝だった。国内のサッカーシーズンの幕開けを告げる富士ゼロックス・スーパーカップの鹿島―G大阪が行われた2月27日、大宮の1人の選手が重大発表をした。DF塚本泰史が右大腿骨骨肉腫という骨のがんに冒されていることを涙ながらに明かしたのだ。

 

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山室 義高(やまむろ・よしたか)1975年生まれ。神奈川県横浜市出身。共同通信の名古屋、大阪両支社を経て05年12月から東京運動部。主にサッカー担当でJリーグや02年、06年ワールドカップ(W杯)などを取材。


2009年12月09日

楽観せず、悲観もせず 熱い心で勝利目指せ W杯ベスト4狙う日本  

 サッカー記者にとって12月5日は特別な日だった。遠く南アフリカのケープタウンでは来年6月に迫るワールドカップ(W杯)の抽選会(現地4日)、日本では今季Jリーグの最終節が行われた。睡眠もままならず、濃密すぎる時間が流れた。
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 午前3時すぎ。日本はオランダ、カメルーン、デンマークと同じ1次リーグE組に入った。「厳しい」というのが第一印象だ。日本の1次リーグ突破は容易ではないだろう。岡田監督は「やりがいのある組。どこも日本より少し上だが、対応できる範囲内」との認識を示した。

 ただ、対戦相手が決まって、必要なのは楽観でも悲観でもない。痛い目にあった4年前の教訓を、チームもメディアもサポーターも学んでいる。前回ドイツ大会ではオーストラリア、クロアチア、ブラジルと同組で世間は一様に楽観的だった。ブラジルは別格としても、他の2チームには勝てるような根拠のない雰囲気が漂っていた。

 選手にも、そんな空気は伝染していたように思う。初戦のオーストラリア戦で惨敗すると、もう日本は立ち直れなかった。「期待が大きすぎると失望も大きい。なぜ、日本が勝てると思っていたのか」と言ったのは、前日本代表監督のオシム氏だ。楽観は敵の過小評価につながって油断を生み、敗北に近づく。逆に悲観は敵の過大評価となって無用な恐れを生み、戦う前から負けてしまう。いずれにしても勝利からは遠ざかる。
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 大事なのは冷静に相手を分析し、勝てる可能性を追求し続けることだろう。そして「絶対に勝つ」という強い信念をピッチで表現できるかだ。前回ドイツでは、これが欠けていた。事前の勝ち負けの計算は無意味だ。W杯で日本が必ず勝てる相手などいないのは当然のこと。それを承知で、現在のチームはベスト4を目指している。

 

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山室 義高(やまむろ・よしたか)1975年生まれ。神奈川県横浜市出身。共同通信の名古屋、大阪両支社を経て05年12月から東京運動部。主にサッカー担当でJリーグや02年、06年ワールドカップ(W杯)などを取材。


2009年09月02日

惨敗の北京五輪から1年 サッカー、本田圭佑ら成長株続々  

 北京五輪が終わって1年が過ぎた。もう遠い昔のような気もするが、思い起こせば、競泳や陸上、ソフトボールなどに比べ、サッカー男子は影が薄かった。U―23(23歳以下)日本代表は3戦全敗で1次リーグ敗退。結果が伴わなければ、失望感を残して人々の記憶からは早々と消えてしまう。
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 ただ、取材した者としては忘れられないシーンもある。0―1で敗れた最後のオランダ戦後、ある選手が話した内容は鮮烈だった。「監督が言っていたことは、ごもっともだと思ったけれど、おれの考えは違った。相手を圧倒したかったから、前からどんどん球を奪いに行った」。試合前の監督の指示は「前で深追いするな」だったが、それを無視して自分の判断でプレーをしたという。

 この発言の主は本田圭佑(VVVフェンロ)である。組織を乱す身勝手な選手と思うか、指示通りにしか動けない選手より優秀と見るかは、評価の分かれるところだろう。ただ、この試合、彼は不用意な反則で敵にPKを与え、これが敗因となったのも事実だ。そのことに対して悪びれたり、申し訳なさそうな素振りは一切なく、自分の考えを主張した。3戦全敗にうなだれる選手が多い中、かなりの異彩を放っていた。図太い神経の持ち主である。

 あれから1年、本田はオランダ2部リーグでMVPとなり、今季は同国1部リーグで開幕から4試合連続得点を記録するなど、目覚ましい活躍を見せている。度肝を抜くような強烈なミドルシュートは、日本人離れした魅力にあふれる。歯に衣着せぬ物言い、決して遠慮などしない思考回路…。そのプレースタイルは、エゴイスティックとも言える彼の性格と無縁ではない。並の日本選手ならパスを選択する場面でも、ドリブルやシュートで攻め込もうとする果敢なスタイルこそ、欧州でも堂々と渡り合える武器になっている。

 

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山室 義高(やまむろ・よしたか)1975年生まれ。神奈川県横浜市出身。共同通信の名古屋、大阪両支社を経て05年12月から東京運動部。主にサッカー担当でJリーグや02年、06年ワールドカップ(W杯)などを取材。


2009年05月27日

取材現場も新型インフル警戒 万全の対策で臨むW杯予選  

 新型インフルエンザの国内感染が確認されてから数週間が過ぎた。影響は各方面に及んでいるが、サッカー界も例外ではない。女子日本代表「なでしこジャパン」の北米遠征は残念ながら中止になった。Jリーグでは発熱やせきなどの症状がある人の来場自粛を呼び掛け、医療機関と連携を強化するなど「観戦者」が「感染者」にならないように対策を講じている。
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 警戒のため、取材する側もマスク着用を義務付けられることが多くなった。Jリーグだけでなく、来年のワールドカップ(W杯)出場を目指す日本代表でも、選手に話を聞く時にマスクは必需品だ。だが、慣れないせいか、これがどうにもしっくりこない。人に話を聞くのに声がこもってしまうし、何となく息苦しい。一人の選手を囲む数人の取材陣が全員マスク姿という光景はかなり異様である。

 マスクといってもいろいろあることが分かった。今は鼻からあごまでスッポリと覆い、膨らみのある大きいタイプが主流だが、先日、大阪での日本代表取材に向かう際、売り切れ状態のマスクを買えなくて困った。ようやく見つけたのは昔ながらの、平べったい「ガーゼマスク」。これでは効果が薄いらしいのだが、他にないので仕方なく購入して取材に向かった。すると、DF中沢佑二に「昔の給食係みたい」と笑われてしまった。鏡で自分の姿を見てみると、たしかにその通りだ。言われてみれば、この手のマスクをするのは、確かに小学生のころの「給食係」以来かもしれない。

 それでも、まだ当分の間はマスクを手放せそうもない。どうやら感染拡大は終息しつつある気配だが、万が一、自分が新型インフルエンザになって、誰かにうつしてしまったら申し訳ない。あってはならないことだが、W杯予選を控えたこのタイミングで、代表選手に感染を広げてしまったら…と考えるともっと恐ろしい。

 

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2009年02月12日

因縁の豪州戦、留飲下げられず W杯で「世界を驚かす」日本を期待  

 今回も留飲を下げることはできなかった。2月11日の横浜・日産スタジアム。6万人を越す大観衆の前で、サッカー日本代表は因縁のオーストラリア代表と対戦、0―0で引き分けた。内容では圧倒していたものの、結果だけを見れば、軍配はオーストラリアに上がったと言っていい。ワールドカップ(W杯)アジア最終予選A組で首位に立つオーストラリアは、アウェーで勝ち点1を挙げれば万々歳。ホームで何としても勝ちたかった日本とは、同じ引き分けでも価値が全く違う。
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 オーストラリアの黄色いユニホームを見ると、どうしても思い出してしまう。2006年6月12日、ドイツのカイザースラウテルン。多くのファンが胸を高鳴らせたW杯の初戦は日本が1―0のリードで終盤を迎え、筆者は勝利を前提に「日本、大事な初戦で勝ち点3」という内容の記事を書き始めていた。時差の関係で締め切り時間は刻一刻と迫っていたが、後半39分にすべてのシナリオが覆った。ケーヒルのシュートが決まり、まさかの同点。ほぼ書き終えていた原稿を大慌てで書き換える。「日本、追いつかれ手痛いドロー」。何とか完成にこぎ着けようとした時、日本サポーターの悲鳴とともにまたもやケーヒルに決められて逆転を許した。その後、さらに失点を重ねてダメを押された。1―3。真っ白になった頭と真っ青になった顔で必死に原稿を書き直す。「日本、悪夢の逆転負け」。現場記者にとっても、締め切り間際の時間帯で本当に悪夢のような試合だった。

 あの時は選手や監督だけでなく、取材陣も相当な悔しさを味わった。歓喜に沸き上がるオーストラリアの記者たちの姿が何と恨めしかったことか。日本のサッカーが、待ち焦がれた世界のひのき舞台で完膚なきまでにたたきのめされた現実…。惨めな思いで、日本代表の合宿地ボンへと戻るバスの中ではため息と舌打ちしか出てこなかった。

 

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2008年11月12日

「オシム流」語録も健在 元気な姿に安堵  

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 あれから1年になろうとしている。

 サッカー日本代表のイビチャ・オシム監督(当時)が急性脳梗塞(こうそく)に襲われたのは2007年11月16日だった。筆者は北京五輪アジア最終予選のためベトナム・ハノイに滞在中だった。

 日本からの電話で「オシム倒れる」の一報を知らされた時の衝撃は忘れられない。宿泊していたホテルで「最悪の事態」を想定せずにはいられなかった。五輪予選のことは頭から吹っ飛び、必死に闘病しているだろう監督の心中を思いながら、ひたすら回復を願った。

 

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2008年07月09日

釈然としないOA枠 大久保招集断念に思う  

okubo.jpg 何となく釈然としないわだかまりが残った。北京五輪を控えたサッカー男子のオーバーエージ(OA)枠の問題である。原則23歳以下のチームに3人だけ年齢制限のない選手の採用が認められているが、決定力不足が弱点の日本はFW大久保(神戸)の招集を断念した。欲しかったストライカーを補強できないまま、本番を迎えそうだ。

 日本サッカー協会とクラブ側の意思疎通が十分でなかったのが残念でならない。協会側はJリーグの各クラブに協力を再三呼び掛けたが、2月に手術した右ひざに不安を抱える大久保への丁寧な対応と、J1で下位に低迷する神戸の事情に対する配慮が足りなかった。クラブへの正式な要請の前に、大久保本人の意欲を確認するなど手順にも不手際があった。

 もともと大久保を送り出すことに消極的だった神戸との交渉は事実上失敗。どんな事情にせよ、五輪に出られるはずの選手が、晴れ舞台に立てないのは不幸なことだ。さらに日本サッカー界全体に、北京五輪での躍進を願う共通意識がないことも露呈したように思う。協会にも非があるにせよ、神戸側に譲歩の余地はなかったのか。五輪のために、身を削ってでも協力するという姿勢は最後まで感じられなかった。

 

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2008年04月02日

平山、2度目の五輪へ道険し 輝き取り戻せるか  

BS-0001__-200802180816_M.jpeg 「やはり」と言うか「とうとう」と言うか。北京五輪を控えたサッカーのU―23(23歳以下)日本代表から、FW平山相太(FC東京)が落選した。3月21日に発表されたメンバーに彼の名はなかった。記者会見で反町監督に理由を聞くと「一皮も二皮もむけた選手が出てきた中で、相太は一皮むけていない」という答えが返ってきた。要は、指揮官にとって平山の成長が物足りないということだ。

 これまで、平山ほどチームへの貢献度が大きかった選手はいない。この年代では「顔」と言える存在だった。だが「実力社会」(反町監督)の中で、過去の実績だけでは生き残れない。五輪前に呼び戻されるためには、Jリーグで活躍するしか方法はない。その道は険しい。

 取材を通して、どうしても肩入れしたくなってしまう選手が出てくる。あるいは、その逆もいる。平山は前者だ。理由は簡単。最初に見た時のインパクトが強烈だったからだ。彼のプレーを初めて目にしたのは、2003年にアラブ首長国連邦(UAE)で行われた世界ユース選手権(現U―20ワールドカップ)だった。

 

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2007年12月19日

浦和善戦でも大きかった力の差 クラブW杯、経験を日本の力に  

urawa_ac.jpg 善戦だったのか、完敗だったのか。サッカーのクラブワールドカップ(W杯)準決勝の浦和―ACミラン(13日)は、評価の分かれる試合だった。Jリーグの強豪クラブとイタリアの名門が国際サッカー連盟(FIFA)の公式大会を舞台に繰り広げた真剣勝負。0-1というスコアを見ればアジア王者の大健闘と言えるが、やはり記者席から見た印象では実力差は歴然だったように思う。決して絶望したのではなく、冷静にそう思った。坪井は「うまくしのいでいる時間もあったが、やっぱり最後は崩された」と振り返り、相馬は「一から出直しです」とショックを受けたようだ。誰よりも選手自身が、力の差を認識していた。

 浦和はチャンスもつくったが、ゴールの予感が漂うことはなかった。頼みのワシントンは、ネスタらに完封され、中盤からのパスもことごとくカットされた。後半23分にはカカにドリブル突破を許し、フリーのセードルフに決勝ゴールを挙げられた。敵将のアンチェロッティ監督は「期待していた通りの試合だった」と余裕たっぷりに総括。終盤には浦和の足が止まったことも残念だった。オジェック監督は奇策を練ることなく普段通りの浦和のサッカーを展開したが、ミランの守備陣を慌てさせる場面がなかったのが悔しい。浦和はJリーグでも、アジアでも、このサッカーで勝ってきた。だが、欧州の横綱に、がっぷり四つの正攻法で挑んでも勝ち目はなかったようだ。世界のトップにひと泡吹かせるのは並大抵のことではない。

 この試合を見て、病床に伏す日本代表のオシム前監督は何を思っただろうか。そのことが、やけに気になった。浦和の健闘を喜びつつも、もしかしたら「こういう相手に、こういう試合をしたら、当然こういう結果になる」と手厳しいコメントをしたかもしれない。日本が世界トップレベルのチームに、どうやったら勝てるのか。その難題に挑んだ老将の答えは「日本代表の日本化」、つまり日本にしかできないサッカーの確立だった。リスクを恐れず、圧倒的な運動量に裏打ちされた連動性と、判断・発想のスピードを選手に求め、体格や個人の技量で世界レベルに劣る日本の活路を見出そうとした。

 

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2007年08月29日

「オシム節」全開だったアジア・カップ 取材陣には手強い監督  

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 イラクの初優勝で幕を閉じたサッカーのアジア・カップから1カ月が過ぎた。東南アジアのうだるような蒸し暑さの中、3連覇を狙った日本は4位という成績に終わった。1次リーグを1位で突破し、昨年のワールドカップ(W杯)で無残な逆転負けを喫した因縁のオーストラリアをPK戦で退けたまでは理想的だった。だが、続く準決勝でサウジアラビアに2―3と競り負け、さらに3位決定戦でも決め手を欠いて、宿敵韓国相手にPK戦で涙をのんだ。尻すぼみの印象が強く、芳しい結果は残せなかった。

 ▽「オシム節」連発
 「2度ズボンを下ろして、見せるべきでないものを2度も見せてしまった心境だ」。韓国戦後の会見で、オシム監督はこう話した。英語担当の女性通訳が訳しづらそうにしているのを見て、思わず老将も申し訳なさそうに苦笑したが、要はサウジ戦とともに恥ずかしい試合を見せてしまったという事だろう。含蓄と機知、ブラックなユーモアも交えた〝語録〟で知られるオシム監督は、大会期間中、彼一流の発言を繰り返した。

 

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山室 義高(やまむろ・よしたか)1975年生まれ。神奈川県横浜市出身。名古屋、大阪両支社を経て05年12月から東京運動部。主にサッカー担当でJリーグや02年、06年ワールドカップ(W杯)などを取材。


2007年05月23日

やっぱり厳しいアウエーの環境 選手とともに報道陣も奮戦  

 by 山室 義高

 サッカーの世界ではホームかアウエーか、試合の開催場所を強烈に意識する風習がある。同じサッカーをやるのだから、どこでやろうと一緒と思われる方も多いかもしれない。ただ、特に国際試合ではホームとアウエーの差はバカにならない代物だ。

 アジア・チャンピオンズリーグ(ACL)で、日本の王者浦和がアウエーで3戦3分けと苦しんだ。一方の川崎はアウエーで白星を重ね、9日に日本勢で初めて1次リーグを突破。関塚監督や選手は口々に「アウエーの2勝が大きかった」と振り返った。それほど敵地での戦いには神経をすり減らし、アウエーの勝利には本拠地での1勝以上の重みを実感していた。

 

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山室 義高(やまむろ・よしたか)1975年生まれ。神奈川県横浜市出身。名古屋、大阪両支社を経て05年12月から東京運動部。主にサッカー担当でJリーグや02年、06年ワールドカップ(W杯)などを取材。


2007年03月14日

悩ましく厄介なカタカナ語 サッカーの取材現場で格闘  

 記事を書く時、困ることの一つにカタカナ語がある。今に始まったことではないが、サッカー取材の現場でもカタカナ語が跋扈(ばっこ)している。例えば「ボランチ」。サッカー好きの人なら中盤の守備的な選手と即座に分かる。かなり浸透してきた用語だが、サッカーに興味の薄い人にはいまだに分かりづらいはずだ。

 「バイタル・エリア」という言葉も最近よく耳にする。攻守でゴール前の急所になる地域を指すが、まだ一般的ではなさそうだ。「ビブス」は、練習時に着用するゼッケンのようなもの。日本代表オシム監督の練習では選手たちが色とりどりのビブスで組み分けされるのが慣例だが、考えてみると日常生活で「ビブス」なんて言葉を使う人は少ないだろうなと思う。

 記事は不特定多数の人が読むから、誰もが理解できるようにと心掛けてはいるし、先輩諸氏にもそう教わってきた。でも、まったくカタカナ語を使わないわけにもいかない。これは悩ましく、厄介な問題なのだ。

 

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山室 義高(やまむろ・よしたか)1975年生まれ。神奈川県横浜市出身。名古屋、大阪両支社を経て05年12月から東京運動部。主にサッカー担当でJリーグや02年、06年ワールドカップ(W杯)などを取材。