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スポーツリレーコラム

2017年01月25日

「リレーコラム」1944年の首位打者、入山正夫さん 強制収容から75年、カリフォルニアの高校では遊撃手  

 野球場はいつも満員だった。一投一打に大歓声が挙がり、夏の甲子園大会やワールドシリーズのような熱気だった。ただ、そこは強制収容所の中だった。

 日米開戦後の1942年2月19日、ルーズベルト米大統領は日系人を強制的に移住させることを許可する大統領令第9066号に署名。12万人を超える人々が全米11カ所の強制収容所に送られた。所持が許された荷物はトランク2個分だけ。仕事も家も財産もなくなり、シアトルやロサンゼルスなどの日本人町はゴーストタウンと化した。

 それから75年になる。和歌山育ちの入山正夫さん(95)は、カリフォルニア州サンタマリア高校に進んで将来有望な遊撃手だったが、内陸のへき地に移住させられた。「生まれて初めて汽車に乗ったが、行き先は教えてもらえないし、窓は厚いカーテンで閉め切って乗客の顔も分からない。収容所は刑務所と同じで看守が銃を構えていた」と回想する。

 

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 伊藤 光一(いとう・こういち)1972年生まれ。鎌倉市出身。共同通信入社後、社会部、大阪社会部で事件・事故取材などを担当。2009年から運動部でラグビー、プロ野球などを取材し、13年からロサンゼルス支局で大リーグを中心に取材。


2016年05月18日

インディ500でポールポジション タケオ・ヒラシマ、聖地を駆ける  

1935年にインディ500に初出場した際のヒラシマ(右)とメイズ。アダムズ製の車体とミラー製エンジンでポールポジションの快挙だった。(インディアナポリス・モータースピードウエー提供=共同) 今年で第100回を迎える米国伝統のカーレース、インディアナポリス500マイル(通称インディ500)に初めて日系人が出場したのは、意外にも戦前のことだ。マシンが2人乗りだった1935年、同乗メカニックとして出走した日系2世のタケオ・ヒラシマが、その人だ。ヒラシマが同乗し、ドライバーのレックス・メイズが操るマシンは、なんと予選最高タイムをたたき出してポールポジションを獲得した。

 自動車歴史家ドナルド・デービッドソン氏は、この日本では無名の技術者を高く評価する。「ヒラシマはインディ500に出走した初めての日本関係者で、米国のカーレース界の発展にも大きく貢献した。当時のレースカーは今では考えられないほど故障しがちで、同乗メカニックが車両の修理保全を担った。レース中にコースで修理するのは命懸けのこともあり、技術力のほか、手際の良さ、広い視野、状況判断力、そして勇気が必要だった」

 スピードに魅了され、高い技術で米レース界を席巻したヒラシマは、数奇な運命をたどった。

 

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 伊藤 光一(いとう・こういち)1972年生まれ。神奈川県鎌倉市出身。共同通信入社後、社会部、大阪社会部で事件・事故取材などを担当。2009年から運動部でラグビー、プロ野球などを取材し、13年からロサンゼルス支局で大リーグを中心に取材。


2015年10月14日

天国と地獄の大リーグ4年目 死球禍に苦しんだ青木宣親外野手  

8月9日のカブス戦で、頭部に死球を受けたジャイアンツの青木。6月の右足骨折に次ぐ手痛いダメージを受け、死球禍に泣かされてシーズンは終わった(共同) 青木宣親の大リーグ4年目は、天国と地獄のようだった。昨季のワールドシリーズを制した伝統球団ジャイアンツに新加入し、開幕から「1番・左翼」に定着。前半戦はリーグ5位の打率3割1分7厘をマークした。「優勝を狙えるチームで定位置を取りたい」という希望がかない、オールスター戦初出場のチャンスもあった。ところが、相次ぐ死球禍で戦列を離れ、復帰できないままシーズンが終了した。

 日本仕込みの「スモールボール」が武器で、本人も「何でもできるのが自分の強み」と話す。打席では1球ごとに意図を変える。一発長打を狙ったかと思えば、自身はアウトになっての進塁打もある。相手バッテリーの配球や野手の位置取りを勘案して狙いをチェンジ。

 昨季所属したロイヤルズのムーア・ゼネラルマネジャー(GM)と、今季所属したジャイアンツのエバンスGMは口をそろえて「ピンチで最も有効な防御策である三振を取るのが難しく、投手の嫌がるタイプだ」と評価する。メジャー4年間で打席に2203回立ち、三振は169個。約13打席に1度しか三振がない。

 

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 伊藤 光一(いとう・こういち)1972年生まれ。神奈川県鎌倉市出身。共同通信入社後、社会部、大阪社会部で事件・事故取材などを担当。2009年から運動部でラグビー、プロ野球などを取材し、13年からロサンゼルス支局で大リーグを中心に取材。


2014年11月05日

内野手もメジャーで「顔」に!! 日本人、大リーグで苦戦  

二ゴロをさばき一塁に送球するブルージェイズの川崎宗則内野手。8月27日のレッドソックス戦で。(2014年8月27日、ゲッティ=共同) 米大リーグでは、ことしも岩隈久志(マリナーズ)や田中将大(ヤンキース)ら投手を中心に日本人選手が活躍した。野手は青木宣親外野手(ロイヤルズ)がワールドシリーズ進出に貢献する働きを見せたが、内野手は最多出場が川崎宗則(ブルージェイズ)の82試合で、定位置をつかんだ選手は現れなかった。WBC元日本代表の中島裕之(アスレチックス傘下)や2億円プレーヤーだった田中賢介(レンジャーズ傘下)は壁にぶつかった。過去にもホワイトソックスのワールドシリーズ優勝メンバーの一員となった井口資仁(ロッテ)や、7シーズン内野手を務めた松井稼頭央(楽天)らの例はあるものの、日本で中軸を担った大物が海を渡ると脇役に甘んじてしまう。なぜ、内野手は苦戦するのか。
 プロ野球広島で活躍し、日米でスカウトを務めたフィーバー平山氏は「日本球界は投手に良い人材が集まる傾向がある。野手は攻守両面でパワーが問題になる」と分析する。内野は深い位置や崩れた体勢から送球するためのパワーが必要になる。捕球してノーステップで送球するのは当たり前で、日本流に捕球、ステップ、送球の3段階では間に合わない。攻撃面でも、守備負担の少ない一塁手や三塁手には長打力が求められ、二塁手も打力のある選手がいる。
 よく言われるように、芝生の違いも大きいようだ。米国で主流の天然芝について、田中賢は「バウンドごとに打球の勢いが落ちる。守備は前に出て処理して、打撃はより強い打球を打つ必要がある」と話す。打者走者の一塁到達タイムは速く、凡打でも際どいプレーで強肩ぞろいの内野手と競う。
 渡米する選手のタイプについて指摘するのは、日米で投げた長谷川滋利氏だ。「日本で不動の4番打者でも米国では並みのパワーになり、走攻守三拍子のそろった人は特徴のない選手になる。いぶし銀タイプの2番打者や、守備の人、一芸型の方が重宝される」と指摘する。
 ロイヤルズ打線で2番を務めた青木は、考える野球が真骨頂だ。打席では1球ごとに打撃内容を変える。一発長打を狙ったかと思えば、自身がアウトになって走者を進める。相手野手の位置取りを見ての狙い打ちや、スリーバントも得意だ。他人と違う能力を発揮した青木は「確かに外野の方が日本人に向いているかもしれないけど、メジャーで通用する日本人内野手はいますよ」と力説する。
 ヤンキースやヤクルトなど日米で内外野を守ったレックス・ハドラー氏も「日本には知的な選手が多く、メジャーでもニーズは高い。自分が試合の主導権を握れる投手と違い、野手は違うスタイルに適合できるかがポイント」と話す。ナイター終了後に次の目的地に出発して翌朝に到着する長距離移動や時差、6か月間で162試合の過密日程、どう猛さすら感じさせる力勝負など、大リーグには戸惑うことも多い。
 中4日の先発投手や運動量の比較的少ない外野手と違い、瞬発性の高い動きが連日求められる内野手はコンディショニングも厳しくなる。生活や文化の変化も含め、フィールド内外での適応力がより要求されているのではないか。米国での壁を乗り越え、何とか日本人の内野手にもメジャーで「顔」になってほしい。


【写真】二ゴロをさばき一塁に送球するブルージェイズの川崎宗則内野手。8月27日のレッドソックス戦で。(2014年8月27日、ゲッティ=共同)

 

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 伊藤 光一(いとう・こういち)1972年生まれ。神奈川県鎌倉市出身。共同通信入社後、社会部、大阪社会部で事件・事故取材など担当。2009年から東京運動部でラグビー、プロ野球などを担当し、13年からロサンゼルス支局でスポーツを取材。


2014年03月12日

巨人軍、西部開拓、ワイン 日系人の街サンタマリア  

1953年、巨人のサンタマリア春季キャンプで。左から別所毅彦、ニューヨーク・ジャイアンツ(当時)のレオ・ドロチャー監督、水原茂監督(アマチュア写真家・入山正夫さん提供) ロサンゼルスから海沿いのフリーウエーを北上すると、約2時間でサンタマリアという小さな市に着く。1953年、この街にプロ野球巨人が初めての海外キャンプにやってきた。エースは別所毅彦で、4番は川上哲治、監督は水原茂だった。
 終戦から、まだ8年。第2次世界大戦中、日系人は米国政府から敵国日本に協力する恐れがあると警戒され、僻地(へきち)に設置した強制収容所に隔離された。その一人、前永ツヨシさん(87)は「戦争が終わって、土地を持っていた人はその土地に戻ったが、日系人は理髪店で入店を断られたりした」と、戦争の傷跡が残っていたことを証言した。
 だが、「東京ジャイアンツ」は大人気だった。球場は白人や日系人でごったがえし、ソーダ水やホットドッグを売る威勢のいい声が飛び交った。戦前から付近に住む三好徹さん(86)は「あの時は街中みんながジャイアンツを見に行った」と懐かしそうに回想した。
 地名のサンタマリアは、イタリア語やスペイン語でイエス・キリストを産んだ聖母マリアを意味する。母なる大地に20世紀初頭、開拓の槌音(つちおと)が響いた。主役は日本から海を渡った人々だった。
 日本人移民は農業に従事する人が多かった。夜明け前から畑に出て、炎天下でも黙々と働いた。日本語学校や仏教寺院も設立した。日系2世の前永宏さん(88)は「1世は言葉が分からず、誤解されることも多くて、本当に苦労していた」と述懐した。
 年末は餅つきで盛り上がり、天皇誕生日には赤飯を炊き、町内に子どもが生まれると汁粉やぜんざいを振る舞った。後に連合国軍総司令部(GHQ)に奉職した故キャピー原田氏はここで生まれ育ち、戦後のプロ野球再開や巨人の海外キャンプ実現にも尽力した。
 戦前の日系人社会では野球と柔道が人気スポーツの双璧だった。毎週金曜の夜に周辺の道場が行う柔道対抗試合は熱気に満ち、野球の南加選手権は一大行事だった。古川哲男さん(86)宅には、28年に地元の「アラタニ野球団」が日本遠征を敢行した際の集合写真や、30年代に早稲田、慶応、明治の各大学柔道部が遠征に来た時の写真が残る。
 レタスが中心の大農園だった「ミナミ・ファーム」には、戦後長く日本の歴代首相がワシントン訪問の途上に滞在した。対米交渉の最終調整なども行われたとみられる。元経営者の南亙さん(74)は「昔は大変だったが、みんなで助け合って生きていた」という。
 日米交流を支えた日系人の街は、20世紀後半からカリフォルニア・ワインの拠点の一つとして知られるようになった。「ABC」の略称で名高いワイン「Au Bon Climat(オーボンクリマ=フランス語で「素晴らしい気候」の意)」は、この地で醸造される。なだらかな丘陵地にブドウ畑が広がり、点在するワイナリーに試飲と観光に訪れる人は多い。
 巨人の選手らが宿泊した「サンタマリア・イン」は今も町で一番と評判のホテルで、中庭の噴水やローズマリーのパスタの味は変わらない。第5世代に入る日系人は都会に移住して人口減少が著しい。サンタマリア産ピノノワールの深紅のしずくに、激動の時代を思う。街は日本の旅行ガイドブックには載っていないが、感慨深い歴史を持つ。


【写真】1953年、巨人のサンタマリア春季キャンプで。左から別所毅彦、ニューヨーク・ジャイアンツ(当時)のレオ・ドロチャー監督、水原茂監督(アマチュア写真家・入山正夫さん提供)

 

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 伊藤 光一(いとう・こういち)1972年生まれ。神奈川県鎌倉市出身。共同通信入社後、社会部、大阪社会部で事件・事故取材など担当。2009年から東京運動部でラグビー、プロ野球などを取材し、13年からロサンゼルス支局でスポーツを取材。


2013年06月26日

広島の機動力野球、砂漠に原点 1943年のベースボール  

1943年から終戦まで米アリゾナ州の強制収容所につくられた銭村フィールドで日系の青年たちは機動力野球の原点を培った(The Nisei Baseball Research Project提供、共同) 広島カープの伝統は機動力である。近年では東出輝裕や丸佳浩らが塁上を駆け回り、過去にも高橋慶彦や正田耕三らが記憶に残る。強打のイメージの山本浩二や衣笠祥雄、前田智徳も、盗塁や好走塁が多かった。常に次の塁を狙うスタイルには、赤ヘルファンならずとも魅了される。走る野球の系譜をさかのぼると、米国アリゾナ州の砂漠にたどり着く。

 アリゾナ州フェニックスから車で南下すること約1時間の場所に、ヒラリバーという砂漠がある。灼熱の大地で、夏は気温が50度を超える。360度、地平線まで砂地が続く。その一角に、コンクリートの土台がわずかに残っている。かつての日系人強制収容所の跡だ。今は誰もいないこの場所で、機動力野球が培われた。

 第2次世界大戦中の1942年、米国政府は日本人移民や日系二世を「敵国日本に協力する恐れがある」として、財産を事実上没収し、強制収容所に連行した。日系の青年たちは、日本人と殺し合う戦闘行為を避けつつ、生まれ育った米国への忠誠を証明したいと、志願して欧州戦線に出征していった。彼らが編成した第442連隊は米軍最強とも言われたほど勇敢に戦い、多くの若者が遠い地で戦死した。

 

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 伊藤 光一(いとう・こういち)1972年生まれ。神奈川県鎌倉市出身。共同通信入社後、社会部、大阪社会部で事件・事故取材など担当。2009年から東京運動部でラグビー、プロ野球などを取材し、13年からロサンゼルス支局でスポーツを取材。


2012年11月14日

西本聖の「My Way」 反骨の闘う投手から名伯楽へ  

左足をピンと一直線に跳ね上げ力投する巨人時代の西本聖投手。(1984年8月25日の中日戦から、共同) 1980年代、巨人の西本聖は鋭いシュートで打者の内角をえぐった。左足を一直線に天に伸ばす投球フォームを、子どもたちは真似した。ドラフト外での入団からたたき上げ、後の中日、オリックス時代を含め通算165勝を挙げた。ただ、スター集団の巨人では異端だった。ライバルの江川卓に対抗心をあらわにし、マウンドでは相手打者を気迫で圧倒。不服な判定があれば審判員をにらみ付け、交代を告げに来たコーチに降板を拒否したこともあった。職人肌で誤解されやすく、首脳陣と対立したり、事実無根の中傷記事が出たりした。

 西本はいま、指導者となっている。今季オフにロッテからオリックスに移籍した。その人望の厚さに驚かされる。ここ2年で計1勝だったグライシンガーは、西本コーチと二人三脚で軸足にタメをつくるフォームを固め、今季はチーム最多タイの12勝と復活した。米大リーグも経験した右腕は「自分が再生できたのはニシモトさんのおかげ。あれほどのコーチはいない」と慕う。新人のシーズン最多登板記録をつくった益田直也も「毎日、新しいことを教えてもらった。知識で打者を打ち取れるようになった」と打ち明けた。外国人から若手まで、誰もが信頼した。

 現役時代の印象とは全く違う。当時の鬼気迫る態度はどこから来ていたのか。西本が新人だった75年。当時のコーチたちはドラフト1位の定岡正二に付きっきりだった。ブルペンで並んで投球練習していた西本は「次は自分の番だな。プロの指導者はどんなことを教えてくれるのかな」と連日、希望に胸をふくらませていた。しかし、その期待は最後までかなわなかった。コーチ陣はドラフト外の自分には目もくれずに引き揚げていくのだ。一日の終わりに、落胆しながら沈む夕陽を眺める日が続いた。

 

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 伊藤 光一(いとう・こういち)1972年生まれ。神奈川県鎌倉市出身。社会部、大阪社会部で事件・事故取材など担当。2009年から東京運動部でラグビー、12年1月からプロ野球を担当。


2012年01月25日

美しさか、勝利か  ラグビー帝京大の3連覇に思う  

天理大戦で突進する帝京大の森田(中央左)(2012年1月8日、国立競技場、共同) ラグビーの第48回全国大学選手権の決勝が1月8日に行われ、帝京大が天理大を下して史上2度目の3連覇を成し遂げた。卒業と入学が毎年繰り返される学生スポーツは連覇が難しく、3年連続のラグビー大学日本一はこれまで80年代に同志社大が達成した一度しかなかった。だが東京・国立競技場には観客が1万4407人しか入らず、快挙達成の瞬間を目の当たりにできるという晴れの舞台にしては盛り上がらなかった。

 帝京大のラグビーは、チームに肩入れせずプレーを楽しもうとする観客には面白みが薄いのではないか。200センチ近い2人の外国人留学生を中心にFWが塊となって押すモール攻撃が武器で、じりじりと進むためスピード感に欠ける。同じようなFW戦を繰り返して試合が単調になる。パスで相手を抜くスリルもない。

 しかし、この戦い方はボールをキープするため確実性が高く、勝負にこだわるチームには向いている。帝京大の岩出雅之監督は「見せる必要のあるプロと違い、アマチュアなのだから一生懸命やっているところを評価してほしい」と訴える。一方、他大学やラグビー協会の関係者、ファンの間には反発もあり「帝京はラグビーを破壊して人気を下げている」「あんなに大勢の選手を採っているのに、あんな程度のプレーしかできないのか」などと嫌悪感をあらわにする向きもある。

 

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伊藤 光一(いとう・こういち)1972年生まれ。神奈川県鎌倉市出身。社会部で世田谷一家4人殺害事件、大阪社会部で大阪教育大付属池田小での校内児童殺傷事件などを取材。2009年から東京運動部でラグビー、12年1月からプロ野球を担当。