2007年12月26日
揺らぐ方向性と将来像 国体改革論議に疑問

ちょっと地味な話題だが、納得いかないことがある。日本体協の国体改革の論議だ。
現在、日本体協の国体委員会は、二つのテーマを話し合っている。一つは、冬季国体の問題。スキーとスケート、アイスホッケーの3競技は施設が備わっている地域が限定され、同じ自治体が短い間隔で開催しなければならず、開催費用の負担が大きい。このため、競技団体も費用を負担する方向性などが出ている。これはよく分かる。
疑問なのは、もう一つの2013年以降の実施競技の議論だ。毎年実施する競技と、1年おきに実施する競技(隔年競技)を設けるというのだ。事の発端は、日本体協に加盟しているのに国体で実施されていない競技があり、「これらの競技にも国体で実施する道を開こう」という意見だったという。仮定の話をすると、現在40競技が行われているが、競技数を40のままに固定し、うち3競技を隔年競技に「格下げ」すると、新たに3競技が導入されるということが想定される。
実施が隔年となれば、その競技には死活問題だ。新規採用となれば、その競技は発展につながるだろう。何が「格下げ」になって何が導入されるのか注目だが、方向性が少しおかしい。
2003年の国体改革では「より競技性の高い国内トップレベルの大会として構築する」と、普及よりも強化に重点を置き、ジュニア層の強化も打ち出した。「五輪及びアジア競技大会の実施競技で採用されていない種別は廃止」とし、新体操少年男子とバレーボール成年男女9人制を廃止とした。しかし、今回は日本体協に加盟しているが国体で実施されていない綱引き、ゲートボール、エアロビックなど、五輪を頂点としない団体も、現在の実施競技と同様に検討対象としている。五輪やジュニア層の強化を強く意識した改革を4年前に打ち出しながら、例えば今回ゲートボールを入れたら「一体、国体はどっちに向いているんだ!」とならないだろうか。
03年の国体改革では、参加人員の15%削減も実施した。その過程で、競技団体と激しい議論が交わされたが、根本には従来の「競技の普及と国民の健康増進」という国体の意義を大きく変えようという理念があった。しかし、「日本体協に加盟しているから国体で実施しよう」という考え方は、03年の国体改革の意義と同じベクトルには思えない。国体には全国の都道府県、地方体協、競技団体や指導者、選手と多くの国民がかかわる。改革を実行するなら、一貫した方向性と国体の将来像を示すべきだ。
【写真】秋田国体開会式で入場行進する秋田県選手団=2007年9月29日午後、秋田県営陸上競技場
(次回掲載は1月9日となります)
正田 裕生(しょうだ・ひろき)1965年生まれ。埼玉県出身。千葉支局、水戸支局などを経て99年から運動部。水泳、五輪、国体などを担当。
2007年12月19日
浦和善戦でも大きかった力の差 クラブW杯、経験を日本の力に
善戦だったのか、完敗だったのか。サッカーのクラブワールドカップ(W杯)準決勝の浦和―ACミラン(13日)は、評価の分かれる試合だった。Jリーグの強豪クラブとイタリアの名門が国際サッカー連盟(FIFA)の公式大会を舞台に繰り広げた真剣勝負。0-1というスコアを見ればアジア王者の大健闘と言えるが、やはり記者席から見た印象では実力差は歴然だったように思う。決して絶望したのではなく、冷静にそう思った。坪井は「うまくしのいでいる時間もあったが、やっぱり最後は崩された」と振り返り、相馬は「一から出直しです」とショックを受けたようだ。誰よりも選手自身が、力の差を認識していた。
浦和はチャンスもつくったが、ゴールの予感が漂うことはなかった。頼みのワシントンは、ネスタらに完封され、中盤からのパスもことごとくカットされた。後半23分にはカカにドリブル突破を許し、フリーのセードルフに決勝ゴールを挙げられた。敵将のアンチェロッティ監督は「期待していた通りの試合だった」と余裕たっぷりに総括。終盤には浦和の足が止まったことも残念だった。オジェック監督は奇策を練ることなく普段通りの浦和のサッカーを展開したが、ミランの守備陣を慌てさせる場面がなかったのが悔しい。浦和はJリーグでも、アジアでも、このサッカーで勝ってきた。だが、欧州の横綱に、がっぷり四つの正攻法で挑んでも勝ち目はなかったようだ。世界のトップにひと泡吹かせるのは並大抵のことではない。
この試合を見て、病床に伏す日本代表のオシム前監督は何を思っただろうか。そのことが、やけに気になった。浦和の健闘を喜びつつも、もしかしたら「こういう相手に、こういう試合をしたら、当然こういう結果になる」と手厳しいコメントをしたかもしれない。日本が世界トップレベルのチームに、どうやったら勝てるのか。その難題に挑んだ老将の答えは「日本代表の日本化」、つまり日本にしかできないサッカーの確立だった。リスクを恐れず、圧倒的な運動量に裏打ちされた連動性と、判断・発想のスピードを選手に求め、体格や個人の技量で世界レベルに劣る日本の活路を見出そうとした。
例えばオシム監督が率いていた千葉だったら、ACミラン相手にどんなサッカーをしただろうか。もちろん勝っていたとは思わないし、浦和より大量失点で大敗した可能性も大きい。けれど、あのサッカーの方がACミランの守備陣を慌てさせる場面はあったのではないか。そんな不毛な想像もしながら、オシム監督の言わんとすることがあらためて分かったような気がした。一方で、日本にもカカがいたらとバロンドールとFIFA年間最優秀選手をダブル受賞した才能の存在をうらやんだりもしたが…。
オシム監督は11月16日、急性脳梗塞に倒れた。幸い順調に回復している様子で一安心だが、もう日本代表の指揮はできない。前回の本欄で紹介した問答をもう聞けないのが残念でならないし、何よりもオシム監督自身がどれだけ無念だったかを思うと本当につらい。だが、時間は待ってくれない。そのバトンは岡田武史新監督に受け継がれることになった。クラブW杯で世界を体感し、立派に3位となった浦和勢は、岡田ジャパンでも主力となっていくはずだ。今回の得難い経験は、きっと浦和だけでなく日本にとっても大きな財産になる。
岡田監督は「2010年のW杯で世界を驚かすようなチームを作っていきたい」と意欲を燃やしている。3年後の晴れ舞台で、世界の強豪国を慌てさせ、ひと泡吹かせるサッカーができるかどうか。1998年W杯は3戦全敗に終わった日本人指導者の手で、この野望を達成できたら、これほど痛快なことはない。闘病中のオシム監督も、きっとそのことを強く願っているはずだ。
【写真】浦和―ACミラン 後半、浦和の阿部(左)と鈴木(右)をかわし、攻め込むACミラン・カカ=日産スタジアム
山室 義高(やまむろ・よしたか)1975年生まれ。神奈川県横浜市出身。名古屋、大阪両支社を経て05年12月から東京運動部。主にサッカー担当でJリーグや02年、06年ワールドカップ(W杯)などを取材。
2007年12月12日
世紀のトレードと日本一
年の瀬になり、いろいろな思いが去来している。自分の担当としては高校野球の特待生問題に振り回された1年になり、昨年まで担当していた大相撲もマイナスな面で世間から注目された。スポーツ界は暗い話題が例年より多かった気もするが、個人的には中日の53年ぶりの日本一が明るい2007年のニュースだった。その中日について考える時、いつも21年前の世紀のトレードが頭に浮かぶ。
確か、クリスマスの頃だった。ロッテの落合選手が1対4の交換トレードで中日に移籍するというニュースに、当時高校生だった私は食い入るようにテレビに見入った記憶がある。中日の監督に就任したばかりの星野監督と落合が並んで記者会見し、落合が「男が男に惚れた」と話していた。「たら」「れば」の話になるが、もしこのトレードが実現しなかったら落合の野球人生は中日とは縁のないものになり、ましてや監督になることもなかっただろう。中日が日本一になったことで、あの大物獲得を就任早々に断行した星野監督の決断力にはあらためて驚かされる。
2人はとかく対照的で、片や燃える男、片やポーカーフェースの印象がある。幸運なことに、その2人にプロ野球担当時代に仕事で関わることができた。1996年、星野監督が中日の指揮官に復帰したばかりの頃だった。キャンプ取材中に「そんなことはもっと早く聞きにこい!」と、大勢の記者の中で怒られたことを覚えている。遠征では午前中にチームの宿舎に行くと、監督は担当記者がたむろしている喫茶店に姿を見せ1時間ほど雑談するのが常だった。あるとき甲子園遠征の際に、阪神にいた新庄が首脳陣とうまくいってないとの話題になると、いきなり「(新庄を)ここに連れて来い!」とやって記者たちを爆笑させたものである。記者とコミュニケーションをとることが、星野流気配りなのだろう。
名古屋から東京に転勤し日本ハム担当になると、現役最後のシーズンを迎えることになる落合がいた。キャンプの散歩では野球以外の話は何でもしたが、シーズンが開幕すると球場では何も話さない。質問しても無視された。4月中旬、先輩記者から「試合前に自宅へ行けばハイヤーに同乗できる」と聞かされた。行ってみると落合となじみのスポーツ紙の記者が1人いて、私も乗せてもらった。それ以前に中日からフリーエージェントで巨人に移籍したころは、いつも3人ほどの記者とともに東京ドームへ移動していたそうだ。晩年の注目度はそれほどでもなかったようで、5月から記者は私だけになった。後部座席の左に落合、右に私が座った。合計20回近くは便乗させていただいたと記憶している。さすがに緊張して宙に浮いたような気分だったが、いつも横で眠そうな顔をしていた大打者は何か聞けば答えてくれた。自らの活躍で西武に大逆転した試合後の球場では無言だったのに、翌日の車中で「あれは(打たれた投手の)西口君の考えすぎでしょう」と解説が続いたこともあった。
中日というチームにとって、星野監督が就任し、落合が新加入、ユニホームも変わった1987年という年は球団史の分岐点になった年でもある。それから日本一まで20年かかった。日本一の主力メンバーは第2期星野時代に入団した選手が多くを占める。落合は一度捨てた名古屋に戻り、星野は古巣の中日から阪神、そして五輪代表監督と、違う世界で活躍している。やはり、強烈な個性の2人がいなかったら、中日の日本一は未だに達成されていなかったのでは、と思う。
【写真】53年ぶりの日本一となり、胴上げされる中日・落合監督=11月1日夜、ナゴヤドーム
榎本 一生(えのもと・かずき)1969年横浜生まれ、92年入社。プロ野球担当、大相撲担当などを経てことしから高校野球担当。取材で最も印象に残っているのは1994年夏の甲子園佐賀商の優勝。
2007年12月07日
伸びやかな中村に期待
女子柔道のホープ、中村美里(東京・渋谷教育渋谷高)が11月に行われた講道館杯全日本体重別選手権で優勝した。これまでの48キロ級から52キロ級に階級を上げての初戦を見事に飾って満面の笑みを浮かべた。18歳らしい屈託のない笑顔だった。
私が柔道担当になったのは昨年初めからで、こんなにうれしそうな中村を見るのは初めてだった。中村は谷亮子(トヨタ自動車)が妊娠で戦列を離れた2005年に、16歳で講道館杯、福岡国際女子選手権の48キロ級を立て続けに制覇して一躍「ポスト谷」として注目を浴びた。中村を初めて取材をしたのは2006年1月の奄美合宿。どこにでもいそうな高校生で「谷さんと比較されてもピンとこない。自分はまだまだ弱い。期待されても実感がわかない」とキョトンとした表情で話したことを思い出す。
成長過程にある自分と周囲の評価とのギャップを感じ取っていたのだろう。大会があるたびに活躍を求められ、それを裏切る中村がいた。2006年はフランス国際、全日本選抜女子体重別選手権、ドーハ・アジア大会と敗戦。今年は谷の復帰戦で注目された4月の全日本選抜体重別選手権も準決勝で敗れた。精神的な疲れと体の成長に伴う減量苦から階級変更を決意したという。
谷との対戦は一度もない。スピードある谷と長身で足技のうまい中村の戦いは、スタイルがかみ合いそうで是非見てみたかった。でも、「谷さんに勝つために柔道をやっているわけじゃない」というのが本心だろう。当初は2012年ロンドン五輪を視野に入れていたが、「52キロ級で北京五輪を目指す」と堂々と言ってのけた。
日本の柔道界を振り返れば、15歳から世界のトップに立ち続ける谷(田村)亮子の輝きの前に、数多くの選手が期待され、消えていった。実力の世界であるから当然のこととはいえ、打倒谷の幻想を背負わされる重圧も相当だったはずだ。目に見えない谷との戦いを経験し、今は「同じ日本代表で戦えたらうれしい」と無邪気に話せる中村に、自由と快活さを感じる。格闘技で階級を変更する場合、上げる方が比較的成功する例は多い。国内の女子52キロ級にはアテネ五輪銀メダリストの横沢由貴(三井住友海上)や今年9月の世界選手権(リオデジャネイロ)3位の西田優香(淑徳大)ら強豪がそろう。し烈な北京五輪代表争いの中、のびのびと戦う中村の姿を楽しみにしている。
(写真)講道館杯体重別柔道の女子52キロ級決勝で垣田恵利(手前)を攻める中村美里=千葉ポートアリーナ
森本 任(もりもと・まこと)1998年入社。プロ野球担当として阪神、日本ハムを取材。2005年12月に東京本社に異動。現在は柔道、レスリング、大相撲、スキーなどを担当。柔道3段。