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スポーツリレーコラム

2007年08月29日

「オシム節」全開だったアジア・カップ 取材陣には手強い監督  

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 イラクの初優勝で幕を閉じたサッカーのアジア・カップから1カ月が過ぎた。東南アジアのうだるような蒸し暑さの中、3連覇を狙った日本は4位という成績に終わった。1次リーグを1位で突破し、昨年のワールドカップ(W杯)で無残な逆転負けを喫した因縁のオーストラリアをPK戦で退けたまでは理想的だった。だが、続く準決勝でサウジアラビアに2―3と競り負け、さらに3位決定戦でも決め手を欠いて、宿敵韓国相手にPK戦で涙をのんだ。尻すぼみの印象が強く、芳しい結果は残せなかった。

 ▽「オシム節」連発
 「2度ズボンを下ろして、見せるべきでないものを2度も見せてしまった心境だ」。韓国戦後の会見で、オシム監督はこう話した。英語担当の女性通訳が訳しづらそうにしているのを見て、思わず老将も申し訳なさそうに苦笑したが、要はサウジ戦とともに恥ずかしい試合を見せてしまったという事だろう。含蓄と機知、ブラックなユーモアも交えた〝語録〟で知られるオシム監督は、大会期間中、彼一流の発言を繰り返した。

 「わたしの国には、まだ生まれていない子ウサギを森へ探しに行くな、ということわざがある」。これは1次リーグB組最終のベトナム戦前に話した内容だ。B組を1位で通過すればベトナムにとどまり準々決勝もハノイで行える利点があったが、オシム監督は先のことは考えずに目の前の試合に集中することを母国のことわざを引用して強調した。そして、結果的にはベトナム戦に充実した内容で快勝。それでも「満足したら進歩は止まる。監督として満足したら、それはこの職を辞めるべき時だ。ただ、監督はその前に辞めさせられることがよくあるが」

 ▽取材陣は苦労
 時に笑いを誘い、時に深みのある表現を自在に繰り出す66歳の監督だが、メディア側は意外に苦労しているのも現実だ。いいか悪いかは別にして、取材する側は「こういうコメントを引き出したい」という狙いを持って質問することが多々ある。例えばテレビ局の記者は、試合前には長々しい技術論より威勢のよい意気込みを聞き出したい。スポーツニュースの限られた映像で「全力で戦って、絶対に勝ち点3を奪う」というようなニュアンスの発言を収めたいと考えている。しかし、オシム監督は水を向けられても誘いには乗らない。「何か意図があるようですね。意気込みはカメラのないところで、こっそり話しましょう」。これは、なかなか手強い。

 オーストラリア戦は1-1の緊迫した試合で、最後にPK戦を制した。随所に日本らしさが出たベストゲームだった。「どうもジャーナリストのみなさんは、わたしに満足と言わせたいらしい。ここでは満足したと言いましょうか。もしくは、わたしが満足したと言ったということにして記事を書いてもいいですよ。この会見を終わらせるには、それが一番でしょう」。監督と報道陣のせめぎ合いは、こういう具合に続いている。

 韓国戦の前夜、オシム監督とGK川口が並んで記者会見に臨んだ。過去何度も日韓戦を経験している川口は、ライバルとの戦いを前に熱い思いを口にした。筆者は、オシム監督が伝統の日韓戦へ、どんな思いを抱いているのか少し興味があった。聞いてみると「わたしは日本人ではないから特別な思いは分からない。日本人のあなたが、どうして特別なのかレクチャーしてほしい」。おっしゃる通りだが、見事な肩透かし…。やっぱり手強い。

 ただ、オシム監督がメディアに誠実に対応しないというわけでは決してない。ひねくれた返答や難解な言い回しも多いが、真意を散りばめながら言葉を紡ぐのが老将のスタイルだ。それを、どう読み解くかがオシム取材の醍醐味でもある。

 来年2月、いよいよ日本はW杯アジア予選に臨む。さらに進化したオシム・ジャパンが、アジアを勝ち抜くことをファンは期待している。そして、2010年の南アフリカを舞台に、どんな戦いができるのかを思わず考えてしまう。おっと、これは「まだ生まれていない子ウサギ」の話。まずはアジアで一戦一戦、着実に勝利を積み上げていくしかない。その時は、どんなオシム節が聞かれるだろうか。願わくば、予選では「ズボンを下ろす」ような試合は見せないでください、オシム監督。

山室 義高(やまむろ・よしたか)1975年生まれ。神奈川県横浜市出身。名古屋、大阪両支社を経て05年12月から東京運動部。主にサッカー担当でJリーグや02年、06年ワールドカップ(W杯)などを取材。



2007年08月22日

高校野球の監督は老け顔? 指導者としての風格の現れ  

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 高校野球の監督は見た目が実年齢よりずっと上。6月中旬に始まった全国高校野球選手権大会の沖縄大会から取材を続けてきた中で痛感していることである。

 大阪代表として甲子園に出場した金光大阪の横井監督は32歳だが、とても自分より5歳も年下とは感じられない貫録があった。遊びたい盛りの何十人もの子どもたちを指導していくことで徐々に風格が身に着いていくのだろう。

 大阪大会決勝で金光大阪に敗れた、中田翔を擁する大阪桐蔭の西谷浩一監督も自分と同い年とは思えない。昨夏の甲子園を制した早実の和泉監督は、優勝決定時で44歳。だが、白髪の目立つ容姿はもっと上に見えるし、今夏の選手権に出場した選抜優勝2度の実績がある広陵の中井監督の45歳もまたしかりである。

 私自身も、甲子園大会の現場責任者として奮闘?しているが、それだけでは実年齢より上に見えるようなものは何も身に着かないようだ。自分は童顔なので、風格のようなものがあれば越したことはないのだが…。

 それでも、年を取ったと実感することはある。選手に親の年齢を聞くと自分とほぼ同世代ということがあった。二十歳ぐらいでできた子どもは、親が三十代後半になるころには高校生になる。入社間もない九十年代半ばに取材した高校球児には特別なものは感じなかったが、三十歳を過ぎてから夏の甲子園を取材した時は選手たちが可愛いと思えたものである。

 そんな中、強豪・常総学院の監督に何と76歳の木内幸男監督が復帰するというニュースがあった。夏2度、春は1度の甲子園制覇経験がある名将には、どこまでエネルギーが残っているのだろうか。孫ほども、いや孫以上も年齢の離れた子どもたちを指導する“おじいちゃん”。体調面は気になるが、そこは情熱でカバーしていくのだろう。自分の生まれるはるか前から監督を務め、再び現場に戻ってくる。高校野球の「魔力」に取りつかれたと、解釈したい。

 それでは一体、高校野球の監督は何歳が適任なのか。過去10年間の夏の優勝監督の平均年齢を調べてみると46・8歳。この中には、10人の中には智弁和歌山の高嶋仁監督、駒大苫小牧の香田誉士史監督と2度優勝を経験している監督が2人もいた。

 単純に解釈したら、選手たちとは年齢が離れすぎす、かと言って近すぎないという理想の年齢像が浮かんでくる。指導者として一番油の乗りきっているのが、この年代なのだろう。自分もその年齢に到達するころには、もっと立派な大人になっていたいと思う。

(写真=昨夏の甲子園で初優勝を飾った早実の和泉実監督)

榎本 一生(えのもと・かずき)1969年横浜生まれ、92年入社。プロ野球担当、大相撲担当などを経てことしから高校野球担当。取材で最も印象に残っているのは1994年夏の甲子園佐賀商の優勝。



2007年08月15日

インターハイは高校生の晴れ舞台 3年間の努力を人生の財産に   

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 先日、佐賀インターハイを取材してきた。連日気温30度を超える中での仕事は大変だったが、高校生たちの一生懸命な姿を見ていると自然とやる気がわいてきた。 高校3年間は人生で2度と戻ってこない。限られた時間の中で一つのことに打ち込むことは本当に素晴らしい。

 陸上女子長距離に絹川愛(宮城・仙台育英高)が出場した。大阪で8月25日に開幕する世界選手権の日本代表に高校生でただ一人選ばれた逸材だ。6月末の日本選手権で世界への切符を手にしたが、その後は脱水症状で入院した。

 それだけに今後の調整を考えれば、インターハイを欠場する選択肢もあったが、「絶対に高校チャンピオンになりたい。3年生で最後のチャンスだから」という強い意思で三千メートルにエントリー。指導する渡辺監督と無理をしないという約束を交わしながら、ラスト500メートルを切ってからは外国人留学生たちと激しいラストスパートを繰り広げた。レース後は体調を心配する周囲をよそに、開口一番「あー悔しい」と叫んだ姿は、ほかの選手と同じ一人の高校生だった。

 インターハイ出場は高校で部活をやっている人ならばだれもが夢見るだろう。わたしも柔道で目指していたが、かなわなかった。3年生最後の大阪府予選で負けたときはあまりにショックで、抜け殻のようになった感覚をいまでも覚えている。翌日も学校をさぼって、あてもなく街をぶらついた。

 この話をかつてプロ野球阪神タイガースを担当していたころ、当時の星野仙一監督にしたことがある。インターハイと球児の聖地である甲子園はともに狭き門で、ほんの一握りの高校生しか立つことができない大舞台。「おれもや。予選で負けたときは本当に死のうか思った」。岡山・倉敷商のエースだった星野少年は東中国大会の決勝で敗れ、あと一歩のところで切符を逃した。その夜は押入に閉じこもって泣き続けたという。だが、ここで終わらないのが、後に「闘将」と呼ばれる少年のすごいところなのだろう。悔しさを力に変え、明大に進学して活躍。プロでの華やかな野球人生はいうまでもないだろう。

星野監督は「もし、あのとき甲子園に出ていたら、その後のおれはなかったかもしれない」と話した。全国の舞台に立てる人、立てない人。臭い言い方になるが、結果は違っても高校3年間で流した汗、涙に差はない。人生の財産としてほしい。

(写真=佐賀インターハイ女子3000メートル決勝で2位となり、笑顔でゴールする仙台育英の絹川愛)

森本 任(もりもと・まこと)1998年入社。プロ野球担当として阪神、日本ハムを取材。2005年12月に東京本社に異動。現在は柔道、レスリング、大相撲、スキーなどを担当。柔道3段。



2007年08月08日

もっと地方でオールスター開催を プロ野球ファン開拓の手段に  

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 今年のプロ野球オールスターゲームを取材しながら感じたことがある。
 「もっと地方開催を積極的に展開してみたらどうだろう」。
普段はテレビ画面でしか見ることができない人々に”夢の球宴”を直接体感できる機会をどんどん提供していく。野球人気低迷が懸念される中、新しいファン開拓の手段になると思う。

 ▽盛り上がった仙台
 今年は7月20日の第1戦が東京ドーム、翌21日の第2戦は楽天の本拠地であるフルスタ宮城で行われた。東北地方でオールスターが開催されるのは、楽天が新規参入する13年前の1992年の第3戦(仙台=現フルスタ宮城)以来。地元ファンの関心は高く、前売り入場券は発売開始日に即日完売。試合当日はあいにくの雨模様となったが、スタンドには多くの観客の熱気があふれていた。

 秋田県男鹿市から高速バスで観戦に来た50代の男性は「楽天の年間シートを買えば、オールスターのチケットが優先購入できた。土日しか球場に来られないけど、どうしてもオールスターが見たくて13万円の年間席を購入しました。天候はよくなかったけど、楽しめました」と笑顔を見せた。

 宮城県栗原市在住の会社員(51)も「前はサッカーのファンだったけど、楽天が仙台に来てからはプロ野球だね。オールスターが見たくて、苦労して入場券を手に入れたよ」と話した。試合途中から雨脚が強まり、八回途中降雨コールドゲームとなったため、一部の観客からは「最後までやってほしかった」(仙台市内在住のOL)などの不満が漏れてきたが、仙台開催に対する否定的な声は聞こえてこなかった。

 ▽地方開催の意義
 今回は楽天の本拠地球場として実施されたため、通常の”地方でのオールスター”と一緒にするのは筋違いかもしれない。ただ、地元のファンが15年ぶりの球宴を待ち望み、新鮮な気持ちで試合を楽しんでいた状況から判断すれば、今年に限っては地方開催と同じように扱ってもいいだろう。

 2リーグ分立となった翌年の51年から始まったオールスターは、全試合が各球団の本拠地球場で開催されてきた。しかし、80年代の後半に野球振興などを目的として地方でも行うことが検討され、4年に1度のペースで実施していく方針を決定。初めて本拠地球場以外で実施されたのが、92年の第3戦の仙台だった。

 当時は混乱を避けるため前売りの販売窓口を球場一本に絞った。発売3日前からファンが並び始め、前夜には1万人以上の行列ができるフィーバーぶりだったという。その後、96年に富山、99年に倉敷、00年は長崎で実施。01年は日本ハムが移転する前の札幌、02年は松山、04年は長野、昨年は宮崎で行われた。現在は2年に1度の割合での地方開催を目指し、10年は新球場の建設を目指す新潟、12年は2度目となる松山に内定している。

 ▽球宴を全国展開へ
 オールスターの収益は選手年金などの重要な財源となる。安定した収入を得るため、開催条件として3万人規模を収容できるナイター照明付きのスタジアムが求められる。さらに7月後半は夏の高校野球の予選と時期が重なり、地元との日程的な調整も必要となる。地方開催にはクリアすべき条件が少なくはない。

 一方、一昨年からはセ、パ両リーグによる交流戦が始まり、”セ対パ”の真剣勝負の機会が実現した。またスター選手の海外流出でオールスターの魅力がうせたという指摘もあり、球宴の在り方を見直す時期とも言える。そこで、今後は積極的に地方展開し、2年に1度といわず、3年に2度、4年に3度、いや思い切って毎年開催に踏み切ってはどうか。本拠地球場でも球宴が巡ってくる回数が減少すれば、今よりも希少価値が保てるだろう。

 多少のマイナス要素には目をつぶり、何とか球宴の全国展開を実現させてほしい。松坂(レッドソックス)らが抜けたといっても、球界を代表する守護神の藤川(阪神)が目いっぱいの快速球で勝負し、史上7人目の三冠王に輝いた松中(ソフトバンク)がフルスイングで応えるシーンは見応え十分だろう。トップ選手同士がチームの勝敗を気にせず、力と力でぶつかり合う球宴を”生”で提供し、新しいファンを引きつけてもらいたい。

松岡 登(まつおか・のぼる)1966年生まれ。広島県出身。98年からプロ野球担当となり、中日、阪神、ヤクルトなどを取材。05年からはコミッショナー事務局やセ、パ両リーグなどを中心に取材。



2007年08月01日

悔しい敗戦を乗り越え栄冠を! 「振り逃げ3ラン」で敗退の横浜高  

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 30年近く高校野球を見ているが、あんなプレーは初めて見た。7月28日の横浜スタジアム、高校野球の神奈川大会準決勝 横浜―東海大相模戦の四回に「振り逃げスリーラン」という前代未聞のプレーが起きた。

 既にスポーツ新聞などで大々的に報じられており、ご存じの方も多いと思う。神奈川の高校野球熱はすさまじく、好カードで土曜、好天に恵まれたこともあり、球場は外野席まで立ち見でぎっしりの超満員だった。実に3万人が見守る中で、この出来事が起きた。

 四回に東海が3点を先制し、なお二死一、三塁。打者菅野は2ストライクから外角のワンバウンドの球を空振りした。三振でチェンジと思った横浜ナインが引き揚げ、ベンチ前で次の攻撃に備えて円陣を組んでいた時だった。東海ベンチから「走れ、走れ」の声が飛び、無人のダイヤモンドを三走、一走、そして打者走者までが本塁まで駆け抜けたのだ。

 野球規則では空振りしたワンバウンドの球を捕球した時点ではまだ三振が成立しておらず、打者が走塁を放棄するか、捕手が打者にタッチするか一塁に送球して初めてアウトになる。結局東海の二死無走者で試合は再開、そしてスコアボードに「6」の数字が出ると場内は大きくどよめいた。

 横浜ナインも猛反撃したが、4―6で敗戦。結果論ではあるが、あの余計な3点さえなければ逆転…という、横浜ファンにとってはやりきれない敗戦だった。

 翌日の決勝戦。横浜の小倉清一郎部長が記者席にのっそり現れた。東海大相模―桐光学園のカードを見ながら、しばし談笑。くしくも目の前で「振り逃げ」の場面が起きて、捕手が一塁に送球して打者アウト。その瞬間に「ああやって投げときゃあ、いいんだよ」と独特のだみ声で大声で言うと、記者席がどっと笑い声に包まれた。

 決勝後の閉会式。神奈川県高野連の要職にある横浜の渡辺元智監督もそこにいた。目が合うと渡辺監督が「いやー、疲れちゃったよ」と笑いかけてきた。 「監督、10年前を思い出しましたよ。あの時も準決勝で悔しい負け方をしたじゃないですか」と激励した。

 10年前とは1997年夏の神奈川大会準決勝の横浜商戦のことだ。今年と同じ、2年生以下が多い若いチームで、横浜は八回まで2―1とリードしながら九回裏に同点に追いつかれ、なお走者が三塁。スクイズを警戒した当時2年生の松坂大輔が外角に外した球が暴投となり、まさかのサヨナラ負けを喫した。この悔やんでも、悔やみきれない敗戦を経験した松坂らは厳しい練習を積んで翌年、決勝でノーヒットノーランを達成して春夏連覇の偉業を成し遂げている。今回の騒ぎの発端となった捕手の小田君はまだ1年生だ。
 監督も少し考えて、分かってくれたようで「そうでしたね。また鍛え直しますよ」と笑顔で誓ってくれた。

 新チームは既に31日から始動しているという。来年は第90回記念大会。これが新たな伝説が生まれるターニングポイントの試合になるか、見守っていきたい。

写真=1998年夏の甲子園決勝でノーヒットノーランを達成した横浜高の松坂投手。

戸田 康文(とだ・やすふみ)1971年横浜市生まれ。神奈川・桜丘高―明大を経て入社し大阪、福岡支社を経由して01年12月から本社勤務。担当はボクシングのほかアマチュア野球、ラグビーなど。