2007年02月28日
スター出現で盛り上がり 追い続けたいバドミントン
昨年のドーハ・アジア大会で、バドミントン女子代表の米倉加奈子(ヨネックス)が驚いた表情で言ってきた。「こんなにマスコミの人たちが来たのは初めてですよね」
無理もない。五輪、アジア大会の国際総合大会でマイナー競技のバドミントン。日程などが味方して女子団体で日本選手団のメダル第1号を決めたこと、人気美人ペアの小椋久美子、潮田玲子組(三洋電機)らが活躍したことで、一般紙、スポーツ紙、地元紙が入り乱れ、選手と接触するミックスゾーンに殺到したからだ。
新聞各社が写真入りで大きく取り上げ、現地のデスクからは「今日もバドミントン頼むわ」とお墨付きをもらえた。前回の釜山大会は1度、アテネ五輪も主要な競技の合間にわずか3度取材に行けた冷遇と比べ、学生時代にこのマイナー競技に没頭し、いまだにプレーを続けるわたしにとって、こんなにうれしい出来事はなかった。
これは選手たちの活躍によるもの。マイナー競技で努力する選手たちに光を当てたい。これが共同通信に入社した理由の一つだったからだ。
▽マイナーに光を当てたい
「バドミントン? 公園でやるような羽根突きをやってるの?」「女のスポーツだろ?」
自己紹介でバドミントンをしてきたことを口にすると、ひ弱なスポーツという先入観でいろいろな人たちに言われた。どの競技も勝つために日々努力をしているが、報道はどうしても人気選手などが多くいるメジャーなスポーツに偏る。
トリノ五輪でフィギュアスケートを担当したが、この人気競技は選手が演技する曲目、内容を変更しただけでニュース。フィギュア女子で日本史上初の金メダルを獲得した荒川静香がフリーの演技に入れた「イナバウアー」は昨年の「新語・流行語大賞」になったほど。現在もフィギュアの人気は続いており、3月の世界選手権女子で初出場優勝を狙う16歳の浅田真央(愛知・中京大中京高)はCMに引っ張りだこだ。
一方、マイナー競技のバドミントンは世間一般の認知度が低い。中国男子代表が記録したスマッシュのスピードは332キロでラケット競技最速。テニス男子のアンディ・ロディック(米国)のサーブよりも速いことを知る人は少ない。1960年代後半からは国・地域別対抗戦女子ユーバー杯で日本が5度も優勝した伝統国であることも。
世界連盟もテレビを意識し、カラフルなウエアを採用したり、試合時間を短縮するためにラリーポイントに切り替えたり、五輪競技としての生き残りに必死だ。こんな不平等なことが起きる原因はマスコミの報道によるもの。メジャーになるため、日本選手が五輪で金メダルに輝くか、卓球女子の福原愛(グランプリ)のようなスターが出現するか―。そんな思案をしていたときに現れたスターが「オグ、シオ」の2人だった。
▽「オグ、シオ」の出現
三洋電機に入社した当時から2人は目立った存在。関係者からも「美人ペアがいるから取り上げて」と言われた。小椋が02年全日本総合選手権女子シングルスで史上初の予選上がりで優勝、潮田も3位。2人は非凡な才能を早くも発揮していたが、大事なアテネ五輪出場権争いで潮田が虫垂炎、小椋が左足小指を骨折し、脚光を浴びる好機を逃した。
しかし、どん底を経験した2人は04年からの全日本の女子ダブルスで3連覇を飾り、05年ヨネックスオープンジャパンで日本選手として12年ぶりの4強入り。日本協会もわれわれと協力し、記者会見があるごとに2人を広告塔としてバドミントンをアピールした。オグ、シオもドーハ・アジア大会で銅メダルを獲得し、期待に応える活躍でマスコミに一気に露出した。
あるマイナー競技団体の幹部に新年あいさつでバドミントンをしていたことを口にすると「オグ、シオのようなペアがいると、マスコミの関心が違うね。うらやましい」と、知名度の高さを感じた。バドミントンのブームが到来した現れか、昨年からは週刊少年マガジンで競技愛好者の咲香里さんが週刊誌で初めてのバドミントン漫画「スマッシュ!」の連載を始め、3月からはオグ、シオがCM登場の予定。北京五輪前年までにマイナー競技が盛り上がりを見せてきた。
5月からは1年間の長丁場で北京五輪の出場権争いが始まる。潮田は「結果を出すことでバドミントンがメジャーになる」と誓う。五輪までの長い戦いを期待して追い続けたい。
奥出 裕充(おくで・ひろみつ)1969年生まれ。アテネ五輪の体操、トリノ五輪のフィギュアスケートなどを担当。慶大時代はバドミントン部に所属し、ことしからはコーチ。
2007年02月21日
運命の巡り合わせに胸熱く 十両の里山と父博昭さん
久しぶりに胸が熱くなるというか、運命の不思議な巡り合わせを感じる話に出会った。
大相撲の十両に里山(尾上部屋)という力士がいる。鹿児島県奄美市出身の25歳。176センチ、117キロの小兵ながら、鹿児島商―日大相撲部で磨いた多彩な技を繰り出すお相撲さんだ。南国育ちらしく、色黒で毛深い体も個性にあふれている。
そんな里山の父里山博昭さんが初場所開幕前日にあたる1月6日の夜、血液の病気のため66歳で死去した。「昨年からヤマ場が5、6回あったんですが、自分が島(奄美大島)へ見舞いに帰るたびに元気になっていたんですが…」と里山は話す。虫の知らせか、亡くなる3時間前に父へ電話したのが最後の会話。「けがの治療だけはしっかりせえよ」と言われ、「おれもあしたから初場所頑張るから、父ちゃんも頑張って」と言った。
▽父の生まれ変わり
里山の祈りもむなしく、博昭さんは力尽きた。相撲が大好きな父親で、息子が中学生のころから、出場した大会のほとんどに駆け付けてビデオで撮影。入院先の病院を抜け出して来たこともあった。二人三脚で歩んできた道のりが走馬灯のようによぎったのか、父が死んだ夜、里山は独りぼっちの部屋で泣いた。同僚によれば、真夜中にすすり泣きの声が聞こえてきたという。
その翌朝、朗報が届く。里山の姉・晴美さんが帝王切開で女の子を出産。場所は何と、父が亡くなった病院と同じだった。里山は「父ちゃんが5階で死んで、姉ちゃんは4階で産んだんです。悲しんでいいのやら、喜んでいいのやら…」と複雑な笑みを浮かべる。つまり、父が生死をさまよっていた時、姉は陣痛に耐えながら新たな命を生み出そうとしていたのである。こんな話は今まで聞いたことがない。「ただただ、びっくり。性別は違いますが、これは生まれ変わりですよね」と里山も目を丸くした。
▽土俵人生の魅力
大相撲には横綱から序ノ口まで、初場所終了時点で702人の力士がいる。里山親子の話に代表されるように、それぞれの力士にも土俵を中心とした〝人生劇場〟があるに違いない。将来性豊かな力士と、そうでない力士。でも実際に深く接してみると、双方ともに土俵へ懸ける思いは、こちらの想像以上に純粋で熱かったりする。
だからこそ、週刊誌による「八百長疑惑」報道が騒がしい中、「どうせ、みんな(八百長を)やってんでしょ」という興味本位によるからかいの言葉を聞くと、ため息しか出てこない。もちろんこの問題に法的手段を講じる相撲協会の姿勢、今後の展開は取材し続けなければならない。時には批判することも、問題を提起することも必要だろう。ただ同時に、土俵人生を歩む彼らの素顔や本音も追い続けたいと思う。
里山と交流のあるアマチュア相撲関係者によると、亡き父はいつも試合会場の隅の方から、一人で静かに息子を見つめていたという。生前はマンゴーやたんかんを栽培する農園を営む「島人(しまんちゅ)」だった。
わたしは里山という男が好きで、よく一緒に酒を飲む。彼が新入幕を目指す春場所。昔と同じように、春の日差しの向こうから、亡き父はそっと見守ってくれているに違いない。今度は飲みながら、博昭さんの思い出話をじっくりと聞いてみたいと思う。
田井 弘幸(たい・ひろゆき)1973年生まれ。大阪府出身。96年に入社。大相撲担当からプロ野球の阪神、中日を経て、2002年から大相撲担当に復帰。
2007年02月14日
日本指導者の評価高めたい 中国行き決めた井村雅代さん
「え! まさか…」。わが耳を疑った。昨年12月、ドーハ・アジア大会のハマド水泳センターでのことだった。シンクロナイズドスイミングで長く日本を引っ張ってきたカリスマ指導者、井村雅代さんが、なんと中国代表のヘッドコーチに就任するというのだ。
おりしも、アジア大会では日本はデュエット、チームともに中国に初めて敗れ、銀メダルに終わった。“歴史的敗北”を喫した選手たちは衝撃を受けていたが、コーチだった井村さんの「中国行き」はそれ以上のショックだったに違いない。
後日、井村さんに尋ねてみた。すると、こう言った。「正田さんだって言ってたやないか。『次は中国を教えるしかないですね』って」。
そうだった。2004年、アテネ五輪を最後に井村さんが日本代表ヘッドコーチを辞めたときだった。どんな機会だったかは覚えていないが、シンクロに情熱の限りを尽くしてきた井村さんに「次は何をするんですか」と辞めた後の活動について話をしていたときだった。「中国を教えるのはおもしろいですよね。絶対、次は中国ですよ」。わたしは軽い気持ちで井村さんに“提案”していた。
▽知恵絞りロシア追い詰める
井村さんの指導暦は、そのまま日本シンクロ界の国際舞台での戦いの歴史と言っても過言ではない。1984年、シンクロが初めて五輪に採用されたロサンゼルス大会以来、すべての五輪で日本代表の指導に携わってきた。そして、日本は6大会連続して全種目でメダルを獲得。奥野史子、立花美哉、武田美保ら多くの教え子をメダリストに育て上げた。
2000年のシドニー五輪、そしてアテネ五輪と、世界トップのロシアを目指して戦った。身長の高さ、手足の長さなど身体面では日本はロシアより劣っていた。しかし、それを打ち破るために知恵を絞った。シドニー五輪では「空手」の演技で注目を浴び、初の銀メダル。01年の世界選手権(福岡)では、パントマイムを取り入れたコミカルな演技で立花、武田組が金メダルを獲得。アテネ五輪では「日本人形」をテーマにした立花、武田組が銀メダルを手にした。毎回新たなテーマを打ち出し「ロシアを追い詰めるのは日本」との自負を持って厳しく指導する姿は、時には周囲を振り回しながらも見る者をひきつけた。
▽達成感と閉塞感
自分自身で考えてみた。なぜ「次は中国しかない」と思ったのか。トップレベルのスポーツ指導者は、将来有望な原石を磨き上げて世界の頂点へ導くことを目指す。井村さんも、日本でそうしてきた。ヘッドコーチを辞める理由の一つに「シンクロのいいところも悪いところも知りすぎた」と言っていた。日本での指導に、一定の達成感と閉塞(へいそく)感を感じていたのだろう。一方、中国は身長が高くスタイルのいい選手を集め、当時から北京五輪を控えて「将来伸びてくる」と評価されていた。井村さんの戦う姿勢を見てきたわたしには「指導者としての次のチャレンジは中国だ」と自然に思えたのだった。
北京五輪まで2年を切った今、日本を脅かす存在に成長した中国を指導することに批判は強い。シンクロ界からは猛反発を浴び、日本オリンピック委員会からも「シンクロはどうなっているのか」との厳しい声も。しかし、五輪開催国から招聘(しょうへい)されたことは、まさにコーチ冥利(みょうり)に尽きるだろう。
「日本のコーチの国際的な地位を上げるいい機会だと思う。私が断ったら、ロシアのコーチが(中国に)来たかもしれない。コーチの評価を高めることは選手の評価を高めることになる」。井村さんはこう説明した。日本シンクロ界は、経験豊富で有能な指導者を敵に回すことになった。しかし、実力ではまだ中国より上。北京五輪で中国を打ち破ってこそ、井村さんが日本シンクロ界に与えた力を証明することになる。
「日本と中国が世界一を争うことが一番素晴らしい」。井村さんの言葉が実現する場面を見たい。
正田 裕生(しょうだ・ひろき)1965年生まれ。埼玉県出身。千葉支局、水戸支局などを経て99年から運動部。水泳、五輪、国体などを担当。
追い続けたい川嶋の戦い 想像できない世界の頂点
数あるスポーツ取材の中でも、ボクシングには特別な思い入れがある。子どものころから大のボクシングファンで、お気に入りの選手の世界タイトルマッチともなると、自分が戦うわけでもないのに試合前は緊張し、テレビの前で正座しながら応援したものだ。幸運にもリングサイドの記者席で観る立場になったが、あのころの純粋な気持ちだけは忘れずに持ち続けようと思っている。
1月3日。元世界スーパーフライ級王者で挑戦者の川嶋勝重(大橋)が王者のクリスチャン・ミハレス(メキシコ)との再戦に10回TKOで敗れ王座復帰に失敗した。いつも日本人ボクサーが負けると残念な気持ちになるが、今回は特にそれが強かった。
▽川嶋と同じジムで練習
実は筆者は学生時代、川嶋と同じ大橋ジムの練習生だったのだ。もう十年以上前の出来事だが、気分だけは世界王者のつもりで拳にバンデージを巻き、汗を流していた。当時はジムを開いて間もない時期。プロは4回戦の選手しかいなかった。〃4回戦ボーイ〃という軽んじた表現があるが、練習生から見れば大変な技量の持ち主だ。しかし一緒に練習していて「こいつはすごい才能があるな」と思った選手が試合に出ると対戦相手にあっさりと料理されてしまう場面を何度見たことか。そしていつの間にか、ジムからいなくなる―。この上に6回戦、8回戦、10回戦、日本王者、東洋太平洋王者など延々と続いていく。世界の頂点の高さなんて、とても想像できなかった。
こんなこともあった。混んでいる時間帯では一本のサンドバッグを複数の練習生が同時に叩くことがあるが、大学生の筆者が、向こう側で打っている中学生のパワーに押されて練習にならない。ちょっぴり落ち込んだ。
余談だが、ボディーブローは後でじわじわ効くなんて、あんなの嘘だ。野球中継などで解説者が「この攻撃がボディーブローになりますね。後で効いてきますよ」なんてしたり顔で言っているのを聞くと頭に来る。一度でいいから食らってみろよ、打たれたその瞬間に地獄の苦しみだから。
▽川嶋を倒せたかも?
元世界ミニマム級王者の大橋秀行会長は僕のパンチをミットで受けると「すごい威力だ。槍のような右ストレートだな」と持ち上げてくれたが、本当に期待の星なら厳しく接するはずだろう。会長、ありがとうございました。「新聞記者の道を捨ててボクサーに」なんてノンフィクションの主役になる無謀な夢を追うこともなく、就職と同時にジム通いはやめた。
川嶋も入門当時は全く目立たない存在だったという。21歳で脱サラしたはいいが、素質のなさを痛感した本人は世界はおろか、プロになることすら難しいと感じていたという。初心者だった彼が筆者と同じようにジャブの打ち方から学び、同じサンドバッグを叩きながら努力を重ねて世界の頂点を極めた時は驚いたと同時に、大変うれしかったことを覚えている。
ちなみに在籍期間は、わずかながら重なっている。筆者がジムを去る少し前に入門してきたらしい。もしこの時にスパーリングをしていたら? おぼつかない足取りの素人・川嶋の顔面を僕が「槍のような右ストレート」で打ち抜いて倒していたに違いない。惜しいな。後で自慢できたかも。以前、そんな話をしたら彼は笑っていたが…。
そんな川嶋も王座を2度防衛した後に陥落。昨年9月の暫定王座決定戦に続く黒星で、世界戦3連敗となった。初のTKO負けを喫したことで限界説も囁かれる。それでも試合後の控室で本人は「この前は引退なんて軽々しく口にしたけど前向きに頑張る。まだまだ強くなれる。40歳で世界チャンピオンになることが目標」と現役続行を明言した。
既に32歳と下り坂。技術よりも体力で勝負してきた右ファイターにとって未来が明るいとは限らない。筆者自身も川嶋の限界説を否定できないのも事実だ。それでもジムで「その他大勢」だった筆者としては、そこからはい上がって頂点に立った男の闘い続ける姿をこれからも追い続けたいと思っている。
戸田 康文(とだ・やすふみ)1971年横浜市生まれ。神奈川・桜丘高―明大を経て入社し大阪、福岡支社を経由して01年12月から本社勤務。担当はボクシングのほかアマチュア野球、ラグビーなど。
2007年02月07日
地元の熱気は数十年前が上 甲子園初優勝校を大歓迎
昨夏の全国高校野球選手権は、ハンカチ王子こと早実・斎藤佑樹投手の活躍で大いに盛り上がった。同じように、1980年代前半は、荒木大輔(早実)や桑田真澄、清原和博(PL学園)のKKコンビなど、超高校級の選手たちが甲子園を熱くした。
歴史をひもとくと、個人のインパクトではなくチームの快進撃で大会が盛り上がることも多かった。○○旋風と呼ばれ、下馬評がそれほど高くなかった学校があれよあれよという間に勝ち上がる。2年前の夏に甲子園初出場の清峰(長崎)が選抜優勝の愛工大名電(愛知)前年準優勝の済美(愛媛)を連破したのはまさに旋風だった。1970年代半ばから後半にかけては豊見城(沖縄)が旋風を巻き起こした。
▽数十万人が出迎え
そんなことを考えているうちに、初優勝後を果たした学校の地元の盛り上がりが気になり、図書館の新聞縮刷版で調べてみると、いろんなことが分かった。
いずれも夏になるが、1967年に習志野(千葉)が初優勝した時、同校の選手たちは国鉄の市川駅から千葉県庁経由で習志野市の学校まで約50キロをパレードした。その日、沿道に繰り出した地元住民は何と約50万人(県警調べ)。1969年に三沢(青森)が太田幸司投手の力投で決勝再試合の末、惜しくも敗れた後の帰郷は「ねぶた祭り以上の熱気」と報道され、1976年に桜美林(西東京代表)が初出場初優勝した時はベッドタウンで地元意識が薄いと思われていた町田市民が11万人も集まり、ヒーローたちを迎えた。1980年に横浜(神奈川)が愛甲猛投手を擁して全国制覇した時は、予想をはるかに超えるファンが新横浜駅に押し寄せ、選手たちはホームに降りてから駅長室に着くまで約1時間もかかった。早実―駒大苫小牧は記憶に残る決勝だったが、地元の熱気では、数十年前の方が上回る。
▽昨年とひと味違う展開を
春夏を通じて優勝経験のないのは16県、そのうち決勝に1度も進んでいないのは岩手、山形、山梨、新潟、富山、島根、宮崎の7県。東北勢は夏の第1回大会の秋田中(現秋田)をはじめ、春1度、夏5度の決勝でいずれも涙をのんでおり、そのすべてが惜敗だった。秋田中、三沢だけでなく1989年の仙台育英、2003年の東北(ともに宮城)も決勝は惜敗だった。
3年前の夏に駒大苫小牧が北海道に初めて深紅の大旗をもたらしたが、東北の人々はいまだにその大旗を待ち続けている。一高校野球ファンとして言わせてもらえば、白河の関イコール東北地方というイメージが強いから、大旗はまだ白河越えを果たしていないとの感が強い。
春の選抜は伝統的に初出場初優勝が多く、今年も11校が初出場で興味深い。今夏の甲子園では、現段階でまったくの無名校が快進撃をしているかもしれない。2007年は、昨年とひと味違う展開の春と夏をみたい。
榎本 一生(えのもと・かずき)1969年生まれ、92年入社。プロ野球担当、大相撲担当などを経てことしから高校野球担当。取材で最も印象に残っているのは1994年夏の甲子園佐賀商の優勝。