2017年05月19日

髪を切る

 髪を切った。
 ここまで短くしたのは何十年ぶりだろうか。


 90年代初頭、なんとなく心動かされて切ったことがあった。
 だが多くの人から「似合わない」とバッサリ。以来、ショートヘアにしたことがなかった。


 生まれてから現在に至るまでの「髪型遍歴」を見返すとちょっと面白い。
 赤ちゃんの頃は薄毛だったのか、中国の堂子みたいに、前髪とサイドにちょろりと髪がある程度。


 幼稚園児の頃になると、女の子らしさを強調したくなる。
 人形遊びからそれを学んだのか、異性の存在という意識の芽生えなのか、とにかく当時の自分にとって、女の子らしさは重要だった。


 髪を伸ばし、双子の中国歌手・リンリンとランランみたいに横でお団子にしたり、三つ編みにしたり、いろいろな髪型を楽しんだ。


 小学校に上がったある日。
 いつものように鏡の前で母に髪を梳かしてもらいながら、この髪留めじゃ嫌、あれがいいなどと、朝の慌ただしい中ごねていた。
 すると母がいきなり「もう自分でやりなさい。やれないなら髪を切りなさい」とブラシを置いて断言した。


 髪を結わくのを母任せにしていた少女の私。
 自分であれこれ試行錯誤しながら結わいてみるものの、うまくできない。
 遅刻しそうになり、泣いてすがって結ってもらう。
 

 長い髪を洗髪することも親任せだった私。
 シャンプーハットからシャンプー液が漏れて目にしみるというだけで、泣いて嫌がる厄介な子だった。


 泣く泣く、近所の行きつけの床屋で断髪する私。
 床屋でもらったガムをくちゃくちゃさせながら、「わー、男みたい!」と笑う弟。
 金魚槽のモーターのぶくぶく音が虚しく響く中、男の子みたいな女の子に変身する私。
 以降、弟と近所の悪ガキに混じって、草野球や缶蹴りといった、男の子遊びに興じることが多くなってゆく。ちょうど『がんばれ! ベアーズ』がはやっていた頃だった。男の子みたいな女の子も悪くないと思った。


 小学校の高学年から中学生になると、反骨精神が芽生え、ロックに夢中になり、スージー・クワトロのウルフカットに憧れた。
 アニメキャラの髪型とか、『小さな恋のメロディ』のメロディや麻丘めぐみに代表されるような乙女カット、ビートルズのマッシュルームカットなど、あれこれ試してみたこともある。
 しかし、どれもこれも、件の床屋のオヤジだったり、母が切るという、おざなりなものだった。


 美容室に行きだしたのは、高校生になってからだ。
 私立の女子校だったので、制服着用、校則も多少厳しかった。
 しかし、年頃の女子の興味といえば、オシャレや恋やはやりの音楽、食べ物などと話題は尽きない。


 髪の色を明るくするために、消毒液やビールを用いて脱色する輩たち。
 はやりの髪型は圧倒的に聖子ちゃんカットかテクノカット、ポニーテール。
 サーファーの子達にはやったのはファラ・フォーセットカットかサラサラのロングヘアだった。


 とにかく髪型を気にする女子が多かった。
 学校の休み時間になると、カーラーで髪を巻き始めたり、携帯用のコテと呼ばれるものを片手にスプレーを振りかけ、一生懸命セットし始める。


 私は、なぜかひたすら髪を伸ばし、三つ編みを編み込んだスタイルで登校。
 ある日、それが校則違反だということで、朝礼の際、全校生徒の前で立たされ指摘された。


 校則は、肩以上伸びたら三つ編みをすることを義務づけていたので、その通りにしたまでなのに、なぜこの編み込みが気に入らなかったのだろう。
 これは校則基準外、あなた個人のオシャレを意識している、と指摘された。


 年頃の娘がオシャレを意識するのは当たり前だろう。
 人とは違うことをしてみたいと「個性」を意識したくもなる。
 一瞬、お経のように聞こえるが、中身の薄っぺらな説教にうんざりした。
 しかも、時代は80年代の高度成長期の日本。文化大革命じゃあるまいし。


 この日以来、断固校則に抵抗し、学校側が強いるものに反抗し続けた。 
 母がこさえた猫のアップリケのついた鞄も没収されたまま。
 卒業したら返すと言われたが未だに返してもらっていない。
 その卒業もギリギリさせてもらえたという感じだった。
 おかげで、学校生活にはなんら良い思い出など残っていない。


 やがて大人になり、女優という職業柄、いろいろ髪型の変遷はあったものの、どうも私のイメージは黒髪のボブスタイルが強烈なようだ。デビュー作のイメージが鮮烈だったせいだろう。


 19歳から今まで髪を切ってもらっている人も変わらない。
 現在は青山でサロン経営をしている小松利幸さんだ。
 彼に髪を任せている一番の理由は、私自身が稀にみるくせ毛だから。


 このくせ毛が私の性格を表しているような「くせ者」で、一見なんともない佇まいだが中を覗くと、皆好き勝手に腰をくねらせ踊っているといったような手強いくせなのだ。


 ちょっと手に負えないこのくせ毛。
 猛獣使いじゃないが、それができるのは小松さんしかいない。


 そんなくせ毛隠しには、ある程度長い髪が一番楽だった。
 短いと、どうにもおさまりが悪い。外国人の緩やかなウェーブが欲しいけど、 それは、ライオネル・リッチーに緩やかなウェーブパーマをあてるような無理難題だった。


 いずれにせよ、長い髪は女優としても何かと便利だった。
 女としての武装的アイテムとしても。


 だが、せっかく伸ばしたその長い髪をバッサリ切らねばならないこともあった。
 がん闘病中の出来事。


 手術前に長い髪は多少切っておいた。
 しかし「来週から抗がん剤と放射線治療が始まるから、切っておいた方がいいわよ」と、婦長さんから促された。
 「なぜですか?」と問うと「万が一、髪が抜けたときに、ショックが大きいかもしれない」と言われた。
 私は枕の上に蠢くバッサリ抜けた髪を想像し、ゾッとした。


 さらに髪を切る。
 以前にもそういうことはあったにせよ、なぜか気持ちがせいせいした。  
 女としての私の全てを物語っているような髪。
 もう女とか男とか、どうでもいい。
 ひとりの人間として、生きるか死ぬか、その選択を迫られているのだ。


 闘病後、髪はあっという間に伸び、また女の武装的アイテムとして私の中でたゆたゆと揺れ動くのであった。


 なんだかなあ。


 くせ毛に関する無理難題はあれど、今やエクステやウィッグもあるし。
 そもそも、男の手垢がついた長い髪などいらぬ。
 ある日突然そう思い立って、私はバッサリ髪を切った。


 先日、その思いはさらに加速した。
 「もっと短くしたい!」。そう小松さんに相談すると、渋々応じてくださった。
 頭でデザインしながら、一心不乱にカットするその姿に思わず見入ってしまったほど。鏡の中には、今まで見たことのない私がいた。


 5月の柔らかな光の中で、風に揺れる樹々の若葉や愛らしい花たち、川の水面に揺れる光、海の波のうねり、自然が醸し出すものに魅了され、癒された。
 そういう有機的な存在の魅力からヒントを得て、自分を再構築すること。


 女や男というものにとらわれない、ステレオタイプな見た目から入るジェンダーからの脱性化。
 或いは、ステレオタイプな擬態にすら留まらない、個人表現としての美学。
 女、男、何にもとらわれないもっと変幻自在な存在として個人表現をしたい。


 季節柄、梅雨入り前にバッサリ切って気分も清々しい。
 難しく捉えず、感じたまま、なすがまま、思うがまま。
 そんな新しい心の表れなのだ、と思うようにしておこう。

髪を切る 髪型で印象は変わる。髪を切った記念の一枚。写真が捉える一瞬は面白い

洞口依子

洞口依子(どうぐちよりこ)

女優。1980年、「週刊朝日」11月7日号の表紙を飾り、雑誌「GORO」で篠山紀信の「激写モデル」として芸能界デビュー。85年、映画「ドレミファ娘の血は騒ぐ」(黒沢清監督)の主役に抜擢された。この時共演した伊丹十三監督の「タンポポ」「マルサの女2」に出演。テレビドラマでは92年の「愛という名のもとに」(フジテレビ)、97年の「ふぞろいの林檎たち」(TBS)などで個性的な演技を披露し、女優としての地位を確立した。2004年に子宮頸がんを発病したが克服し、06年に復帰。07年には闘病生活を綴った「子宮会議」を発刊。女優業の傍ら、ウクレレバンド「パイティティ」でライブ活動もしている。週刊文春「シネマチャート」連載中。

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