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2017年03月17日

伝説のグラビア「激写」

 今月4日、グラフィックデザイナーの長友啓典さんがお亡くなりになった。
 その訃報を機に、10代の記憶が鮮やかに蘇ってきた。


 私がデビューしたきっかけは、篠山紀信さん撮影による『週刊朝日』の表紙モデルに抜擢されたことだった。(1980年11月7日号)
 その表紙のアートデザインをなさっていたのが長友さんだった。


 当時、私は15歳。
 高校生になったばかりで、雑誌がどのように作られるのかさえ知らなかった。 有名な写真家に撮影してもらって、いい記念になったと単純にそう思っていた。


 その後すぐ、篠山さんと再び仕事をすることになる。
 小学館の雑誌『GORO』に連載され、一世を風靡したグラビア「激写」だ。


 まだ高校生だったので「脱がない激写をやろう!」ということになり、撮影は砧公園で行われた。公園中を小鳥のように駆け回り、生まれて初めての写真家とのセッション。それは、とても楽しいひとときだった。


 写真の現像が上がると、篠山さんのスタジオに呼び出された。
 そこには編集者、スタイリスト、ヘアメイクなどスタッフがそろう中、真剣そのもので写真を選ぶ篠山さんの傍に、長友さんの姿があった。


 デジタル以前の銀塩写真時代。
 写真選びに必須だったのは、フィルムビューワー台とルーペ、先っぽに糸のついたダーマトと呼ばれる色鉛筆だった。


 下から明かりが灯るフィルムビューワー台に向かい、丹念にルーペを覗きながらダーマトでネガをチェックする巨匠ふたり。その姿はチェス盤に向かうあうんの呼吸の棋士さながら。そんな彼らの背中を固唾を飲んで見守ったものだ。
 

 写真が選ばれると、今度はその写真を組む。
 「組む」というのは、雑誌に掲載する写真の順番を選び、グラビアページの流れを物語を紡ぐように組み立てていく作業だった。
 

 その時初めて、グラビアページは、実に巧みに構成されているものだと知った。
 それは、篠山さんが撮影する段階からすでに始まっていたように思う。
 

 私が最初にヌードを撮影した熊本阿蘇での「激写」ロケ。
 草千里には初夏を思わせる気持ちいい風が吹いていた。
 私のそばを通り抜ける風。
 母の手製のチェックのワンピースが風のいたずらで大きく翻る。
 その瞬間を捉えた一枚がグラビアの扉の写真になった。


 タイトルは「風いっぱい」。
 あの時の風はよく覚えている。
 人生の挫折や大人になることに悶々としていた私に、吹いた風。
 その風に吹かれるまま、私は私自身をそのままにした。
 私を包んだかと思うと、ふわりと浮遊し、すり抜けてゆく風。


 私はそんないたずらな風と無邪気に戯れる。
 邪気がないって本当に清々しい。
 パンツが見えようが見えまいがお構いなし。
 グラビアの扉写真に選ばれた一枚には、実際パンツは写っていない。
 あらわになった太腿が見えているだけで、十分刺激的だった。
 被写体に吹く「風いっぱい」を追いかけ、あのスカートの裾の中に誘われる。

 
 撮影では徐々に一枚一枚脱いでいくわけだけど、全部脱ぐ頃になると、もう気恥ずかしさなんか吹っ飛んで、あの風いっぱいにさらわれたくなる気持ちの方が勝っていた。
 

 自分の裸の写真をみて特に驚きもしなかった私でも、数枚の写真を組みはじめ、流れができると、今までに味わったことのない感動が沸き起こった。
 グラビアのページ構成に沿って、組んだ写真をスライドにする。それを映写すると、一枚一枚の写真から物語が浮かんでくるのだ。


 そこへちょっとしたポエムを編集者が添え、ゲラ刷り、校了を終え、印刷所へ送り込んで雑誌が出来上がる。

 写真というものは一枚のワンショットで繰り広げられるものでもあるが、グラビアとなると、ライブ感、動きが欲しくなる。
 一瞬の静止画から、動きが生まれるように写真を組むのが写真家とアートディレクターの仕事でもあるかのように。
 

 写真に取り憑かれた写真家と、その写真をより動きあるようアートディレクションするデザイナーと、優秀なスタッフたちに囲まれて作品を作るというその過程に、10代の私は魅了された。
 それは、大勢のスタッフで撮る映画とはまた違う、ライブ感を味わえる不思議なセッションだった。


 以来、カメラの前で私は、マネやゴーギャンの描く裸婦のように佇んでみたり、時には写真家の言うがまま、マン・レイの<ヴェールをつけたエロティック>や<理性の回帰なる写真>へのオマージュをも試みるのだ。


 そんな時、写真を前に長友さんは「いいねえ、まさにゴーギャンの女やん!」「やっとるねえ、マン・レイやん!」とあの笑顔でうれしそうに言うのである。

 
 そうやってグラビア写真の構成をああでもないこうでもないと作っていたあの頃。
 長友さんに大変お世話になったのは私だけじゃなく、そのグラビアを手にした男子諸君もなのだと、ここに書き留めておく。


 そしてもうひとつ。
 「激写」は、素人のお嬢さんがヌードになるという、当時としては画期的な企画だった。素人のお嬢さんをモデルにする「激写」の編集者には、並大抵ではない苦労もあっただろう。
私の友人が、卒業記念にといって篠山さんに撮っていただいた仰天話も懐かしい。


  何も知らされていない彼氏が私のところへ怒鳴り込んできた。まるで私が知っていて黙っていたか、そそのかしたとでも思ったのだろう。
 ことの次第を全く知らぬ私は寝耳に水。担当編集者を呼び出し、彼氏の話を聞いてほしいと頼んだ。


 彼氏が納得したかどうかは分からない。しかし、編集者と音楽の話で盛り上がり、帰る頃には意気投合。男同士すっかり仲良くなっていて、ホッとしたのを覚えている。
モデルが撮影場所に来なかったり、モデルの母親からは「記念に」と許可を得ても、父親には怒鳴られたり、説得し続けるなんてことは、ザラだったと聞く。


 私の場合も然り。編集者は何度、私の父親に頭を下げたことか。思春期だった弟はすっかり私との信頼関係を失い、今でもそのことがきっかけでずっと疎遠になっている。


 私のワガママで家族みんなに迷惑をかけたことは詫び続けているが、一生涯許してくれないものはもうどうにもならない。家族にとって私は、家族よりも自分を表現する人生を選んだ愚者なのだから。
 

 しかし、私は後悔などしていない。
 あの時、「激写」に出会っていなかったら、今の私はいない。
 「激写」を通じて学ぶことも多かった。
 オトナたちとともに、夢中になって作り上げた作品は、今でもあのときのまま残っている。
 写真の中の「私」は永遠にあの頃のまま。
 初々しい笑顔や自然光をまとった、ありのままの姿で居続けられる。

 
 「激写」シリーズとは、篠山紀信と長友啓典率いる「ドリームチーム」が生み出した、珠玉のグラビアだったのだ。 

 ~長友啓典さんのご冥福を心よりお祈りいたします~

伝説のグラビア「激写」 「激写」阿蘇ロケでの1枚。長友啓典さんのアートディレクションは秀逸だった

洞口依子

洞口依子(どうぐちよりこ)

女優。1980年、「週刊朝日」11月7日号の表紙を飾り、雑誌「GORO」で篠山紀信の「激写モデル」として芸能界デビュー。85年、映画「ドレミファ娘の血は騒ぐ」(黒沢清監督)の主役に抜擢された。この時共演した伊丹十三監督の「タンポポ」「マルサの女2」に出演。テレビドラマでは92年の「愛という名のもとに」(フジテレビ)、97年の「ふぞろいの林檎たち」(TBS)などで個性的な演技を披露し、女優としての地位を確立した。2004年に子宮頸がんを発病したが克服し、06年に復帰。07年には闘病生活を綴った「子宮会議」を発刊。女優業の傍ら、ウクレレバンド「パイティティ」でライブ活動もしている。週刊文春「シネマチャート」連載中。

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