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2017年01月20日

私の「沈黙」=前編

 いよいよ1月21日から公開されるマーティン・スコセッシ監督の『沈黙 サイレンス』。なんと、私もちらりと出演させていただいた。


 情報解禁を受けた昨年末から、あちこちに『沈黙』や『Silence』という文字を見つけるたびにニンマリしている。
 テーブルの雑誌表紙に『Since』の文字を見つけ「あ、Silence!」と見間違うほど。家族には「大丈夫?」と笑われている。


 キリシタン弾圧の渦中の江戸時代初期の長崎。


 『沈黙 サイレンス』は、ポルトガル司祭ロドリゴが、拷問に屈し棄教したとされるフェレイラ教父を探しに「キチジロー」という名の日本人漁夫とともに密入国するも、結局役人に捕らわれ、自身も「転ぶ(棄教)」ことを強いられ、信仰と沈黙したままの神という存在の疑念に板ばさみになってゆくという、日本の特性とキリスト教という神学的な主題を扱った、史実に基づいた遠藤周作の小説を映画化したものだ。


 大袈裟だと思われるだろうが、それほどまでに、この作品との出会いは私の人生にとって大きいものだった。
 いろいろな感情を思い出すだけで、今でも涙があふれてくることばかり。


 人生というものは本当に何が起こるかわからない。
 大病をした経験を思えば、生か死かという人生の岐路、あのクロスロードに立ったんだから、大抵のことにはもう驚かない。
 そんな私だが、今回は、頭から鳩時計の鳩が鳴り止まぬほど、驚いた。
 『沈黙』という作品に参加することの行程は、さまざまな驚きの連続だったのだ。


 もっとも、黒沢清監督の映画作品でデビューを飾った私にとって、映画というものは別の人生のような、女優として生きる洞口依子という生き物、そのものと言っても過言ではない。
 私は黒沢清監督という人に出会わなかったら、あのデビュー作品に出ていなかったら、ここまで映画好きになっていなかったかもしれぬほど。


 一瞬のきらめきを放つ、若く汚れを知らぬ初心な娘は映画に明け暮れた。
 あれから30年以上の時を経て、アメリカのハリウッドで活躍するマーティン・スコセッシ監督と仕事をするという事態を誰が予想できただろう。
 どんな役でもいい。ともに映画作りの現場にいられるというだけで夢のような思いだった。


 映画まみれになったおかげで、低予算映画の帝王ロジャー・コーマン氏の門下生であるスコセッシ作品はほとんど見ていた。
 中でも好きなのは、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013年)だが、『グッド・フェローズ』(1990年)『ミーン・ストリート』(1973年)や『明日に処刑を』(1972年)などが私のお気に入り。


 特に『明日に処刑を』のヒロインを演じたバーバラ・ハーシー。
 あの映画の彼女は、いつ見ても汚れなきおおらかなままでいてくれる、映画という世界に舞い降りた天使のような女。そういう存在に私も憧れた。
 少なくとも若い頃の私をそう見せたいと思った大人達がいてくれた。それだけでもありがたいことだと思った。


 そう。
 私はいつだって映画の暗闇の中で妖しげな光を放っていたいと思うのだ。
 そして、映画は、フィルムは旅をする。
 日本中に、世界中に。
 運良く、私の出演作の数本は世界を駆け巡っている。
 最近、『タンポポ』の4K作品がアメリカで上映されているとも聞く。


 そんな映画の魅力を知ってしまった私は、なんとしても「スコセッシ組」に参加したくてしたくて、たまらない女なのだ。


 さて、遠藤周作原作『沈黙』を映画化すると聞いて、実に興味深いと猫の眼になった私。
 それは、神学校出身のスコセッシ作品の要とも言える「信仰」というテーマに美しい寄木細工のようにぴったりはまる作品だったからだ。


 たとえば初期作品、『ドアをノックするのは誰?』(1967年)の罪悪感に苦悩するカトリック教徒の主人公。
 そして『ミーン・ストリート』の〝歩く刑罰〟ジョニー・ボーイに苛まれる主人公を演じるのは、ともに名優ハーヴェイ・カイテルだ。
 リトルイタリーを舞台に「暴力やセックス」と「汚れなき世界」という二つに分裂した自分に苦悩する主人公の姿は、まるで若かりしスコセッシ自身が投影されているようにも見える。


 『明日に処刑を』にも、ラストにキリストの最後を思わせる主人公が列車に磔(はりつけ)にされる場面がある。
 もはや神と自分が同一化してしまった『タクシードライバー』のロバート・デニーロ演じるトラヴィス然り。


 それら作品の主人公にも見られるように、スコセッシの作品には、移民大国アメリカ社会に生きるひとびとが抱く「信仰」というテーマが隠されているように感じる。
 まあ、私は神学的な感覚には馴染みがないのであまりよくわからないまま見ていたにせよ、思い返せばそんな作品が多いのが特徴だ。


 さらに付け加えると、『沈黙』という映画は、神父を目指し神学校に通う少年時代からスコセッシ監督自身が、ずっと問い続けてきたものの集大成とも言えるのではないだろうか。


 『最後の誘惑』(1988)を見ると、その予兆はすでに満ちあふれている。
 あの作品の冒頭。
 「神への到達を目指したキリストは
 極めて人間的なものと
 超人間的なものの
 両面を持っていた
 キリストのこの二元性は私にとって
 以前から尽きぬ謎であった
 若い頃から 私の悩み また喜びと悲しみは
 精神と肉体の間の
 飽くことのない苛烈な
 闘いから生まれてきた
 私の魂はその二つの力が衝突する戦場である
 ~ニコス・カザンザキス キリストの最後の誘惑より〜
 この映画は聖書の福音書に基づくものではなく
 この永遠なる魂の葛藤をフィクションとして
 探求しようとするものである」
 といった小説の長い前書きのような講釈がつく。


 イエス・キリストをひとりの生きる人間として描いた作品だが、キリスト役はウィレム・デフォー。ユダ役がハーヴェイ・カイテル。マグダラのマリアにはバーバラ・ハーシーという個性的な顔ぶれがそろう。
 印象的なのが、キリストにしか見えない表情のデフォー。
 そういえば今回、『沈黙』でキチジローを演じた窪塚洋介の面持ちはどことなく彼を思わせる。


 スコセッシ監督はこの作品を撮った直後に『沈黙』原作に出会ったそうだ。
 1966年に発表された遠藤周作の原作は、60代以上の方なら手にして読んだ方も多いと聞く。若い頃に私は読んでいなかったが、映画化の話を受けて早速手に取った。


 隠れキリシタンの話であることは知ってはいたものの、あの時代の日本にこんなに深い話があったということに驚いた。「この国は沼地だ。どんな苗もその沼地に植えられれば根が腐りはじめる」というフェレイラの言葉。
 自分のいるその場に底なしの沼地を見たような気分に駆られゾッとした。
 そして、キチジローというへんてこりんな人物にとても興味を覚えた。


 幸運にも私はキチジローの母「Kichijiro’s Mother」役をいただいた。
 原作にはない役。


 受け取ったシナリオには台詞がなく、キチジローの回想場面にちょこっと出てくる小さな役だ。私にとって何もかもが生まれて初めての経験。
 私はその行間をじっと考える。


 原作から、キチジローが棄教し、殉教する家族を見捨てる場面。
 何度も踏み絵を踏み、執拗に告悔を願う「転びもん」のキチジローとロドリゴの交流を何度も読み、あらゆる想像巡らす。


 スコセッシ監督ならどう撮るだろう。
 まだ見ぬキチジロー役は誰だろう。
 彼はどんな演技をするだろう。
 いったいどんな現場が待ち受けているのだろうか。


 なんの予想もつかなかった。
 しかも撮影にいつ呼ばれるかはわからない。
 まるで沈黙する神の言葉をじっと待つかの如く、
 私はロケ本隊に合流する日を心待ちにした。
 

 わたしの長い〝沈黙〟の始まりだった。


 つづく

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洞口依子

洞口依子(どうぐちよりこ)

女優。1980年、「週刊朝日」11月7日号の表紙を飾り、雑誌「GORO」で篠山紀信の「激写モデル」として芸能界デビュー。85年、映画「ドレミファ娘の血は騒ぐ」(黒沢清監督)の主役に抜擢された。この時共演した伊丹十三監督の「タンポポ」「マルサの女2」に出演。テレビドラマでは92年の「愛という名のもとに」(フジテレビ)、97年の「ふぞろいの林檎たち」(TBS)などで個性的な演技を披露し、女優としての地位を確立した。2004年に子宮頸がんを発病したが克服し、06年に復帰。07年には闘病生活を綴った「子宮会議」を発刊。女優業の傍ら、ウクレレバンド「パイティティ」でライブ活動もしている。週刊文春「シネマチャート」連載中。

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