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2016年12月13日

那覇・桜坂「おでん悦ちゃん」

 近頃、矢鱈に訃報がこたえる。
 私が年をとったせいだろうか。
 そんな年の瀬。


 忘年会シーズンも到来。
 忘年会とは一年の区切りの慰労をする宴会。
 年の瀬の賑やかな飲食店の店内。
 あちこちの宴席を遠目に、カウンター席で杯を傾けながらしみじみ思う。
 忘年というけれど、私はいったい何を忘れたいのか。


 確かに忘れてしまいたいこともある。
 だが、なぜか忘れられない星屑のようなことを思い出しては反芻している。


 「いつのことだか思い出してごらん。あんなことこんなことあったでしょう」 
 幼い頃、母が歌ってくれた懐かしい歌が耳の奥でよみがえる。


 私は今年亡くなった故人を思い出す。
 有名無名問わず多くの偉人、愛すべき人々が亡くなったことを。


 今年の初秋、大変お世話になったある方の訃報が届いた。
 あまりに突然の訃報に、驚いた私は運転中の車を路肩に停止し、エンジンを切った。ゆっくり深呼吸を繰り返す。


 するとたちまち涙が溢れ、やがて激しいスコールみたいにざぶざぶ降り始めた。
 外は晴れているのにワイパーを動かさないと視界が危ういほど。
 やっとの思いで家路に着くと、涙でびしょ濡れの重い心を抱えながら部屋に辿り着くなりぶっ倒れた。


 留守番猫はぎゃあと驚くも、びしょ濡れの私をサンドペーパーの舌触りでペロペロ慰めにやってくる。

 程なく、私はもう二度と会えないそのひとの面影を慕いに、そのひとが営んでいた那覇・桜坂にある小さな酒場を訪れた。

 「おでん悦ちゃん」
 桜坂に佇む、言わずと知れた名店。
 この店のマダム・康子さんに会いに行く。


 いざ店の前に佇むと、そのひとの訃報など全く実感がわかなかった。
 本当に亡くなったんだろうか。
 しばらく店を休んでいるだけじゃないだろうか。

 その日の那覇は大型台風がやってくる前触れ、生暖かく湿った強風が吹き始めていた。
 白いかすみ草の大きな花束を手向け合掌してみる。
 「安らかに」とか、いわゆるお決まりのお別れの言葉が出てこない。
 まだこの扉の向こう鍵を開けながらひょいと顔を出し「あら、よりちゃんじゃない!」と弾んだあの声が聞こえてきそうだから。
 

 愛するひとの突然の訃報はどんな別れよりも辛い。
 幾度かそれを経験しているものの、やはり辛い。
 現世では二度と再会することができないのだから。


 それでも、ひとはいくばくかの時を要して、日常の1分1秒からそのひとの不在を忘れ、悲しみという感覚からすっと放たれる。


 私もそのひとの訃報を聞いた9月11日からしばらく時を経て、雑多な日常のあれこれにまみれていると、大泣きしたほどの悲しみからはすっと放たれた。
 でも、いま再び思い出すと、ぽっかり空いたままの小さな穴がまだ埋まっていないことに気付かされる。


 私は毎年、クリスマスが近づくとお菓子作りに腕を振るった。
 好評だったのはラム酒をたっぷり使ったドライフルーツケーキで、お世話になったひとへ贈ったり、クリスマスや正月用に何本も焼いた。
 いつだったか忘れたが、そのひとのためにもフルーツケーキを焼いて土産に持参した。


 女優だから家事など一切しないタイプだと思われていたのだろう。
 そのひとは「よりちゃんがあんなに美味しいケーキを焼くとはびっくりしたわよ!」と感嘆し、会う度に何度も褒められた。

 そのひとにとって私という存在はいつだって女優・洞口依子だった。
 私の演技をたたえ、女優としての私を評価してくださり、「どうぐちさん」ではなく「よりちゃん」と親しみを込めて呼んでくれた。
 私はそのひとが「よりちゃん」と呼ぶ響きが好きで、心地よくのら猫みたいにでろんと酔いどれ、甘えていた。

 「よりちゃん、あなた女優さんなんだから」がそのひとのいつもの口癖で、「旦那さんを大事にしなさい」とか「またそんなに日焼けしてダメじゃない」と、何度も戒められた。


 もうそのひとのためにケーキを焼いて届けることもない。
 そのひとに会いにゆくこともできない。
 いつもの口癖も小言も聞けない。
 報告したいことがあったのに、それも果たせぬまま。


 いつのことだか思い出してごらん
 あんなことこんなことあったでしょう
 うれしかったこと
 おもしろかったこと
 いつになっても忘れない


 いかん。
 こう綴っている間に涙で視界がぼんやりしてきた。
 このお話はいずれまた。

那覇・桜坂「おでん悦ちゃん」 那覇・桜坂の名店の前で猫のようにシャッターが開くのを待つ私

洞口依子

洞口依子(どうぐちよりこ)

女優。1980年、「週刊朝日」11月7日号の表紙を飾り、雑誌「GORO」で篠山紀信の「激写モデル」として芸能界デビュー。85年、映画「ドレミファ娘の血は騒ぐ」(黒沢清監督)の主役に抜擢された。この時共演した伊丹十三監督の「タンポポ」「マルサの女2」に出演。テレビドラマでは92年の「愛という名のもとに」(フジテレビ)、97年の「ふぞろいの林檎たち」(TBS)などで個性的な演技を披露し、女優としての地位を確立した。2004年に子宮頸がんを発病したが克服し、06年に復帰。07年には闘病生活を綴った「子宮会議」を発刊。女優業の傍ら、ウクレレバンド「パイティティ」でライブ活動もしている。週刊文春「シネマチャート」連載中。

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