
初顔合わせの舞台『また、あした。』のけいこ場で語り合う柄本明(右)と大久保鷹=2002年5月、東京都内
■俳優・柄本明が先日、早稲田大学での国際シンポジウム『ACTING-演じるということ』で講演し、10年前の2人芝居の舞台『また、あした。』での秘密を明かした。共演の大久保鷹(かつて「状況劇場」の看板俳優)が、初日が迫ってもセリフを覚えられないのか、覚えないのか、一向に頭に入らない。そこで、大久保にイヤホンをさせ、スタッフが無線でセリフを伝える作戦が取られたのだ。イヤホンは大久保の長めの髪で隠れ、観客にはバレにくい。
■「もし僕がそういう物をもらったら、すごく屈辱的な感じを覚えるなと思って見ていたら、大久保さんは『なんだ、こんな便利なものがあったのか』って言ったんです。ちょっと殺意が芽生えました(笑)」と柄本。かくして東京公演の幕は開き、大久保は毎日、イヤホンとカンニングペーパーで演じ続ける。遠慮がちながら柄本は言った。「大久保さん、2人芝居ですから、やっぱりセリフをちゃんと覚えなきゃいけないんじゃないですか?」。大久保は「分かった、柄本、悪い。俺はもうじき覚える」と約束した。
■セリフを忘れた役者に舞台袖などから助け舟を出す「プロンプト」は古くからあり、珍しいことではない。しかし、約束は約束。東京公演を終え、2人は地方巡演に出た。上演前、イヤホンを普通に装着する大久保。柄本の我慢は限界。「いい加減にしてくださいよ!」。ついに怒られた大久保が返した言葉が、「柄本、何を言ってんだよ。俺はな、せりふを覚えてないんだぞ」。
■開き直り方が一級品で永久保存版だが、当時の柄本にすれば笑えない。「ふざけんなバカヤロー!」。プロンプターの女性スタッフと舞台監督も呼び、「てめえこの野郎、今日の舞台で大久保さんにセリフ教えたら承知しねえぞ!」と怒鳴りつけたのだった。ただ、講演で柄本はこうも言った。「でもね、大久保さんの芝居が、毎日じゃないけど、泣けてきたりするんですよ。つまり、こうやったからこうなるとかはなくて、普通にセリフを頭に入れて一生懸命する人と、どっちがいいのか、何も分からないんですよ」。観客の想像力を刺激した大久保の姿は、実はイヤホンからの声に耳を澄ましている姿だったのかもしれない。しかし、そんなことは日常にもよくある。
■脚本・演出を手掛けた山崎哲にいたっては当時、終演後まもなくのエッセーで、イヤホン作戦のことには触れず、「大久保鷹のすごさは素人としての揺らぎ=エロスのなかにある」「わたしの与えた課題が『うまくできなくて』揺らいでいるのだ」とつづり、柄本のことは、エロスが漂わない、と批判した。
■最後に、東京公演初日まであと8日のけいこ場、恐らくまだ誰もイヤホン作戦決行を夢にも思わぬ時点で、先輩記者が取材した2人の発言を紹介する。味わい深い。
大久保について柄本の発言:「役者っていうのは、(舞台上で)せりふを言ってない時は何もしていないみたいで不安になるもの。そこでうまく見せるのが役者だと思ってる人は多いけど、そういう不安が観客に見えるのはすごく大事。役者の心構えが見えるからね。不安を抱えながら舞台に上がる人はきれいですよ」。さらに、大久保の持つ「無意識の不安」がとてもきれいなのだと付け加えた。大久保:「目の前で起きていることに対する対応の仕方など、柄本ちゃんには役者としての受け皿の豊かさを感じる」。(敬称略)
(宮崎晃の「瀕死の私にエンタメを」=共同通信記者)
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