
『ねじまき鳥クロニクル』の文庫。上段が旧版、下段が新版
手もとに2種類の『ねじまき鳥クロニクル』の文庫があります。1つは平成9(1997)年に刊行された旧版の文庫です。それと平成22(2010)年に改版された新版の文庫です。旧版の文庫に比べて、新版は文字も少し大きくなり、組みもゆったりしており、そのかわりにページ数が増えています。
その他に大きく変わっているのは、カバーの装丁です。新版では第1部は「青緑」、第2部が「赤」、第3部が「青紫」です。これに対して、旧版は第1部は「青緑」、第2部が「紫」、第3部が「青」でした。
この移動は何だろうか…。そんなことを考えことがあります。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)の最初の単行本の表紙の色はピンクでした。そのピンクとは何か。「赤」と「緑」の『ノルウェイの森』(1987年)の表紙はあまりに有名ですが、その「赤」と「緑」が意味することは何か…。ここ何回か、村上春樹作品と「色」の問題を考えてきました。
今回は、この『ねじまき鳥クロニクル』(1994年、95年)という大長編と「色」の問題を考えてみたいと思います。
新版の文庫では、はっきりとした「青」が外され、かわりに「赤」が表紙に加わりました。もっとも第3部の「青紫」は、かなり「青」に近い「紫」ですので、単に「青」が省かれたというわけではないようです。むしろ「赤」が加わった変更と受け取ったほうがいいのかもしれません。
さて、話を簡単にするために、結論を先に書いてしまいましょう。『ねじまき鳥クロニクル』という作品の基調となる色は「青」だと私は思っています。
旧版の表紙の色は第1部の「青緑」で「青」を含んでいて、第2部の「紫」という色も「青」が混ざった色です。第3部の「青」を含めて、その表紙にも「青」が貫かれています。
『ねじまき鳥クロニクル』の中で、その「青」が出てくる場面を紹介しながら、このことを考えてみたいと思います。
色に注目して、この作品を読めば「青」が非常に重要な役目を果たしていることが、自然に分かるのです。以下、具体的に紹介してみましょう。
この大長編は非常に縮めて言えば、ある日、自分の前から、突然いなくなってしまった妻クミコを、主人公が取り返す物語です。
第1部の最初のほうで、僕とクミコが言い合う場面があります。「どうしてこんなものを買ってきたのよ?」とクミコが疲れた声で僕に言います。
僕が何を買ってきたのかと言うと、それは「青いティッシュペーパーと花柄のついたトイレットペーパー」です。それに対してクミコは「私は青いティッシュペーパーと、柄のついたトイレットペーパーが嫌いなの。知らなかった?」と言います。
僕は「知らなかった」と言います。そして「でもそれを嫌う理由は何かあるのかな?」と問うと、「どうして嫌いかなんて、私にも説明できないわよ」とクミコが言うのです。
村上春樹は「青いティッシュペーパーと花柄のついたトイレットペーパー」の「青い」と「花柄のついた」の部分にわざわざ傍点を打って書いています。「花柄のついた」のほうは、もしかしたらあまり重要ではないのかもしれません。なぜなら紹介したように、次の会話で「私は青いティッシュペーパーと、柄のついたトイレットペーパーが嫌いなの」というように、「花柄」が単に「柄」に置き換えられているからです。
私には、この部分は単なる些細なことを巡る夫婦の言い合いを述べている部分とは思えません。この大長編全体がクミコがどうして「青いティッシュペーパーを嫌いか」を解明する物語のように読めるのです。
ともかく、このように最初に「青いティッシュペーパー」のことが出てきます。それもかなり長く論議しています。文庫で10ページ近くも「青いティッシュペーパー」のことについて、書かれているのです。
その章の最後には「僕らは数日のうちにそんなつまらないいさかいのことを忘れてしまうだろう」「しかし僕にはその出来事が妙に気になった」とあります。
さらに「いつかその全貌を知ることができるようになるのだろうか?」「それがそのときに僕の考えたことであり、その後もずっと断続的に考えつづけたことだった。そしてもっとあとになってわかったことだが、そのとき僕はまさに問題の核心に足を踏み入れていたのだ」とまで、村上春樹は書いているのです。
ですから『ねじまき鳥クロニクル』という大長編をしっかり受け取るためには、この「青いティッシュペーパー」の「青」とは何かを考えることがとても大切だと思っています。
そして「青いティッシュペーパー」だけではなく、同作にはもっともっとたくさんの「青」が出てくるのです。それらを紹介してみましょう。
冒頭近くでも、例えば、僕の家の猫がいなくなって、それを路地の奥の空き家の庭まで探しに行く場面があります。そこで僕は、笠原メイという16歳の女の子に出会います。その笠原メイと最初に会った時、彼女は「袖のないライトブルーのTシャツを着ている」のです。
これはたまたまではありません。物語が100ページぐらい進んで、僕と笠原メイが再会する時にも「彼女は前と同じライトブルーのアディダスのTシャツを着て」いるのです。
さらに妻クミコと「青」に関するエピソードで見逃せないことが、もう1つ冒頭近くにあります。
クミコからの電話があって、品川の駅前にあるパシフィック・ホテルのコーヒールームで加納マルタと会う場面です。加納マルタと会うのは初めてですから、彼女は僕のことを識別するために「水玉のネクタイをしめてきてください」と言います。
僕は紺にクリーム色の小さな水玉の入ったネクタイを持っていました。それは2、3年前の誕生日に妻のクミコがプレゼントしてくれたものです。紺色のスーツにその水玉のネクタイをしめるとよくあって、クミコもその水玉のネクタイのことを気に入っていました。でもその水玉のネクタイがどうしても見つからない。仕方がないので、僕は紺のスーツを着て、ブルーのシャツにストライプのネクタイをしていきます。もし紺の背広に、ブルーのシャツに、青い水玉のネクタイをしていたら、青ずくめですね。その後、この水玉のネクタイは駅前のクリーニング屋で見つかります。
ここに紹介した「青いティッシュペーパー」と「ライトブルーのアディダスのTシャツ」と「青い水玉のネクタイ」は、物語の立ち上がりの部分に出てきます。クミコ、笠原メイ、加納マルタ。これら主要な人物が読者の前に登場する、ある意味でとても重要な場面が、すべて「青」に関係しているのです。
そして、妻のクミコは「青いティッシュペーパー」を毛嫌いしていますが、青い水玉のネクタイを僕の誕生日にプレゼントして、僕が紺色のスーツにその水玉のネクタイをしめるとよくあうので、彼女もその水玉のネクタイのことを気に入っていました。つまりクミコは一方的に「青」を嫌っているのではなく、彼女にとって「青」の価値、「青」への好悪は両義的であると思えます。
第2部には僕が夢の中で、紺色のスーツに青い水玉のネクタイをして、加納マルタの妹・加納クレタと会い、性的に交わる場面があります。夢の中での、その加納クレタはクミコの淡いブルーのワンピースを着ているのです。
このように重要な場面では、そのほとんどが青に関係している物語なのです。
さらにもう1つ、重要な青が、この『ねじまき鳥クロニクル』には出てきます。
この長編には井戸の存在が大きな役割を果たしているのですが、その空井戸の底に僕が降りていって、長く留まり、出てくる場面が第2部にあります。その時、井戸の中に長く滞在していたので、僕は髭が伸びていました。
僕は顔を熱いタオルで蒸して、たっぷりとシェーヴィング・クリームをつけて、注意深く髭を剃ります。顎を剃り、左の頬を剃り、右の頬を剃り終わってふと鏡に目をやると、「右の頬に何か青黒いしみのようなものがついていた」のです。
顔を鏡に近づけて、そのあざをもっと詳しく観察すると「右の頬骨の少し外側あたりにあり、大きさは赤ん坊の手のひらくらいはあった。色は黒に近い青で、それはクミコのいつも使っているモンブランのブルー・ブラック・インクに似ていた」と書かれています。
それは「黒に近い青」のあざですが、「黒に近い」という意味よりも、ここでも「青」のほうに意味があると思います。
よく知られるように、この『ねじまき鳥クロニクル』という長編は、1994年にまず第1部第2部が刊行されて、それでいったん完結した物語でした。その第2部のエンディングは僕が区営プールに行くところです。
そのプールにはいつもバックグラウンド・ミュージックが流れているのですが、そのときはフランク・シナトラの『リトル・ガール・ブルー』などがかかっているのです。
翌1995年に第3部が新たに書かれ、刊行されました。その第3部には赤坂ナツメグという女性が新しく登場しますが、彼女は満州からの引き揚げ者で、父親は新京動物園の主任獣医でした。
そして赤坂ナツメグの父は「三十代後半の背の高い男で、顔だちは整っていたが、右の頬に青黒いあざがついていた」のです。このように第3部は、その「青いあざ」で、第1部第2部とつながっているのです。
その第3部の冒頭に笠原メイの章が置かれていて、僕のことを「ねじまき鳥さん」と呼ぶ笠原メイから僕に手紙がきます。
「ねじまき鳥さんと会わなくなってからも、私はねじまき鳥さんの顔のあざのことをよく考えていました。突然ねじまき鳥さんの右の頬に現れたあの青いあざのこと。ねじまき鳥さんはある日穴ぐまみたいにこそこそと宮脇さんの空き家の井戸の中に入って、しばらくして出てきたらあのあざがついていたのよね」という手紙です。
さらに「私は最初に見たときからずっと、そのあざのことをなにかとくべつなしるしなんじゃないかと思っていました。そこにはたぶん何か、私にはわからない深い意味があるんだろうって。だってそうでなければ、急に顔にあざができたりしないものね」などと書いてあるのです。
これは今回のコラムの最初のほうで紹介したクミコの「青いティッシュペーパー」が嫌いということに発する、夫婦のいさかいについて「いつかその全貌を知ることができるようになるのだろうか?」「それがそのときに僕の考えたことであり、その後もずっと断続的に考えつづけたことだった。そしてもっとあとになってわかったことだが、そのとき僕はまさに問題の核心に足を踏み入れていたのだ」と書いていることと対応している場面だと思います。
つまり村上春樹は「『ねじまき鳥クロニクル』の『青』とは何か」について考えることを、読者に要請しているのです。
ですから、私も、以上、例に挙げたことを通して、その「『ねじまき鳥クロニクル』の『青』とは何か」について、さらに「村上春樹の『青』とは何か」について、考えてみたいと思います。
その理由はどうもちょっと長いものになりそうな気もしますが、次回のこのコラムで、考え、記したいと思います。このコラムの読者の方たちも、よかったら一か月間、その理由について一緒に考えてみてください。(共同通信編集委員・小山鉄郎)
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