記者コラム
もう一度見たかった伝説の台湾映画 エドワード・ヤン監督「☆(牛ヘンに古)嶺街少年殺人事件」

「☆(牛ヘンに古)嶺街少年殺人事件」の1場面(11月2日ブルーレイ&DVD発売、発売・販売元ハピネット(c)1991Kailidoscope
「☆(牛ヘンに古)嶺街少年殺人事件」の1場面(11月2日ブルーレイ&DVD発売、発売・販売元ハピネット(c)1991Kailidoscope

観光やグルメなどで最近、ブームの様相を見せる台湾。日本から近いのに文化や歴史が異なり、多くの人にとって新鮮な驚きがあるからかもしれない。そんな台湾を舞台に映画を作った故エドワード・ヤン監督の旧作2本が今年相次いで上映され、東京のミニシアターが連日ほぼ満員になるほどの人気を見せた。

1本は「☆(牛ヘンに古)嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」。日本では1991年に公開され、映画ファンの間で評判になったから覚えている人も多いだろう。その後、上映されることもなく伝説になっていた。1960年代初めの台北を舞台に、中学の夜間部に入学した男子生徒が殺人事件を起こすまでを描いた作品だ。見た当時、事件の結末に衝撃を受けたのはもちろん、この映画に込められた圧倒な力に打ちのめされた。なぜこれほど心揺さぶられるのか。多くの登場人物と少年グループの関係が複雑で、何が起きているのか分からない暗い場面があるせいでもあったが、言葉で表現できないもどかしさが残った。

この春、再び上映されると知り、居ても立ってもいられなくなった。正直に言うと、もう1度見ても、ふに落ちない点は残った。だが一つだけ、はっきり分かったことがある。ヤン監督が、分かりやすく単純化した物語ではなく、台湾の現代史、当時の時代背景、家族それぞれの苦悩、少年同士の貧富の差―などと主人公を取り巻いている世界を丸ごとフィルムに焼き付けようとしたということだ。最初に見たときから、混沌としているようでいて、奥の深い世界観に引き込まれたのだろう。

もう1本の「台北ストーリー」は、「☆(牛ヘンに古)嶺街」に先立つ1985年の映画で、日本では今回が初公開。少年時代に野球チームのスターだった中年の男と幼なじみの女の物語。ヤン監督とともに「台湾ニューウェーブの旗手」と称されたホウ・シャオシェン監督が演じる男は、借金の返済に追われる親類に金を用立て、困窮したかつてのチームメイトを助ける義理堅い人間で、しがらみにとらわれて新しい人生へ踏み出すことができない。一方の女は都会的なキャリアウーマンで米国に移住したいと願う。2人のすれ違いを、異なる価値観がぶつかる台湾社会のメタファーとして描いたようだ。だが台北という街、それぞれの時代、人物の心のひだに迫るという点では☆(牛ヘンに古)嶺街と共通している。

ヤン監督には一度、お会いしたことがある。2000年のカンヌ国際映画祭。ホウ監督に比べ、全世界的な評価と縁遠かったヤン監督が、「ヤンヤン 夏の想い出」でようやくカンヌの監督賞を受賞した。人生をやり直したいと思う主人公の会社役員、老いた母、学校に通う子どもらの3世代の物語。この世界に生まれ落ちた人間は、悩み、惑いながら年を重ね、そしてこの世を去っていく。☆(牛ヘンに古)嶺街などと違って、物語や人物の描き方が優しく、温かい。映画祭の授賞式に続く記者会見が終わった後、握手をしてくれたヤン監督。交わした言葉は「おめでとう」「ありがとう」といったたわいない会話だったと思うが、うれしそうな笑顔と、大きくて力強い手の感触は今も忘れられない。アジアを代表する巨匠として、これからの映画作りが期待されていた。

それから7年。突然届いたのは、ヤン監督が米国でがんの合併症のため死去したという記事。59歳といえば、映画監督としては精力的に仕事ができる年齢だ。もう新作は見られないのかと、呆然としたことを覚えている。実は、カンヌで受賞したころには既にがんと闘っていたが、ずっと関係者にも伏せていたのだと、最近知った。

今年はヤン監督の没後10年に当たる。今回の2作品もこれを機に上映されることになったのだろう。☆(牛ヘンに古)嶺街は4時間近い長尺だから、気合いを入れないと向き合えない。見る者に相当な集中力を要求する映画でもある。でもきっと、近いうちにもう一度映画館で見たいと思うに違いない。(伊奈淳・共同通信文化部記者)


いな・あつし 共同通信文化部記者。さまざまなテーマを担当し、沖縄や福岡にも赴任しました。今はまた文化部で仕事をしています。