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新刊レビュー
『おあとがよろしいようで』オカヤイヅミ著 死の恐怖を食で緩和できるか


食べ物愛あふれるコミックエッセイである。主人公たる書き手は何しろ「終わる」ことを恐れている。美味しいものを食べると、食べ終わるのが嫌である。ちびちび、ずーっと、飲み食いしていたい。だから「死ぬ前に食べたいもの」を聞かれると、具体的なメニュー名を考えるより先に「死んだらだらだら食いができない」とうろたえる。「ずーーっと食べ続けていれば、死を先延ばしできるのでは」とも考える。そんな彼女が、死の恐怖を克服しようと、現代文学を牽引する人気作家たちに、最後の晩餐を聞いて回ることに。この1冊は、その旅の一部始終だ。

綿矢りさと西加奈子が、共に「豆腐」を挙げているのが興味深い。綿矢は、死ぬ前に胃もたれするのが嫌だと言う。西は「映画はたまにめっちゃ観たくなるけど、小説は毎日飽きひん。お豆腐も小説と同じでずっと食べられる」と言う。朝井リョウはここぞとばかりに「洋麺屋五右衛門」愛を炸裂させ、島田雅彦は「埼玉屋」のもつ焼きコースで書き手を淡い煙に巻く。

それぞれが想定する「死」のシチュエーションもまた興味深い。自分の死と同時に全世界も滅亡することを大前提に語る者がいれば、1人で横になって、首元に猫が巻きついてきて、ぐるぐる言ってるのを聞きながらこと切れる、というきわめて具体的な最期を語る者もいる。だから書き手はその都度戸惑う。自分が思っている「死」と、相手が思っているそれが、まるで異なることに。しかも聞く相手ごとに「死」の様相がまるで違うことにも。

やがてそれらの死生観から、作家自身の世界観が浮き彫りになる。ああなるほどこの作家は、世界を、人を、その生命の営みを、こういうふうに見ているから、あんな作風につながるんだ。なんていう発見が読み手を襲う。だから、読みたくなる。ここに登場する作家たちの作品を。作家たちが美味しいものを前にして、頬を緩めている姿が目に浮かぶから。

いい本を読むこと。美味しいものを食べること。両方の悦楽の、この本はささやかな入り口なのかもしれない。

(文藝春秋 1050円+税)=小川志津子



『かわうそ堀怪談見習い』柴崎友香著 すぐそばにあるささやかな恐怖


これまでずっと、ホラーの手合いとは縁遠い人生を送ってきた。暗く重たい静けさの後に白い服の女がどーん!とか、普段はとても可愛い人形が急に血相変えて武器持ってばーん!とか、そういった娯楽を好き好んで選び取ることは若い頃からしていない。ただ、怪奇現象のたぐいの存在を完全否定する立場にはない。世界は、それを見ている人の数だけある。本当であろうがあるまいが、たまたま、私の目に映らないだけである。

幽霊、的なものたちについても、スタンス的にはニュートラルだ。亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんがもし現れたら、怖いというより、むしろちょっとうれしいんじゃないかと思う。二度と会えないと思っていた誰かがすぐそばにいてくれるなら心強い。そんなふうにも思う。

そんな私が、この1冊には、ぞくりとしたのだ。

語り手は、恋愛小説でブレイクしてしまったせいで、恋愛コラムとか恋愛指南とかの依頼が押し寄せるようになり、困惑している女流作家である。「恋愛小説家」と呼ばれないために彼女は、怪談を書こうと思い立つ。けれど彼女は、そのテのものを見る眼力を持っていない。しょうがないから、そのテのものを見ることができる人に会い、そのテのものがあると言われる場所を訪ねる。それをきっかけに、古い思い出が湧いてきたりする。そういった小さなエピソードが、連鎖するように次から次へと重ねられていく。この物語は、1人の作家の成長譚でもある。

やがて語り手は少しずつ、「そのテのもの」とおぼしきものたちを目撃するようになる。眼力が増してゆくのである。急に、ぞくりとする。読み手のすぐそばで「見えないなあ」「見えないなあ」って言ってたはずの語り手が、向こう側に行ってしまうのだ。えっ行っちゃうの、待って、置いていかないでと心細くなる。

そしてそれらの「そのテのもの」たちが、ごく日常的な、手の届く範囲内で姿を見せるからまた怖い。昼日中。電車の中。不意に届いた茶封筒の中。ささやかな恐怖が、すぐそばで小さくスパークする。

物語終盤、中学時代からの親友との、とある記憶が一気に湧き出す。そこに女同士の、棘というか闇というか、そんなものがちらりとのぞく。その、ちらり、がこの本の肝である。これまで連綿と重ねられてきた、恐怖のチラ見せを締めくくるチラ見せ。くうっと唸って本を閉じ、顔を上げた時に見える景色にご期待あれ。

(KADOKAWA 1500円+税)=小川志津子



『晴れ着のゆくえ』中川なをみ著 持つ人の心が宝物を輝かす


読み終えて、ふう、とため息が出た。戦後すぐ、おじいちゃんが孫娘のために、染料を栽培するところから丹念に作り上げた「むらさきの着物」が、その後60年間に渡って世界各国を回り回って、様々な人の手で大切にされたのち、年老いた「孫娘」の手の中へ帰るまでの物語。

例えば、お気に入りの着物が他人の手に渡ることを、拒むことも抗うこともできない少女がいる。苦難へ飛び込んでいく友を励ますために、大切な品を喜んで差し出す女性がいる。朝の光を受ける染め物の美しさに触れて、失意のどん底から這い上がろうとする男性がいる。古びたその布を使ってリメイクされた小物類に、旅先のフランスで偶然出会うのは日本人。「孫娘」のさらに孫娘だ。

特筆すべきは、染め物の美しさの描写である。語り手は章ごとに変わり、彼らが育ってきた国も環境もまるで違うのに、誰もが、その美しさに魅せられる。そして清らかな心を取り戻す。

そう、美しさが、持つ人を癒やす。その背中を押す。だから「むらさきの着物」が誰かの手の中に落ちるとき、あるいは次の誰かの手へ渡るとき、そこには体温がある。想像力がある。自分の前にこの品物を愛していた誰かは、きっとこんな気持ちだったに違いないと、彼らは根拠なく思う。互いの顔を見ることは決してないけれど、でも彼らは深く深くつながっている。

描かれるのは「むらさきの着物」の美しさだけではない。登場人物それぞれに、それぞれのドラマがはっきりと描かれる。ドラマというか、人生というか、その人自身というか。時代に応じて、その頃の世相が顔をのぞかせるのも興味深い。これが世界だなあと思う。同じ時代を生きているのに、人と人はお互いの顔を知らない。たぶん大半が互いを知らないまま、それぞれの人生は終わっていく。けれどある時、奇跡的に、それぞれの道は交差する。人と人は出会い、思いを共にする。そんな営みに、「むらさきの着物」は静かに寄り添っている。そこに感動がある。

「紫根染め」の晴れ着と、「茜染め」の肌襦袢。文中に何度も登場するそれらを、ぜひこの目で見たいと願いながら本を閉じる。すると表紙カバーに「紫根染め」が、カバーを取るとそこには「茜染め」があしらわれていてキュンとなる。その装丁も含めて、私の本棚の中でも、とりわけ大切な1冊になりそうだ。

(文化出版局 1600円+税)=小川志津子



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