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「村上春樹を読む」 ジャック・ロンドン「たき火」 「アイロンのある風景」その1

2017年01月26日

村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)
村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)

村上春樹の新作長編小説『騎士団長殺し』(全2巻)が2月24日に発売されるというニュースが大きな話題となっています。

長編としては、2013年に『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が刊行されていますが、『騎士団長殺し』は400字詰め原稿用紙にして2千枚もの長編で、これだけの長さの長編は、09~10年に刊行された『1Q84』(BOOK1~3)以来のものです。初版発行部数も「第1部 顕れるイデア編」「第2部 遷ろうメタファー編」の各巻50万部、計100万部からスタートだそうです。予約状況もかんがみての部数かと思いますが、それにしても初版が50万部ずつというのは、すごいですね。出版社の意気込みもわかります。

刊行されたら、私もすぐに読みますし、もちろん、この「村上春樹を読む」でも何回か取り上げてみたいと思います。ただ発売の2月24日の前日が、このコラムの同月分掲載日ですので、『騎士団長殺し』について書くのは、翌月の「村上春樹を読む」になるかと思います。それだけは、この「村上春樹を読む」の読者の方にお伝えしておきたいと思います。

さて、村上春樹作品の中で、あれは何だろうと気になっている、そんな作品について、考えてみたいと思って、昨年末の「村上春樹を読む」は『螢・納屋を焼く・その他の短編』(1984年)の中の「納屋を焼く」という短編について書きました。同作に12月のことが出てくるからでもありました。

今年の1月と2月の「村上春樹を読む」は、1995年1月17日に起きた阪神大震災をテーマにした連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』(2000年)の中の「アイロンのある風景」について、考えてみたいと思います。

阪神大震災から、この1月で22年です。この地震が起きた午前5時46分、私は東京の自宅にいて、目覚めていましたが、東京でもとても長い周期の揺れが長く続いたことが忘れられません。当時、文化部の生活欄の担当デスクをしていたので、ほとんどの生活欄の記者を現地に向かわせましたし、記者たちを出して、原稿を見るデスクの私が現地を見ていないのは、よくないので、そう時間を置かず、私も現地に入りました。

そこで見た惨状が忘れられません。6階部分が座屈して潰れた神戸市役所を見た時には、地震発生が勤務時間帯なら…、多くの被害者が出ていたことだろうと思い、ほんとうに冷やっとしましたし、宿泊したこともあるオリエンタルホテルも大きな被害を受けていました。神戸の街の海側・山側を歩き、避難所で生活する人たちも取材して帰りました。

この年の3月にはオウム真理教信者による地下鉄サリン事件が起きていますが、『神の子どもたちはみな踊る』の各短編は、その2つの大きな出来事の間である「1995年2月」に時間が設定されています。「アイロンのある風景」でも啓介という青年が「三宅さん、出身は神戸のほうだっていつか言ってましたよね」「先月の地震は大丈夫だったんですか? 神戸に家族とかいなかったんですか?」という言葉が記されています。

『神の子どもたちはみな踊る』は直接、阪神大震災の被害を受けた土地を舞台にしているわけではなく、神戸からは離れた土地に暮らす人たちと、阪神大震災との間に起きる心の震動のようなものを書いた連作短編集です。

「アイロンのある風景」の舞台は茨城県鹿島灘にある小さな町。やせて小柄で眼鏡をかけているという三宅さんは40代半ばぐらいで、家を借りて1人暮らしをして絵を描いています。鹿島灘で関西弁をしゃべる人間なんていないので、目立つ存在のようです。5年ぐらい前からこの町に住んでいるそうです。

その三宅さんから、夜中の12時前に、順子のところに電話がかかってくるところから物語は始まっています。「今、浜にいるねんけどな、流木がけっこうぎょうさんあるねん。大きいやつができるで。出てこれるか?」というのです。

啓介と同棲している順子は高校3年の5月に、所沢から茨城県のこの海岸の町にやってきました。親の印鑑と貯金通帳を持ち出して30万円をおろし、家出してきたのです。駅前の不動産屋で一間のアパートをみつけ、その翌週には海岸沿いの国道に面したコンビニの店員となりました。

ほどなく2歳年上の啓介と知り合いました。腕のいいサーファーで、波がいいからこの町に住み着いたという青年です。友だちとロック・バンドを組んでいます。二流の私立大学に籍は置いていますが、啓介は学校にはほとんど通っていません。

「アイロンのある風景」の登場人物は、この三宅さん、順子、啓介の3人ですが、さらに言えば、順子と三宅さんが重要な人物と言えます。

夜中に三宅さんからあった電話を受けて、順子は着替え、「これから浜に焚き火に行って来るよ」と啓介に言います。「また三宅のおっさんかよ」「冗談きついよな。今は二月だぜ。それも夜中の12時だぜ。今から海に行って焚き火するってか?」と啓介が言うので、「だからあんた来なくていいよ。一人で行って来るから」と順子が応えると、「俺も行くよ。行きますよ。すぐに用意するからちょっと待ってな」と言うのです。

そして、基本的に、この物語は「焚き火」をめぐって進んでいくのです。

焚き火を見ると、「順子はいつものようにジャック・ロンドンの『たき火』のことを思った。アラスカ奥地の雪の中で、一人で旅をする男が火をおこそうとする話だ。火がつかなければ、彼は確実に凍死してしまう。日は暮れようとしている」とあります。

順子は小説なんてほとんど読んだことがない人です。でも高校1年生の夏休みに、読書感想文の課題として与えられたその短編小説だけは、何度も何度も読んだのです。

「死の瀬戸際にいる男の心臓の鼓動や、恐怖や希望や絶望を、自分自身のことのように切実に感じとることができた」と順子は思うのです。そして、その物語の中で「何よりも重要だったのは、基本的にはその男が死を求めているという事実だった。彼女にはそれがわかった」と書かれています。

それを教師に言うと、教師は彼女の意見を笑い飛ばします。「この主人公は実は死を求めている?」とあきれたように言い、教師の男性が順子の感想文の一部を読み上げると、クラスのみんなも笑いました。

でも順子はみんなのほうが間違っていると思うのです。「もしそうじゃないとしたら、どうしてこの話の最後はこんなにも静かで美しいのだろう?」と思うのです。

三宅さんは、焚き火のおこし方については「俺はふつうの人にはない特殊な才能がある」と思っている人。「楽しそうだけれど、あんまりお金にはなりそうもない才能ですよね」と啓介が言うと、「たしかに金にはならんなあ」と三宅さんも同意しています。

でも、煙だけの木に、やがて奥の方に炎がちらつくのが見え始め、木がはぜる音がかすかに聞こえるのです。順子もほっと一息つき、ここまでくれば、もう心配することはない。焚き火はうまくいく。その生まれたばかりのささやかな炎に向けて、三人はそろそろと両手を差し出すのです。

あるとき、三宅さんの焚き火に出合ったとき、順子は言います。

「三宅さん、火のかたちを見ているとさ、ときどき不思議な気持ちになることない?」

「どういうことや?」

「私たちがふだんの生活ではとくに感じてないことが、変なふうにありありと感じられるとか。なんていうのか…、アタマ悪いからうまく言えないんだけど、こうして火を見ていると、わけもなくひっそりとした気持ちになる」と順子が言うと、

「火ゆうのはな、かたちが自由なんや。自由やから、見ているほうの心次第で何にでも見える。順ちゃんが火を見ててひっそりとした気持ちになるとしたら、それは自分の中にあるひっそりとした気持ちがそこに映るからなんや。そういうの、わかるか?」と三宅さんが話します。

それはあらゆる火に起こることではなくて、「そういうことが起こるためには、火のほうも自由やないとあかん」と三宅は言います。ガスストーブの火やライターの火では起きないのです。普通の焚き火でも。

「火が自由になるには、自由になる場所をうまいことこっちでこしらえたらなあかんねん。そしてそれは誰にでも簡単にできることやない」と言っています。順子は「でも三宅さんにはできるの?」と聞いてますが、「できるときもあるし、できんときもある。でもだいたいはできる。心をこめてやったら、まあできる」と言っています。

「焚き火が好きなのね」という順子には、三宅さんはうなずき「もう病気みたいなもんやな」「焚き火やるために、ここまで来てしもたんや」と、この町に住み着いたのも焚き火のためだと語っています。

そして、順子と三宅さんは「焚き火フレンド」となるのです。

啓介が引きあげた後、順子は「三宅さんってさ、ひょっとしてどこかに奥さんがいるんじゃないの?」と聞き、さらに「子どももいるの?」と聞いています。それに対して、三宅さんは「ああ、いる。二人もいる」と答えて、たぶんまだ神戸の東灘区に妻子の家があることを語っています。神戸市東灘区は阪神大震災で被害甚大だった地域です。

「そやから、啓介のことをアホやとはゆわれへんねん。人のこと言えた義理やない。俺かてな、なんにも考えてへんねん。アホの王様やねん。わかるやろ」とも語っています。

そして、順子にこんなことを言うのです。「順ちゃんは自分がどんな死に方をするか、考えたことあるか?」と。順子はしばらく考えてから首を振りますが、三宅さんは自分の死に方について「冷蔵庫の中に閉じこめられて死ぬのや」と言います。「ようあるやろ、子どもが捨てられていた冷蔵庫に入って遊んでいて、そのうちにドアが閉まってしもて、そのまま中で窒息して死んでいく話が。ああいう死に方や」と。

「狭いところで、真っ暗な中で、ちょっとずつちょっとずつ死んでいくんや。それもうまいことすっと窒息できたらええけどな、そう簡単にいかん。どっかから空気はかすかに入ってくる。だからなかなか窒息死できへん。死ぬまでにものすごい長い時間がかかる。声を上げても誰にも聞こえへん。誰も俺のことに気がついてくれん。身動きもできんくらい狭いところや。どんなにあがいても内側からドアは開かへん」

さらに三宅さんは、そういうことを何回も夢に見るそうです。そして、三宅さんもジャック・ロンドンの話をするのです。

順子が「焚き火の話を書いた人だよね?」と応えると「そうや。よう知ってるな」と言って、ジャック・ロンドンがずっと長いあいだ、自分は最後に海で溺れて死ぬと考えていたこと、あやまって夜の海に落ちて、誰にも気づかれないまま溺死すると考えていたことを話すのです。

その通りだったのかという順子の質問に、三宅さんは「いや、モルヒネを飲んで自殺した」と答えます。「じゃその予感は当たらなかったんだ。あるいはむりに当たらないようにしたということかもしれないけど」と順子が応じています。

表面的にはそうかもしれないけれど、ある意味では、ジャック・ロンドンは間違っていなかったと三宅さん言います。

ジャック・ロンドンはアルコール中毒となり、絶望を身体の芯までしみこませて、もがきながら死んでいったからです。

「予感というのはな、ある場合には一種の身代わりなんや。ある場合にはな、その差し替えは現実をはるかに超えて生々しいものなんや。それが予感という行為のいちばん怖いところなんや。そういうの、わかるか?」と三宅さんは言います。順子はそれについてしばらく考えてみますが、「わからなかった」と記されています。

順子は自分がどんな生き方をするのかも、まだぜんぜんわかってないのに、自分がどんな死に方をするかなんて、考えたこともなかったからです。

それに対して「でもな、死に方から逆に導かれる生き方というものもある」と三宅さんは語っています。

また順子は三宅さんに「私ってからっぽなんだよ」と話します。そして、この言葉ともに、わけもなく涙がこぼれてくるのです。涙がとまりません。「ほんとに何もないんだよ」としばらくして、順子は言っています。「きれいにからっぽなんだ」と。

「どうしたらいいの?」と聞く順子に、「ぐっすり寝て起きたら、だいたいはなおる」と言う三宅さんに、「そんな簡単なことじゃないよ」と順子は言っています。

「そやなあ…、どや、今から俺と一緒に死ぬか?」と三宅さんが言うと、「いいよ。死んでも」「真剣にか?」「真剣だよ」と会話が続いています。

三宅さんは順子の肩を抱いたまましばらく黙っていて、順子は三宅さんの心地よく着古された革のジャンパーの中に顔を埋めています。

そして「とにかく、焚き火がぜんぶ消えるまで待て」。「せっかくおこした焚き火や。最後までつきあいたい。この火が消えて真っ暗になったら、一緒に死のう」と三宅さんは言うのです。

焚き火のにおいに包まれ、肩にまわされた三宅さんの小さな手を感じながら順子は「私はこの人と一緒に生きることはできないだろう」と思います。「私がこの人の心の中に入っていくことはできそうもないから。でも一緒に死ぬことならできるかもしれない」と思います。

順子はだんだん眠くなってきて、「少し眠っていい?」「焚き火が消えたら起こしてくれる?」と三宅さんに言います。

「心配するな。焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目がさめる」と三宅さんが言います。順子は頭の中で、その言葉を繰り返しながら、深い眠りにつくところで、この物語は終わっています。

さて、この物語の後、順子は三宅さんと死ぬのでしょうか…? ジャック・ロンドンの「たき火」(火を熾(おこ)す)の主人公の男が、極寒の中、うとうとと、これまで味わった最高に心地よい、眠りのなかに落ちていって、死ぬところで物語が終わっています。

それを読んだ順子は高校1年の読書感想文で「基本的にはその男が死を求めているという事実」がわかり、それを教師に伝えています。教師にも級友たちにも「この主人公は実は死を求めている」という順子の考えは受け入れられませんが、でも順子はみんなのほうが間違っていると思います。その理由は、紹介したように「もしそうじゃないとしたら、どうしてこの話の最後はこんなにも静かで美しいのだろう?」と思うからです。

ですから、順子も死んでいくと読むことが可能です。順子は三宅さんのことを「でも一緒に死ぬことならできるかもしれない」と思うのですから。

だが、何回か読んでも、どうもそういうこととは異なるものを、私は感じるのです。順子は生きてほしいなという、読者としての願望にすぎないのかもしれませんが。

それともう一つ。この作品のタイトルは「アイロンのある風景」というものです。

それは三宅さんが描いた絵のタイトルです。

自分がどんな死に方をするかを考えたことがあるかを三宅さんから聞かれたあと、順子が「三宅さんって、どんな絵を描いているの?」と質問しています。

それに対して「それを説明するのはすごくむずかしい」というので、順子は「じゃあ、いちばん最近はどんな絵を描いた?」と問い直しています。

それに対して「『アイロンのある風景』、三日前に描き終えた。部屋の中にアイロンが置いてある。それだけの絵や」と三宅さんは答え、さらに「それがどうして説明するのがむずかしいの?」というと、「それが実はアイロンではないからや」と答えます。

順子が「つまり、それは何かの身代わりなのね?」と言うと、「たぶんな」と三宅さんは言います。「そしてそれは何かを身代わりにしてしか描けないことなのね?」という順子の言葉に、三宅さんは黙ってうなずいています。

そのやりとりの後に、順子の「私はからっぽなんだよ」という話があるのですが、こんな短い話のやりとりのことから、「アイロンのある風景」というタイトルが、この物語につけられているのです。

紹介したように、ジャック・ロンドンの自分の死の予感について、「予感というのはな、ある場合には一種の身代わりなんや」という言葉も記されていました。

普通にタイトルをつければ「焚き火のある風景」とか、そのような小説だと思いますが、あえて「アイロンのある風景」と名づけられているように感じます。この「アイロンのある風景」というタイトルは何の身代わりなのでしょうか。

「アイロンのある風景」は、非常に深い印象を読者に残す作品です。私は順子が「私はからっぽなんだよ」と言って、わけもなく涙がこぼれてくる場面がとても好きです。「ほんとうに何もないんだよ」「きれいにからっぽなんだ」と順子が涙して言う場面が、スッと読む者の心の中に入ってきて、順子という人間に非常に親しいものを感じるのです。

もちろん、小説は順子が、深い眠りにつくところで終わっています。三宅さんが言った「心配するな。焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目がさめる」という言葉を、順子は頭の中で繰り返しながら、深い眠りにつくところで、物語が終わっているのですから、その後、順子が死に向かうのか、どうかは、物語外のことです。ですから、そのようなことは考える必要はないのでしょう。もし考えるとしたら、この物語の中に記された言葉の中から考えなくてはいけません。

でもともかく、焚き火とは何なのか、順子が深い眠りにつくのはなぜなのか、冷蔵庫とは何なのか、アイロンとは何なのか…。

考えてみても、簡単にはわからないものがたくさんある作品だと思います。

それを考えるために書き出したものですが、ここまででもかなり長い文章となってしまいました。私がいまだ自分なりの答えを十分得ているとは言えないものもあるのですが、次回の「村上春樹を読む」で、そのことを記してみたいと思います。「アイロンのある風景」という作品を好きな人は、この1カ月、一緒に考えていただけたらと思います。(共同通信編集委員 小山鉄郎)


こやま・てつろう 1949年、群馬県生まれ。共同通信社編集委員兼論説委員。村上春樹氏の文学や白川静氏の漢字学の紹介で、文芸記者として初めて日本記者クラブ賞を受賞(2013年度)。「風の歌 村上春樹の物語世界」や「村上春樹の動物誌」を全国の新聞社に配信連載。著書に『村上春樹を読みつくす』(講談社現代新書)、『空想読解 なるほど、村上春樹』(共同通信社)、『村上春樹を読む午後』(文藝春秋)。外に『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』『白川静さんに学ぶ 漢字は怖い』など。



空想読解なるほど、村上春樹 小山鉄郎


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