2010年08月19日

テレビで放送されたオペラ「チェネレントラ(シンデレラ)」の一場面。字幕に「なので」が登場した
この欄のコラムを編集して1年半ほどが過ぎた。ライターや記者からの原稿を目の前にしていると、昔、著名な作家の方々から新聞紙面用にエッセーを頂き、編集していたころのことを思い出す。生意気にも、名文家たちを相手に、頂いた原稿に注文を付け、平気で手直しもしてもらった。
意外だったのは、どなたも、こちらの言う通りにあっさりと手を入れてくれたことだ。大江健三郎さんは、即座にペンで細かく斜線を入れて文章を削られたし、古井由吉さんも「おかしければ、言い換えてもらっていいですよ」と、あっけないほどだった。五木寛之さんに頂いた原稿は、注文した字数よりはるかに多かった。おずおずと「長いんですが…」と言うと、五木さんはしばらくの間、原稿用紙をにらんでいたかと思うと、バッサバッサと削り出し、あっという間に「これでどうでしょう?」。もっとひどいのは、亡くなった丹羽文雄さんからエッセーをもらったときのこと。達筆の上に超癖のある字で、思わず「先生、読めません」と口走ってしまった。すると丹羽さん、「そうか、じゃあ読んであげよう」と驚くべき提案。そのまま朗読してもらった。
二十数年を経て、今この欄で見るエッセーは、同じ日本語かと思うくらい奔放だ。アリー・マントワネットさんの文章には、携帯で見られる顔文字が使われ、「ナウ」などのツイッター用語も。福山喬子さんのプロフィルには8分音符。「瀕死の私にエンタメを」の宮崎晃記者の文章では、夙川アトム的な業界用語を解読するのに時間がかかったことも。
そんな彼らの原稿だが、今を時めくあの流行語が出てこない。ということは、喋り言葉の流行語であって、文章には適していないのだろうか。
その流行語とは、「なので…」。
もちろん「なので」は普通に使われる言葉だ。ただ使われ方は「○○なので、…」という風に文章の語尾にあって次の文につなげるものだ。ところが近年耳にするのは文頭に来る「なので」である。
例えば。「今年は暑い夏なので、熱中症に気を付けて」という言葉が「今年は暑い夏です。なので熱中症に気を付けて」となる。今この文章をワードで書いている最中にも「入力ミス」を告げる波線が現れる。
この流行語、1、2年前から若い女性を中心に目立った。特にひときわ高く「なので」と発音されると、かなりのインパクトがあった。さらに最近ではテレビのアナウンサーも口走るし、何とあの池上さんも言っていた。この間は、オペラのビデオを見ていたら、その字幕にも登場して驚いた。
同じ意味の言葉に「だから」がある。辞書を開くと、これは「接続詞」。「だから…」と文頭に置いて間違いではない。だが「なので」は同じ意味でも「接続詞」ではない。辞書には「形容動詞の連体形語尾」とある。だから違和感がある。なのに(これはいいのか)、なぜこれほど使われるのか。
現代は、人と人とのつながりが希薄になったと言われる。特に若年層では、親しい友人以外との会話を避ける傾向もあるようだ。ところが、それに反比例するように、彼らが語りかける言葉は、欧米風の断定口調を避けて、語尾をあいまいにする。「私はこれが好き、みたいな…」「ちょっと無理、っていうか…」。「コーヒーとか飲みたい」。好きなら「好き」、無理なら「無理」、コーヒーが飲みたければ「コーヒー!」、はっきりしろと言いたくなるが、他人との無駄な衝突を避けようとする、それなりの処世術と思えなくもない。
そう考えると、この「なので」も、人間関係を円滑にしようとする傾向の表れだろうか。そう言えば「だから」という言葉には、ちょっと理屈っぽい、押し付けがましい響きも感じられる。それに比べると「なので」は甘い味がしそうではないか。
流行語には、かつての「超○○」「マジっすか」、あるいは尻上がり言葉のような品下った印象のあるものが多い。その点、「なので」にはそんな嫌みがない。辞書に抵抗して応援したくなる。自分でも使ってみたくなるが、気持ち悪がられるだろうか。(エンタメ編集デスク・小松美知雄)
こまつ・みちお 共同通信に三十数年。うち文化部に17年。記憶に残る楽しいインタビューは、アン・ルイスさん、浅野温子さん、ジュリー・アンドリュースさん。2009年からエンタメ編集デスク。好きな言葉は「様子を見よう」。つまり判断の先送り? まあ、いいじゃない、様子を見てみましょう。水戸黄門じゃないけど。









