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2007年03月30日
47ブログ「デスク日記」を公開
47ニュースがスタートしてから3カ月。自前のコンテンツが少ないという批判があり、編集スタッフによるブログ「デスク日記」を始めることになった。筆者は今のところ二人だけだが、追々参加者が増えるのではないかと期待している。
さてブログで何を書くか。相方と議論した。
「素材は47ニュースに掲載されたニュース」
「それは当然なのだが、硬すぎやしないやろか」
「ニュースサイトなのだから、ちゃらちゃらした話題では誰も読まんぞ」
「そういう考えがそもそも硬いとちゃいますか」
「じゃ、どうすればいいのさ」
「47の読み方とかどうでっか」
「それはそれでいい。俺は俺にしか書けないものを書く」
「そうそう、けさ桜の写真の投稿があったの知ってます?」
「えっ嬉しいな。桜だよりを見てくれている読者がいたんだ」
「そうでんがな。始めれば誰かが見てくれる。どこかで話題になればアクセスが殺到する」
「デスク日記がそうなれば嬉しい。100人が1000人になり、やがて1万、10万人・・・」
「そうそう、デスク日記が47サイトの目玉商品になったらええですな」
そんな夢をみながら書き続けます。
投稿大歓迎です。
なおこれまで試行錯誤の中に書いた過去のブログも掲載します。
(紫竹庵人)
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桜のうんちく(7) 近江の「行く春」
さざ浪や志賀の都は荒れにしを
昔ながらの山桜かな
千載集では読み人知らずとされているが、平清盛の末弟、薩摩守忠度が作者。平家物語の「忠度都落」はあまりに有名。
忠度は一ノ谷の戦いに向う途上、藤原俊成宅に立ち寄り自らの歌集を委ね、「勅撰和歌集を編纂する際に一つでいいから載せてほしい」と嘆願した。
忠度は父忠盛が熊野別当の娘に産ませた子で18歳まで熊野で過ごした。鄙で育ったのに文才があった。平安時代の末期は宮廷を中心に熊野信仰がもっとも盛んで、舎人や采女に熊野の人が多かったはず。忠度はそんな采女の一人を母としたから熊野で過ごしたとしても教養という面で都人に劣ることはなかったと思われる。
志賀とどういうかかわりがあったか知らないが、「ながら」は「長等」にかけたもの。熊野検校を三井寺の長吏が兼任していたため、後白河法王、平家、熊野、三井寺の連想から辞世に大津、長等山の桜をうたったのだろうと想像している。
大津は天智天皇が即位した地。日本書紀によれば、景行、成務、仲哀の三代の天皇も高穴穂宮に都した。筆者の初任地でもあり思い出深く、比叡の稜線が琵琶湖に落ち込む眺めを日々楽しんだ。春、桜の季節は朝もやが湖面をうっすらと覆い、やがてさざなみがにぶくきらめく。なんとも気だるく長閑な時が流れる。
松尾芭蕉はしばし庵を結んで「行く春を近江の人を惜しみけり」とひねった。近江の春は実にいい時間が流れる。忠度もそんな春を楽しんだに違いない。(平成の花咲爺)
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桜のうんちく(6) 東円堂の八重桜
古への奈良の都の八重桜
きょう九重に匂ほえるかな
歌の意味の解説は不要であろう。藤原道長が権勢を誇った時代。一条天皇の元へ奈良から八重桜が届いた。そこに居合わせた伊勢大輔に「その花を題にて歌よめ」と請われて詠み、「万人感動、宮中鼓動」(袋草子)したと伝えられている。
平安京の遷都(794年)からすでに200年を経ているから「古へ」なのだが、旧都への郷愁がまだ人々の間にあったのだろう。当時は「奈良の八重桜」といえば興福寺の東円堂の前の桜と相場が決まっていた。見たことがなくともあのうわさに聞いた「八重桜」のことかと宮廷人は「よき古へ」への思いを一にしたに違いない。
この話とは別に、「沙石集」という本に興味深い話が載っているそうだ。『櫻史』(山田孝雄)によれば、興福寺の東円堂の八重桜がきれいだと聞いたある后が「掘って持って来い」と興福寺の別当に命じた。それを見つけた「大衆の某』が「后の命令だからといってこれほどの名木を献上してよいものか。もののあわれを解さないことおびただしい」と別当に食って掛かり、人々を集めて阻止させた。命を張って名木の移植に反対した人々が奈良にいることを知ったこの后はまた「奈良にはなかなか風雅を愛する人々がいる」といって感嘆したのだそうだ。
伊勢大輔は藤原彰子(上東門院)に仕えた。大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の子で、父輔親が伊勢神宮の祭主・神祇大輔(じんぎたいふ)だったことからこの名で呼ばれるのだそうだ。(平成の花咲爺)
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桜のうんちく (5) 旅を枕にした西行
願はくは花の下にて春死なん
その如月の望月のころ
百人一首では「嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな」の歌で知られ、坊主めくりでおなじみの西行法師である。
まだ桜の開花を待っている時期に吉野のことを書くのははばかれる。しかし、桜の名所として吉野ほど著名なところはない。全山が桜におおわれ、すそ野から千本桜まで時間を追って咲き乱れるのである。
西行はその吉野に3年間、庵を結んでいた時にこの歌をうたったとされる。桜をこよなく愛した歌人の一人で、桜花爛漫の時期に死にたいと願った。この歌は60歳ごろの作とされるが、不思議なことに73歳の如月(2月)望月(15日)の翌日、最期の隠遁地、南河内の弘川寺でなくなった。
史上最も桜を愛した歌人のひとりでもあった。出家する前の俗名は佐藤 義清(さとう・のりきよ)。鳥羽院の北面の武士として仕えていたが、ならぬ恋がゆえに出家、和歌を携えて全国を行脚した。たぶん旅を文学に高めた最初の日本人だったのだろうと思う。
紀貫之の『土佐日記』があるといわれれば、そうだが貫之は土佐国への赴任の途上を日記にしたためただけ。西行の歩いた距離とは桁が違う。在原業平の『伊勢日記』は自身が本当に吾妻まで旅したか疑わしいのだ。連歌の宗祇や俳句の芭蕉も旅を生活にした点で、西行の生き方をまねたのだろう。
我輩も旅を枕に風雅に生きたいが、西行の真似はできそうにない。(平成の花咲爺)
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桜のうんちく (4) 熊野詣の先達
もろともにあはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし
時代は平安後期、場所は大峯山。大自然と対峙する日々、まだ春は浅く寒さもあったろう。単身、修行中に出会った山桜にいとおしさを感じ、一本の山桜に語りかけた。
「山桜よ、私がそなたを愛しく思うのと一緒に、そなたも私を思っておくれ。今の私にはそなたよりほかには、私を知っているものもないのだから。」
作者は行尊(ぎょうそん。1055~1135)。並みの修験僧ではない。三条天皇のひ孫で、父親は源基平。そう、源氏の姓は清和天皇以外にも多くの天皇を祖にいただく。行尊は幼くして父を亡くし、園城寺(三井寺)で出家。大峯、葛城、熊野などの各地で修験道の修行に励み、晩年に園城寺の長吏そして天台座主にまで上り詰めた。平安時代の天台の高僧のイメージは定まらないが、行尊のイメージは極限まで自己を追い詰める苦行僧である。そんな行尊が修行の合間に山桜に語りかける口調はなんともやさしげだ。
当時、熊野本宮、那智大社、速玉大社の熊野信仰があったが、まだ修験道者を中心の信仰で一般人の立ち寄る場所ではなかった。その修験道の世界に白河上皇を連れて行ったのが、行尊の師だった増誉である。増誉は熊野案内の先達(せんだつ、道案内人)を務め、その功績により、熊野をつかさどるトップ役である検校(けんぎょう)となった。
増誉が上皇の先達を勤めたのは一回かぎりで、その役割は二代目検校となった行尊に引き継がれた。庶民による熊野詣が盛んになったのは鎌倉から室町期にかけてで、「アリの熊野詣」といわれるほど貴賎を問わず大勢の人々が熊野に押し寄せることになった。この熊野詣ブームの先鞭をつけたのがまさに行尊だった。覚えておいてほしい名前である。(平成の花咲爺)
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桜のうんちく (3) 元祖、西園寺
小倉百人一首でおなじみの一首。作者、入道前太政大臣は藤原公経のこと。鎌倉時代前期の公家である。頼朝の妹の娘を妻としたことから、幕府と親しく、外孫にあたる藤原頼経を実朝の後の将軍後継者とした。
10年前、京都に住んでいたころ、金閣寺(鹿苑寺)は足利義満が北山にあった西園寺の跡地に建築されたと聞いたことがある。西園寺って寺名だったのだということを始めて知った。平安時代はほとんどの貴族が藤原姓を名乗っていた。お互いを呼ぶ時に住まいの名で呼び合い、やがてそれが苗字のようになった。近衛や九条、三条らの姓(かばね)も藤原である。
幕府方の権威を楯に太政大臣にまで昇りつめ、権勢をほしいままにした公経は晩年、仏門に入って入道となり、西園寺を建立して住まいし、西園寺を名乗るようになったといわれる。
いまの金閣寺のあたりは北山のすそ野である。西大路の北詰の西側だから、平安京の区画を外れ、鄙びていたに違いない。たぶん、その広大な庭園に桜の木をたくさん植えて楽しんだのだろう。しかし、その公経も老いには勝てなかった。「ふりゆく」は「降る」に「古(ふ)り」を重ねたもので、降りしきる花嵐に老いゆくわが身を嘆いたのである。(平成の花咲爺)
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桜のうんちく(2) 青丹によし
青丹によし奈良の都のさく花の
にほふが如く今盛りなりけり
先週の気象庁の桜の開花予想で今年の開花は例年以上に早くなるとされた。
「このままでは3月中旬にも花が咲いて4月までもたないかもしれない」
そんな不安の声も聞かれた。旧暦でいえば、桜の季節は三月弥生である。桜は四月というイメージが定着したのは新暦になってからのはずだ。それにしても日本列島が桜、桜と騒がしくなったのはいつからなのか。ソメイヨシノという現在の桜の代表的品種が開発されたのが江戸期だとされているから、たぶん江戸時代になってのことだろう。
そもそも万葉集で「花」といえば梅のことだったようで、桜より梅をうたった歌の方が圧倒的に多いのだそうだ。そんななかで奈良の満開の桜をうたった代表作が「青丹よし」である。作者は小野老(おののおい)。朝廷の役人で大宰府に赴任、歓迎会で奈良の都を思い出してうたった。神亀五年(728年)のころとされるから、聖武天皇が即位間もないころ。興福寺はあったが、東大寺はまだ建立されていない。
「青丹よし」は奈良の枕詞だが、青は緑に通じ、丹は朱色のこと。壮麗な都の建築物を想像させるが、どれほど奈良の地が整備されていたか分からない。
今や奈良盆地は見る影もなく俗化されているが、それでも二月堂から眼下に広がる緑と東大寺の堂宇の眺めは悪くない。緑の中に朱塗りの宮殿と堂宇が点在する風景こそが筆者にとっての「青丹によし」なのだ(平成の花咲爺)
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桜のうんちく(1) 在原業平も浮き立った
世の中にたえてさくらのなかりせば
はるの心はのどけからまし
47NEWSとして「桜だより」を始めようとした時、「桜は日本人の心だ」といったら、反論があった。「そうか。この時期に心が浮き立たない日本人もいるのだ」と考えさせられた。
さはさりながら、「桜だより」の編集者はその心浮き立つ日本人の一人。この時期にせっかく「桜だより」を始めるのだから、桜について学びながら併せて「桜のうんちく」を書きたくなった。桜といえば思い立つのは日本人のうたごころである。
桜といえば西行や本居宣長が有名であるが、この浮き立つ日本人の心を和歌に託したのは、ご存知、平安のプレーボーイとして浮名をはせた在原業平である。六歌仙の一人で伊勢物語の主人公兼作者といわれている。平安初期の歌人であるから1100年以上も前に日本人-当時はそんな概念があったかどうか分からないが-の心を読み、ずっと日本人の心をとらえてきたのだからすごいことではないか。
『伊勢物語』を一度でも読んだ方は、この物語がなぜ「伊勢」と呼ばれるのか疑問に思ったはずだ。読み出しても一向に伊勢にまつわる話は出てこない。そのうち伊勢斎宮の恬子内親王との禁じられた恋の物語が出てきてようやく納得する。
斎宮は伊勢の神さまにささげられた皇女。天武朝に始まったとされ南北朝の時代に終わった。一生を神さまに尽くす身であるから恋などをしてはならない。まして男の方から恋するなど大胆にもほどがある。業平にかかわらずこの時代の宮廷人たちは恋に自由だった。桜が咲き舞い散るこの季節は恋心ももっとも盛んだったのだろう。うらやましく勝手に想像している。(平成の花咲爺)
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ヨンナナの歩き方(3)
地図の右横に、主要ニュースのコーナーがあり、今もっとも重要だと考えられる大ニュースを時系列に流し込んでいます。私たちデスク陣は、全国の新聞社が発信するニュースをできれうだけ紹介しようと努めています。
たとえば、宮崎県知事選挙では宮崎日日新聞社が速報した「そのまんま東知事誕生」のニュースを47NEWSでもトップニュースとして紹介しました。個人的な記憶で恐縮ですが、宮崎日日新聞の速報は、新聞社としては最も速く正確でした。さすが地元紙ですね。
直近の例では、高知空港でボンバル機が胴体着陸した際も、リアルタイムで詳しい情報を発信し続けた高知新聞のニュースを47NEWSで大きく紹介しました。能登半島地震の発生後は、北國新聞の詳しい地元情勢のニュースを積極的に紹介し続けています。
47NEWSの主要ニュースには、全国の新聞社が発信する、速くて正確で詳しいニュースがタイムリーに紹介されているとお考えください。全国の地方新聞社のニュースを横断的に見せるニュースサイトは前例がないと思います(ちょっと自慢)。
(すね毛)
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2007年03月28日
春雨の中の一期一会
三月の週末、中年男三人が山形・上山温泉で遊んだ。行く先の山形県は決まっていたが、格安パックの申し込みが遅れ、山形県では「かみのやま温泉」のあずま屋しか残っていなかった。そんな場当たり的な旅もけっこう楽しかった。
上山市は城下町とはいえ、江戸時代は三万石足らずの山間の藩。町には温泉以外に見るべきものはない。江戸時代の初期、大徳寺の沢庵和尚が住んだという「春雨庵」があるのみ。歴史に詳しいとはいえない三人の湯浴み客は二日目、その春雨庵を訪れ、茶室で中年の女主人にお茶をたててもらいながら、沢庵和尚のうんちくを聞くこととなった。
古風な茶室にはいくつもの門をくぐらないと入れない。二人は障子を開けて茶室に入ったが、前夜、宿で浴衣の特大を注文した巨漢は頭をぶつけながら無理やりにじり口から入ろうとした。「頭が高い」のである。
大徳寺といえば茶道を通じて戦国時代に権勢を誇った京都の名刹。僧侶は朝廷から紫衣の着用を許されてきたのに、徳川政権は「まかりならぬ」という禁中並公家諸法度を出した。それに反発したのが沢庵和尚らだった。「紫衣事件」というらしい。結果、沢庵和尚は土岐頼行が藩主だった出羽国上山に流された。
文字にすれば、それがどうしたとなるが、狭い茶室で拝聴する日本の歴史は含蓄に富む。三人は「ほほー」とうなずくばかりだった。
話は明智光秀にまで及んだ。
「本能寺の変の直前に愛宕神社で開いた歌会で光秀がうたった『時は今、雨が下しる五月哉』という歌をご存知ですか」
「………」
「時は土岐に通じます。実は光秀は岐阜の土岐氏の出でした。雨は天(あめ)です。土岐である光秀が天下を取ると暗にうたったのだと後世いわれるようになったのです」
「………」
「光秀は天下取りには失敗しましたが、本能寺の変がなければ秀吉の天下も家康の全国平定もなかった。そういう意味で徳川は土岐氏を大切にします。沢庵和尚がこの地に配流されたのは土岐氏に預けておけば間違いないということだったのでしょう」
まだ二十二歳だった上山藩主の土岐頼行は流されてきた沢庵和尚を大切にし、藩政の助言を得て領民に慕われる名君となった。三年後、徳川秀忠が世を去り、沢庵和尚は放免となった。幕府は放免としただけではない。やがて沢庵和尚の名声を聞いた三代将軍家光は江戸に呼んで召し抱えた。
上山で領民に伝えた冬の保存食としての大根の漬け物を家光に献上したところ「これはうまい」と喜び、「タクアン漬け」と呼ぶことになったそうだ。名付け親は家光である。沢庵和尚の郷里の出石(兵庫県)では「たくわえ漬け」と呼んでいたそうだ。もちろん異説もあろうが、これは松平の血をひく女主人の話である。
沢庵和尚が配流とならなかったら、家光に召し抱えられることもなかっただろうし、タクアンの名も人口に膾炙されることもなかったと考えればおもしろい。
茶席が終わるころ春雨が小ぶりの雨にかわり、三人は傘を広げて庵を辞した。
誰かが「あー、僕も配流されてみたい」とつぶやいた。
徳島賢人は「春の雨、禅師の庵のお薄かな」と一句詠んだ。
巨漢はただ満足そうだった。
春雨の中での一期一会だった。
(紫竹庵人)
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2007年03月26日
ヨンナナの歩き方(2)
47NEWS紹介の続きです。
ページ右側に47言葉ランキングというコーナーがあります。ご覧になったことがあるでしょうか。
ここで紹介されている言葉は、全国の新聞社サイトが公開しているニュースを収集・分析し、注目度順に並べたもので、約30分に一度、更新しています。
1位から30位までの言葉のすぐ下に、正方形の窓があります。そこでは一つの言葉を中心に、いくつもの言葉が関連しているようすを表現しています。それらの言葉をクリックすると、すぐ下に新聞記事の冒頭部分が表示されます。(縦長のコーナーなので、画面を下にスクロールしてください)
たとえば、このコラムを書いている26日現在、「選抜高校野球大会」が1位です。高校野球のように、全国の新聞社が一斉に同じテーマの記事をウェブで公開するような場合は、ニュース言葉でも上位にランクインします。
そこで、ぜひご覧いただきたいのは、同じ高校野球の記事でも、新聞社によって視点が違うということです。新聞社は郷土のチームを応援するように書いてます。このように複数の新聞社の記事を読み比べていくと、高校野球も多面的に楽しめるようになると思います。
なお、言葉ランキングだけをページに表示したいという人は、以下のページをご覧ください。日本が見えます。
・http://www.47news.jp/blog/
(すね毛)
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2007年03月20日
2007年03月19日
普及の兆し-新聞社のSNS
SNSをご存じでしょうか。ソーシャル・ネットワーキング・サイト/サービス(Social Networking Site/Service)の略で、ネットの世界で人間関係を作れる場、交流する場の提供を指します。日本では、きわめて短期間に100万人以上の登録利用者を獲得したミクシィ(mixi)の成功で大きな注目を集めました。
そんなSNSの世界に、日本の新聞社も挑戦し始めています。一般紙で一番乗りしたのは佐賀新聞の「ひびの」です。佐賀新聞では、「ひびの」の中での友だち関係を「ひびとも」と呼んでおり、佐賀新聞の読者でなくても、佐賀県に暮らしていなくても「ひびとも」の仲間入りができます。47デスクの私も数人の「ひびとも」がいます。
SNS参入の2番目になりそうなのが、宮城の河北新報です。きょう(3月19日)に河北新報ウェブサイト「コルネット」を見たところ、「ふらっと(SNS)」というボタンが目に入りました。クリックすると「仙台、宮城、東北が好きなコミュニティーサイト『ふらっと』この春開設します。もうしばらくお待ちください」という説明が書かれていました。
新聞紙は一方通行メディアの典型として批判されることが多いだけに、新聞社が読者とコミュニティを形づくるという意欲的な試みは注目に値します。新聞社SNS利用者同士が地域を越えてつながっていけば面白いことが起こりそうです。(すね毛)
▽関連リンク
・佐賀新聞 ひびの
・河北新報 ふらっと
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2007年03月16日
サクラサケ!
今月13日(月)から、おでかけページの〈おすすめ特集〉で、「桜列島、スタート」を開始するとともに、特設ページ〈ニッポンの桜だより〉を立ち上げました。13日にこだわったのは、気象庁が「13日に静岡で開花」というソメイヨシノの開花予想を発表したためです。
しかし、世の中なかなか思い通りにいかないものですね。日本各地で「寒の戻り」がみられ、14日には気象庁が開花予想のミスを発表。お花見業界には衝撃が走り、私たち47の担当デスクの顔も青くなりました。
気象庁の修正予想によると、20日ごろから咲き始めるようです。祈るような気持ちで週末を過ごすことになりました。(すね毛)
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2007年03月15日
願いは葵の森復活
「葵の葉って実際にみたことありますか」
そんな疑問からワシントン在住のシンクタンカー、中野有さんと上賀茂神社を訪ねたは昨年の正月。権禰宜の村松晃男さんらと葵の復活について話し込んだ。日本最古の祭りである葵祭や徳川の紋章などを通じて、葵の存在を知らない日本人はいない。にもかかわらず「葵」を実際に見た日本人はほとんどいない。日本の象徴のような「植物」が現在の日本人に知られていないのはなぜか。
村松さんの話によれば、その昔、加茂川上流一帯は湿地でフタバアオイが一面に群生していた。上賀茂神社の歴史も葵とは切っても切れない。葵祭は平安京遷都後、まもなく始まった。天皇家や貴族らが京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社にお参りするきらびやかな行列は鄙だった山城の人々にとって大いに目の保養になったに違いない。
現在の観光客の多くは気づいていないかもしれないが、当時から行列の牛車には必ず、上賀茂神社のシンボルだったフタバアオイのつるを飾ることになっている。そのフタバアオイが神社一帯から姿を消して長い年月が経っている。現在、葵祭に使うフタバアオイは神社の北に控える神山の中腹でかろうじて採取される。つまり京都の人でさえフタバアオイの姿を目にしなくなって久しい。このままいくと中腹でさえフタバアオイがとれなくなるかもしれないというのだ。
そんな話を聞いていて、中野さんが「それは大変なことです。フタバアオイを復活させましょう」と問いかけたのが葵プロジェクトの始まりとなった。上賀茂神社は京都市教育委員会や近隣の学校に声をかけて、フタバアオイ育成に乗り出した。
中野さんの話によれば、京都は地球温暖化防止の京都議定書を通じて世界的に「環境」のキーワードになっている。ワシントンでも京都を話題にすれば必ず、環境問題に話が発展するということなのだ。加えて、原爆投下で京都を外すことに尽力したヘンリー・スチムソン陸軍長官の話もされ、「葵を平和の葉として世界に売り込むことはできないか」という問題提起があった。
中野さんは京都市出身。上賀茂神社近くで生まれ育った。アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカで仕事をし、日々、国際情勢のコラムを執筆している。そんな中野さんがようやく平和のシンボルとして見出したのが、生まれ育った上賀茂のフタバアオイなのだ。いい話だと思いませんか。
ちなみにフタバアオイの生育はけっこう難しく、昨年春にいただいた鉢植えを枯らしてしまった経験がある。ことしはぜひ大きく育て、友だちに分けてあげるようにしたい。葵プロジェクトは上賀茂一帯にフタバアオイを繁らせ、さらに日本全国に広げる運動である。みなさんも葵プロジェクトに参加しませんか。
今日、京都新聞に「葵の森」復活へフタバアオイを移植 上賀茂小の児童ら」の記事が掲載された。
「おー、ついに始まったか」という感慨があった。(紫竹庵人)
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007031500027&genre=F1&area=K1A
【写真撮影】青木繁伸(群馬県前橋市)
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/futaba-aoi.htmlから転載。
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2007年03月06日
啓蟄-てんとう虫、ミツバチ
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6日は二十四節気の啓蟄(けいちつ)。土の中で冬ごもりをしていた虫たちが目覚め、地上にはい出て活発に動き出すころとされる。徳島市春日の鮎喰川河川敷では、ミツバチがミズナのみつを求めて飛び交い、春の訪れを感じさせている。てんとう虫も各地で飛んだ。正確にいえば、すでに飛んでいて、啓蟄に併せてニュースになった。
47ニュースの特徴は、北海道から沖縄まで各地のニュースが一覧できるという点だ。ニュースを観る側からすれば便利なのだが、編集の立場からはいかにも大変な作業なのだ。北海道新聞から琉球新報まで52社のサイトを朝から晩まで何回も行き来してニュースを探るからである。人呼んで「人間クロール」と言う。
47ニュースは昨年12月25日に立ち上がったがニュースの入力は12月1日から始まっていた。一番楽しいのは綺麗な写真が揃う時である。冬至の日には全国のゆず湯の写真が集まった。「おー、各地にこんなに多くの・・・」。綺麗で可愛い写真集をその日だけでも掲載できないか考えた。47ニュースにはそんな素材がてんこ盛りなのだ。ただニュースが多すぎてどう整理していいか頭の痛いところである。
その日だけの写真集は、いずれ実現するのだろうと思う。楽しみにしてほしい。 (紫竹庵人) |
【写真説明】ミズナの花の甘い香りに誘われ、みつを集めるミツバチ=徳島市春日
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2007年03月01日
タミフルをめぐるいくつかの疑問
27日未明、仙台市のマンションから中2男子が飛び降り死亡した。前日、医者でインフルエンザを診断されてタミフルを処方されたという。先週も愛知県蒲生市でも同じような事故があった。タミフルを飲んで衝動的にマンションから飛び降りたり、道路に飛び出したりする異常行動はここ数年頻発している。
http://www.kahoku.co.jp/news/2007/02/20070227t13047.htm
タミフルが原因かどうか因果関係ははっきりしないが、異常行動の裏にタミフル服用があるのだったら、これは人ごとではない。気味が悪すぎる。インフルエンザでタミフルを処方されたら飲まないほうがいい。「薬害タミフル脳症被害者の会」は「因果関係が証明されていなくても、医師は投与の際に何らかの注意喚起をしてほしい。親は服用した子どもから目を離さないでほしい」と訴えている。
タミフルには多くの疑問がある。まず、アメリカ食品医薬品局(FDA)が「服用後に死亡したのは世界で71人もいる」と発表しているのに、世界的に使用を禁止する動きがないことである。そもそもタミフルが注目されたのは鳥インフルエンザの出現からである。鳥インフルエンザの出現もエボラ出血熱と同様に突然だった。さらに世界保健機構(WHO)が「新型インフルエンザの流行で世界で1億5000万人が死亡する可能性がある」と警告し、タミフルの効用が世界的に認められたことが追い討ちをかけた。
これに前後して、各国がタミフルの備蓄の乗り出した。アメリカは71億ドル、日本は2500万人分の備蓄を目指している。5人に1人が新型インフルエンザにかかることを想定しているのだから大変な数字だ。だれがこれほどの備蓄を必要だと判断したのかも分からないまま、各国は新型インフルエンザ感染の恐怖から“唯々諾々”と備蓄にのめり込んでいるのが実態ではなかろうかと思っている。
タミフルの効用については「感染」から48時間以内の服用といわれている。しかし最新の鳥インフルエンザウイルスの場合、潜伏期間が3-4日とされる。発病した時点で服用の意味が相当程度薄れるという報告も眼にする。それが本当だったら、効き目の少ない“特効薬”を各国が懸命に備蓄する姿はほとんど漫才のように映る。
そして極めつけはタミフルの開発者がアメリカのギリアド・サイエンシズというバイオの会社で、ラムズフェルド前国防長官が以前にその会社の会長を務めていたという事実である。正確にいうと製造販売はスイスのロッシュで、ギリアド社がライセンスをロッシュに譲渡した経緯があるらしい。ブッシュ政権をリードし、アメリカをアフガン、イラク戦争に仕向けた張本人がタミフル・ブームによるギリアド社株の上昇で懐を肥やしたという事実も免れない。
タミフルってなんなのさ。筆者はずっと思い続けている。 (紫竹庵人)
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