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2007年02月26日
ヨイトマケの唄
隣の編集人がディスプレイを見ながら突然「チーフ、ヨイトマケってどういう意味か知っていますっか」と大阪弁でつぶやいた。本人は何をしていたかというと、勤務時間中にユーチューブを検索中で、僕が目をやると、やがて中村美律子 が歌う「ヨイトマケの唄」の熱唱が聞こえてきた。美輪明宏のデビュー曲は知っていたが、他の人が歌う「ヨイトマケ」を聞くのは初めてだった。中村美 律 子の「ヨイトマケ」もなかなか心にしみる。
大阪弁の独り言は続く。「えー歌でんなー」を繰り返し、やがて歌詞を口ずさみ始めた。
「おぅ、土方って表現は新聞では使えないんだよな」
「ハイ、放送禁止用語です」
「えー歌でしょ」
「そうだな」と生返事をして、僕はタバコ部屋にしけこんだ。
一服して戻るとディスプレイではまだ中村美 律 子が同じ歌を歌っていた。とにかく「ヨイトマケ」は長いのだ。
大阪弁の編集人は「ヨイトマケ」に酔いしれていて、「ヨイトマケ」の意味については何も言わなくなっていた。
一夜明けて、大阪弁の編集人はまだ「ヨイトマケ」にこだわっていた。
「どうでもいいことですけど、ヨイトマケの意味が分かりました」
「建設現場での掛け声なんです。家を建てるときにぶっとい柱みたいなもんを滑車に吊り下げて土を固めるのみたことあるでしょ。あれをやるときに土方たちがうたうんです」
「一種の木やり歌やな」
「そうでんがな。ヨイトマケはしっかり巻けちゅうことでしょ。その掛け声が作業名になり、さらにその作業をする人をもヨイトマケと呼ぶようになったんです。だからヨイトマケは土方っちゅう意味です」
それがどうしたと言われては元も子もないが、「なぜだ」を追究する姿勢が記者には欠かせない。何でも自明の理として受け入れるのならば記者は要らない。 47NEWS編集部では日々、こんな会話が交わされている。言葉の意味を追究する大阪弁の編集者のもうひとつの姿は「大学院生」。このほどめでたく「博士課程進学」が決まった。47NEWSの知的レベルは侮れないっちゅうことだ。 (紫竹庵人)
▽関連リンク
・「ヨイトマケ」を再現/相模原【神奈川新聞】
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穴あきダムを嗤う
長野県は、県内を流れる浅川のダムの建設計画を中止した田中康夫前知事の政策を見直し、穴あきダムを建設することを決定した。いわゆる治水利水のうち利水はやめて治水に特化するというのだ。このニュースは47NEWSで「脱ダムの後に『穴あきダム』」という見出しをとって掲載した。
筆者は一般論として脱ダム賛成派だ。ダムは公共事業のかたまりである。昭和30年代につくられた全国ダムマップをもとに粛々とダムを作り続けてきたのが昨今のダム行政であると聞いたこともある。防災という観点もあっただろうが、どちらかといえば農業用水や工業用水など利水に重点が置かれていたという印象も持っている。その場合の水の需要は右肩上がりの経済を前提としたはずである。
その右肩上がりの前提が崩れて久しい。一方でダム建設による環境問題も浮上してきて、ダム建設は開発か環境かを問う国民的関心事となった。
明治以降も多くのダム建設は治山治水や電力に多大な貢献をしてきた。そのことを否定するのではない。ただ20年に一度の災害を防ぐ防災が50年となり、いまや100年に一度の確率にまで迫ろうとしている。もし100年に一度の災害に耐えられる国土ができたら今度は200年に一度の災害に耐えうる国土づくりに励むのだろうか。
そこまで人間は自然を支配しなければならないのか、。あるいはできるのか。分からないことが多いが、防災コストが倍々ゲームとなることだけは確かであろう。防災は大切である。環境ももちろん大切である。問題は日本という経済がどこまでその負担に耐えられるのかということではないだろうか。
長野県財政は 財政再建団体への転落ぎりぎりにある。田中前知事が公共事業を抑制してきた背景にはそうした逼迫した財政事情があった。新しい村井知事は昨日、前年度比2・6%増となる8462億円の07年度当初予算案を決めた。浅川ダムの建設は08年度からの予定だが、浅川ダム建設に着手する余裕は本当にあるのだろうか。
一部の道府県を除いて財政は厳しい。景気回復があろうがなかろうが過去の大盤振る舞いのつけは今後多くの自治体で支払っていかなければならない。小泉首相がそれまでの首相と違っていたのは、景気対策をほとんどやらなかったことである。国民に我慢を強いた。にもかかわらず絶大な支持率を維持した。国交省と一部の業者を喜ばす行政は長続きしないのだ。
戦前に信濃毎日新聞に桐生悠々という大コムにストがいた。「東京空襲大演習を嗤う」というコラムを書いて陸軍からにらまれ、長野を去らざるを得なかった。悠々ほどの勇気もないが、あえて「穴あきダムを嗤う」というタイトルをつけた。 (紫竹庵人)
長野県が脱「脱ダム」 浅川治水「穴あきダム」建設へ 2007年02月08日 10:19 【信濃毎日新聞】
http://www.shinmai.co.jp/news/20070208/KT070207ATI090020000022.htm
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言論談合
徳島新聞サイトで「議長が発言打ち切る 県議会代表質問、談合事件の刑事記録引用」と題した記事があり、47NEWSの主要トップに固定した。
http://www.topics.or.jp/contents.html?m1=2&m2=&NB=CORENEWS&GI=Kennai&G=&ns=news_117219481105&v=&vm=1
このニュースを読んで何とも思わない人は、そうとう強力な「鈍感力」の持ち主だろう。ポイントはいくつもある。ひとつは、議員が議会で発言を封じられたという事実の重みである。人の表現を規制するのには、いくつもの段階があるが、今回の規制が〈内容〉に関わるものであり、かつ、事後ではなく〈事前〉のものであるということ点が気にかかる。議員は県民から選挙された代表者。その発言が正当な理由もなく封じられたということは、県民の自由が踏みにじられたも同然なのである。
事件は、もっと深刻である。議長はたんに「そのことに触れるな」と議員の発言を制止しただけではない。記事中にある「議長見解」に注目いただきたい。過去の談合事件の裁判資料を「引用」する際には、事前に「届け出」をしなければならないという〈決めごと〉なのだ。その談合事件とは与党議員関係者の企業が関わっていた事件で、事件に関することを議会では発話しないようにしようという、いわば「言論談合」が堂々と行われたのだ。
こうした「見解」に法的拘束力などあろうはずもなく、むしろ違法性が問われるべきだろう。
徳島という地方だけで起こった特異なローカル・ニュースなどではない。今回の事例は、議会制民主政が多数者の専制によって腐敗していく典型例として、歴史の一こまとして新聞社が主体的に記録に残すべきではないか。
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江戸末すでに日本にあった種痘
江戸時代の日本の医学が侮りがたいものだったことを示す記録が佐賀県伊万里市の旧家から見つかった。記録は1854年(嘉永7)、種痘が未実施だった村の子どもたち5人に種痘を接種し、数年で150人に接種したというものである。2月5日の佐賀新聞に掲載された。
接種はどういう方法で行ったのかは記事からは読み取れないが、“予防接種”が行われていたことはちょっとした驚きではないだろうか。
誰もが不思議に思うのは江戸時代に果たして注射なるものがあったのかということである。日本の注射がどんなものであったのか実はイメージがわかない。現在のようなものなのか、あるいはまったく違う形をしていたのか分からないが、記事によれば「接種」ということになっているから注射ではなかったかもしれない。
イギリスのジェンナーが子どもに種痘の実験を行ったのは1796年のことだった。教科書で習った時、子どもに注射をしているジェンナーの絵が添えられていた記憶がある。
正式に発表されたのは2年後の話だから、50年後には日本でも種痘が行われていたことになる。鎖国時代だったとはいえ、佐賀藩は相当に速いスピードで西洋医学を受け入れていたことになる。
佐賀藩の種痘とは別に、お隣の久留米藩では中国から伝来した“種痘”を実施していた。天然痘の瘡蓋(かさぶた)を粉にしたものを鼻薬のように処方したとされる。この方式の種痘を行ったのは藩医の緒方春朔だった。寛政元年(1789)のことだからジェンナーよりも7年早かったことになる。ちなみに杉田玄白らが『解体新書』を刊行したのは安永3年(1774年)だった。
幕末の種痘記録を新発見 伊万里市の旧家から 2007年02月05日 15:09 【佐賀新聞】
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北陸に広がるATM無料化
1月4日、北國新聞の「北國銀がATM完全無料化」という記事を47NEWSの主要ニュースに掲載した。大手銀行の首脳がこの記事を読んだら多分、腰を抜かすほど驚いたに違いない。残念なことにそうはならなかった。
今日は北日本新聞が「ATM手数料 無料拡大 北陸の信金」という記事を掲載した。福井と石川県の信金は休日と時間外の利用手数料を無料化し、それが富山にも広がりそうだという内容だった。
そうか。ATM無料化は福井県の信金から始まったのだと合点した。世の中の流れはATM無料化である。北國銀行に記事を主要に据えたのは間違いではなかったのだ。これが東京の大手銀行から始まるのではなく、北陸の信金から始まったことに大きな意味がある。そう思った。
しかもニュースの発信源が金沢や富山なのである。こういう記事こそ47が求めているニュースなのだという思いはスタッフ全員のものである。「地域のことは地域にまかせて」と言うは易しだが、現実にこれまで地方紙のニュースは県境を越えることはなかなかなかったのである。
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2007年02月22日
お雛さまに会いたくて
先週から「おでかけ」で「お雛さまに会いたくて」を特集している。この季節、赤い彩りの写真がたくさん並んでいると心が弾んでくる。今年は暖冬でさほどでもないが、春を待ち焦がれる心情はなんともいいものである。
各地でのお雛さま記事での特徴は、それぞれの家庭にあるお雛さまを“公開”する動きだ。女児が生まれるとお雛さまを飾るのは江戸時代ぐらいからの風習のようだが、最近の狭いマイホームでは飾る場所にも苦労するし、女児が成年となってお雛さまを飾らなくなると押入れの“お荷物”となる。
お雛さま自身は現役なのに家庭の方の事情が現役でいることを許さない。これはかわいそうなことだと、各地のお雛さまは家庭から公の場所に出て飾られることになった。
徳島県の勝浦町では2万体のお雛さまが人形文化交流館を埋め尽くしている。徳島県はいまも人形浄瑠璃が多く伝わる土地柄である。お雛さまを大切にする土壌があるのかもしれない。
http://www.topics.or.jp/contents.html?m1=2&m2=&NB=CORENEWS&GI=Kennai&G=&ns=news_117184989579&v=&vm=1
ひな祭りの由来について、少々調べてみた。3月3日は5節句の上巳の日。中国ではこの日に川で身を清める風習があった。後に紙で人の形をした形代(かたしろ)を川に流して穢れを移す行事となった。日本でも残る流し雛はその風習を残したものである。人々が水をかけ合うタイの水祭りもこの日に行われる。清めという意味では起源は中国にあるのだろう。
この形代が後に長い時間をかけて、かわいいお雛さまに変貌していったはずだ。
「穢れ」と「清め」という概念は、神道の根源をなす考え方である。春になって田んぼを耕し、コメを植える。その際、豊穣を祈る前に人々は冬の穢れを清めておく必要があったのだろう。神社で手を洗い、口をすすぐのも同じ考えに由来する。「水に流す」という日本語も人間関係の「清め」なのである。
御手洗を便所だと考えているのは現代人だけである。神社で手を洗うところは御手洗(みたらし)と呼ぶ。その昔は川のほとりで手を洗い口をすすいだのだろう。関西では串刺しになった団子を「みたらし団子」と言う。多分、御手洗の近くに団子屋があって、人々が「みたらし団子」と呼び始めたに違いない。
どういうわけか、ひな祭りにみたらし団子はない。代わりに菱餅が振舞われる。菱餅にも謂われがあるが、くどくなるのでやめる。
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