2007年04月13日
桜のうんちく(11) 松阪山中の宣長の奥墓
【桜のうんちく】
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しきしまの大和心を人とはば
朝日ににおふ山桜ばな
あまりにも人口に膾炙された本居宣長のうた。国学の開祖の一人である宣長の墓は松阪市郊外の山中にある。生前自ら設計した通りにつくられ、そこに一本の山桜を植えるよう命じた。宣長が死んだのは1801年だからすでに200年以上の歳月が経つ。
200年前に植えられた山桜ではないが、今も宣長の奥墓には一本の山桜が立つ。周りの桜が盛りを過ぎたころ、その一本の山桜が花をつかせる。宣長の山桜は山の杉の木立に競うように上へ上へと伸びている。ひょろ長い桜木は美しいとはいえないが、この時期、遠路訪れた旅人の心を潤わすものがある。
宣長がひとかどならぬ桜狂となるには理由がある。長く実子に恵まれなかった父親が吉野の水分神(みまくりのかみ)に通ってようやく生まれたのが宣長だった。自ら吉野の桜の精と信じたとしても不思議でない。晩年、門人たちを引き連れてこの時期、吉野へと旅立ち、『菅笠日記』をものにした。桜追慕の旅日記である。
宣長の生涯の師匠となった賀茂真淵もいい桜のうたを残している。
うらうらとのどけき春の心より にほひ出でたる山桜ばな
もろこしの人に見せばや三吉野の 吉野のやまの山桜ばな
(平成の花咲爺)
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桜のうんちく(10) 南殿の桜の続き
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京都を訪ねて御所が左京区にあるのをおかしいと感じた人は相当な京都通だ。御所を中心に左右があるはずなのに。歴史教科書の平安京の配置図は覚えていると思う。あの図は設計図のようなもので実際建設されなかった部分も描かれてあると教わったこともあるが、これは定かでない。
平安時代、内裏は度々の火災で焼失した。内裏が再建される間は里内裏といって貴族の邸宅に仮御所が営まれたが、鎌倉時代、天皇と幕府が対立して起きた承久の乱(1221年)の前後に消失して以降、再建されることはなかった。再建中に里内裏とされていた土御門東洞院殿、つまり現在の御所が正式の内裏となった。後堀川帝の時代である。
東洞院は上皇のお住まいの意味で、現在の京都御所には仙洞御所が東側にある。土御門殿といえば、藤原道長が住んでいた寝殿造りの邸宅。後に後白河上皇の所有になったこともある由緒ある場所である。これが明治2年まで続いた内裏である。
桜とは縁のない話ではない。その里内裏でも左近の桜だけはずっと殿上人たちに春の訪れを伝えていたということだ。(花咲爺)
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2007年04月09日
桜のうんちく (9) 南殿の桜
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吉野の花 左近の桜みな一重にてこそあれ(徒然草)
4日から京都御所が一般公開された。「左近の桜」は南殿つまり紫宸殿の前庭の東側に植えてある桜のことである。西側には「右近の橘」がある。桓武天皇が平安京に遷都したときには左近には梅の木が植えてあった。やんごとなき樹木を左右に植えるのは中国の宮廷の影響だろうとされている。橘は柑橘系の木で中国から伝来し、果実が尊ばれ、冬でも落葉しない。桜は日本古来の木で花を愛でる。二つの樹木は対照的である。
紫宸殿の庭には左右に左近衛府と右近衛府という近衛兵の府があったことから左近、右近とよぶようになった。紫宸殿に向うと桜は右にあるのに、なぜ左近なのか。この左、右は天皇の御座からみて左。右ということだ。左京区も右京区も同じような発想から命名された。ではどちらが位が高いのか。もちろん左である。外来の橘より日本の桜が上ということにもなる。
「左近の梅」が「左近の桜」になったのはいつごろなのかというと、どうやら仁明天皇(833-850)の時代に梅の木が枯れて桜好きだった天皇が桜に植え替えさせたということらしい。仁明期以前の嵯峨天皇や淳和天皇の時代すでに桜会などと称して桜を愛でる催しはあったが、内裏に初めて桜を植えたのは仁明天皇だった。当時、文書はすべて漢文が使用され、和歌も万葉仮名が使われていたが、まもなくひらがなが生まれる。日本が唐風から脱皮して日本の古典文学が花開くにはまだ時間がかかるが、日本人自身が“日本”を意識し始める兆しが左近の桜の誕生となる、といったらいいすぎだろうか。
以来、内裏は何度も消失したがその度に新たな桜が植えられてきた。天徳4年(940)、内裏が何度目かの消失に遭って再建された時、重明親王弐部卿の家の桜を植えたという記録があり、それは吉野の山桜だったとされている。現在も左近の桜は山桜である。平安時代、日本には接木という手法が知れ渡っていたようで、貴族が競って移し植えていたとされ、重明親王弐部卿の家の桜も元をたどれば左近の桜の接木だったかもしれない。今に到るも左近の桜がずっと同じクローンだったら面白い。(花咲爺)
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桜のうんちく (8) 外山の霞
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高砂の尾上の桜咲きにけり
外山の霞たたずもあらなむ
東京は桜が満開になってから天候不順である。きのうは黄砂とまがうほど空が低かった。今日も雨模様である。せっかく桜が咲いたのに「外山の霞たたずもあらなむ」という気持ちである。
またまた百人一首から選んだ和歌の作者は大江匡房(おおえのまさふさ)。子どものころ百人一首にのめり込み8割がた覚えて近所のお兄さんたちに勝負を挑んだことがある。中学生や高校生に勝つのが楽しかった。意味も分からず覚えた和歌は相当程度今でも覚えている。最近は暗記をばかにする風情があるが、とんでもないことである。暗記こそが勉強だったと今頃になって思い返している。
大江匡房は、後三条天皇と白河上皇の信任をえた平安時代有数の碩学。時に菅原道真と比較された。頼朝の家臣となって鎌倉幕府設立を支えた大江広元の曾祖父である。小学生のころはそんなことはどうでもよかったのだ。
僕らの世代はこの時代の歴史をほとんど知らない。どうしてか最近分かった。古典つまり『平家物語』を読んでいないからである。先日は薩摩守忠度のことを書いたが、匡房はもう少し前の人物である。源氏方は八幡太郎義家が棟梁だった時代。奥州の清原氏が滅亡に追い込まれる「後三年の役」で金沢の柵で雁の列が乱れるのを見て伏兵を察知したのは匡房から孫子などを教えられていたからだという。孫子の兵を語る傍らこの季節には桜が気になって仕方ないのはやはり日本人ということだろうか。ちなみに全国の八幡様はこの義家を祀ってある。(平成の花咲爺)
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2007年03月30日
桜のうんちく(7) 近江の「行く春」
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さざ浪や志賀の都は荒れにしを
昔ながらの山桜かな
千載集では読み人知らずとされているが、平清盛の末弟、薩摩守忠度が作者。平家物語の「忠度都落」はあまりに有名。
忠度は一ノ谷の戦いに向う途上、藤原俊成宅に立ち寄り自らの歌集を委ね、「勅撰和歌集を編纂する際に一つでいいから載せてほしい」と嘆願した。
忠度は父忠盛が熊野別当の娘に産ませた子で18歳まで熊野で過ごした。鄙で育ったのに文才があった。平安時代の末期は宮廷を中心に熊野信仰がもっとも盛んで、舎人や采女に熊野の人が多かったはず。忠度はそんな采女の一人を母としたから熊野で過ごしたとしても教養という面で都人に劣ることはなかったと思われる。
志賀とどういうかかわりがあったか知らないが、「ながら」は「長等」にかけたもの。熊野検校を三井寺の長吏が兼任していたため、後白河法王、平家、熊野、三井寺の連想から辞世に大津、長等山の桜をうたったのだろうと想像している。
大津は天智天皇が即位した地。日本書紀によれば、景行、成務、仲哀の三代の天皇も高穴穂宮に都した。筆者の初任地でもあり思い出深く、比叡の稜線が琵琶湖に落ち込む眺めを日々楽しんだ。春、桜の季節は朝もやが湖面をうっすらと覆い、やがてさざなみがにぶくきらめく。なんとも気だるく長閑な時が流れる。
松尾芭蕉はしばし庵を結んで「行く春を近江の人を惜しみけり」とひねった。近江の春は実にいい時間が流れる。忠度もそんな春を楽しんだに違いない。(平成の花咲爺)
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桜のうんちく(6) 東円堂の八重桜
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古への奈良の都の八重桜
きょう九重に匂ほえるかな
歌の意味の解説は不要であろう。藤原道長が権勢を誇った時代。一条天皇の元へ奈良から八重桜が届いた。そこに居合わせた伊勢大輔に「その花を題にて歌よめ」と請われて詠み、「万人感動、宮中鼓動」(袋草子)したと伝えられている。
平安京の遷都(794年)からすでに200年を経ているから「古へ」なのだが、旧都への郷愁がまだ人々の間にあったのだろう。当時は「奈良の八重桜」といえば興福寺の東円堂の前の桜と相場が決まっていた。見たことがなくともあのうわさに聞いた「八重桜」のことかと宮廷人は「よき古へ」への思いを一にしたに違いない。
この話とは別に、「沙石集」という本に興味深い話が載っているそうだ。『櫻史』(山田孝雄)によれば、興福寺の東円堂の八重桜がきれいだと聞いたある后が「掘って持って来い」と興福寺の別当に命じた。それを見つけた「大衆の某』が「后の命令だからといってこれほどの名木を献上してよいものか。もののあわれを解さないことおびただしい」と別当に食って掛かり、人々を集めて阻止させた。命を張って名木の移植に反対した人々が奈良にいることを知ったこの后はまた「奈良にはなかなか風雅を愛する人々がいる」といって感嘆したのだそうだ。
伊勢大輔は藤原彰子(上東門院)に仕えた。大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の子で、父輔親が伊勢神宮の祭主・神祇大輔(じんぎたいふ)だったことからこの名で呼ばれるのだそうだ。(平成の花咲爺)
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桜のうんちく (5) 旅を枕にした西行
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願はくは花の下にて春死なん
その如月の望月のころ
百人一首では「嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな」の歌で知られ、坊主めくりでおなじみの西行法師である。
まだ桜の開花を待っている時期に吉野のことを書くのははばかれる。しかし、桜の名所として吉野ほど著名なところはない。全山が桜におおわれ、すそ野から千本桜まで時間を追って咲き乱れるのである。
西行はその吉野に3年間、庵を結んでいた時にこの歌をうたったとされる。桜をこよなく愛した歌人の一人で、桜花爛漫の時期に死にたいと願った。この歌は60歳ごろの作とされるが、不思議なことに73歳の如月(2月)望月(15日)の翌日、最期の隠遁地、南河内の弘川寺でなくなった。
史上最も桜を愛した歌人のひとりでもあった。出家する前の俗名は佐藤 義清(さとう・のりきよ)。鳥羽院の北面の武士として仕えていたが、ならぬ恋がゆえに出家、和歌を携えて全国を行脚した。たぶん旅を文学に高めた最初の日本人だったのだろうと思う。
紀貫之の『土佐日記』があるといわれれば、そうだが貫之は土佐国への赴任の途上を日記にしたためただけ。西行の歩いた距離とは桁が違う。在原業平の『伊勢日記』は自身が本当に吾妻まで旅したか疑わしいのだ。連歌の宗祇や俳句の芭蕉も旅を生活にした点で、西行の生き方をまねたのだろう。
我輩も旅を枕に風雅に生きたいが、西行の真似はできそうにない。(平成の花咲爺)
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桜のうんちく (4) 熊野詣の先達
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もろともにあはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし
時代は平安後期、場所は大峯山。大自然と対峙する日々、まだ春は浅く寒さもあったろう。単身、修行中に出会った山桜にいとおしさを感じ、一本の山桜に語りかけた。
「山桜よ、私がそなたを愛しく思うのと一緒に、そなたも私を思っておくれ。今の私にはそなたよりほかには、私を知っているものもないのだから。」
作者は行尊(ぎょうそん。1055~1135)。並みの修験僧ではない。三条天皇のひ孫で、父親は源基平。そう、源氏の姓は清和天皇以外にも多くの天皇を祖にいただく。行尊は幼くして父を亡くし、園城寺(三井寺)で出家。大峯、葛城、熊野などの各地で修験道の修行に励み、晩年に園城寺の長吏そして天台座主にまで上り詰めた。平安時代の天台の高僧のイメージは定まらないが、行尊のイメージは極限まで自己を追い詰める苦行僧である。そんな行尊が修行の合間に山桜に語りかける口調はなんともやさしげだ。
当時、熊野本宮、那智大社、速玉大社の熊野信仰があったが、まだ修験道者を中心の信仰で一般人の立ち寄る場所ではなかった。その修験道の世界に白河上皇を連れて行ったのが、行尊の師だった増誉である。増誉は熊野案内の先達(せんだつ、道案内人)を務め、その功績により、熊野をつかさどるトップ役である検校(けんぎょう)となった。
増誉が上皇の先達を勤めたのは一回かぎりで、その役割は二代目検校となった行尊に引き継がれた。庶民による熊野詣が盛んになったのは鎌倉から室町期にかけてで、「アリの熊野詣」といわれるほど貴賎を問わず大勢の人々が熊野に押し寄せることになった。この熊野詣ブームの先鞭をつけたのがまさに行尊だった。覚えておいてほしい名前である。(平成の花咲爺)
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桜のうんちく (3) 元祖、西園寺
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小倉百人一首でおなじみの一首。作者、入道前太政大臣は藤原公経のこと。鎌倉時代前期の公家である。頼朝の妹の娘を妻としたことから、幕府と親しく、外孫にあたる藤原頼経を実朝の後の将軍後継者とした。
10年前、京都に住んでいたころ、金閣寺(鹿苑寺)は足利義満が北山にあった西園寺の跡地に建築されたと聞いたことがある。西園寺って寺名だったのだということを始めて知った。平安時代はほとんどの貴族が藤原姓を名乗っていた。お互いを呼ぶ時に住まいの名で呼び合い、やがてそれが苗字のようになった。近衛や九条、三条らの姓(かばね)も藤原である。
幕府方の権威を楯に太政大臣にまで昇りつめ、権勢をほしいままにした公経は晩年、仏門に入って入道となり、西園寺を建立して住まいし、西園寺を名乗るようになったといわれる。
いまの金閣寺のあたりは北山のすそ野である。西大路の北詰の西側だから、平安京の区画を外れ、鄙びていたに違いない。たぶん、その広大な庭園に桜の木をたくさん植えて楽しんだのだろう。しかし、その公経も老いには勝てなかった。「ふりゆく」は「降る」に「古(ふ)り」を重ねたもので、降りしきる花嵐に老いゆくわが身を嘆いたのである。(平成の花咲爺)
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桜のうんちく(2) 青丹によし
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青丹によし奈良の都のさく花の
にほふが如く今盛りなりけり
先週の気象庁の桜の開花予想で今年の開花は例年以上に早くなるとされた。
「このままでは3月中旬にも花が咲いて4月までもたないかもしれない」
そんな不安の声も聞かれた。旧暦でいえば、桜の季節は三月弥生である。桜は四月というイメージが定着したのは新暦になってからのはずだ。それにしても日本列島が桜、桜と騒がしくなったのはいつからなのか。ソメイヨシノという現在の桜の代表的品種が開発されたのが江戸期だとされているから、たぶん江戸時代になってのことだろう。
そもそも万葉集で「花」といえば梅のことだったようで、桜より梅をうたった歌の方が圧倒的に多いのだそうだ。そんななかで奈良の満開の桜をうたった代表作が「青丹よし」である。作者は小野老(おののおい)。朝廷の役人で大宰府に赴任、歓迎会で奈良の都を思い出してうたった。神亀五年(728年)のころとされるから、聖武天皇が即位間もないころ。興福寺はあったが、東大寺はまだ建立されていない。
「青丹よし」は奈良の枕詞だが、青は緑に通じ、丹は朱色のこと。壮麗な都の建築物を想像させるが、どれほど奈良の地が整備されていたか分からない。
今や奈良盆地は見る影もなく俗化されているが、それでも二月堂から眼下に広がる緑と東大寺の堂宇の眺めは悪くない。緑の中に朱塗りの宮殿と堂宇が点在する風景こそが筆者にとっての「青丹によし」なのだ(平成の花咲爺)
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桜のうんちく(1) 在原業平も浮き立った
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世の中にたえてさくらのなかりせば
はるの心はのどけからまし
47NEWSとして「桜だより」を始めようとした時、「桜は日本人の心だ」といったら、反論があった。「そうか。この時期に心が浮き立たない日本人もいるのだ」と考えさせられた。
さはさりながら、「桜だより」の編集者はその心浮き立つ日本人の一人。この時期にせっかく「桜だより」を始めるのだから、桜について学びながら併せて「桜のうんちく」を書きたくなった。桜といえば思い立つのは日本人のうたごころである。
桜といえば西行や本居宣長が有名であるが、この浮き立つ日本人の心を和歌に託したのは、ご存知、平安のプレーボーイとして浮名をはせた在原業平である。六歌仙の一人で伊勢物語の主人公兼作者といわれている。平安初期の歌人であるから1100年以上も前に日本人-当時はそんな概念があったかどうか分からないが-の心を読み、ずっと日本人の心をとらえてきたのだからすごいことではないか。
『伊勢物語』を一度でも読んだ方は、この物語がなぜ「伊勢」と呼ばれるのか疑問に思ったはずだ。読み出しても一向に伊勢にまつわる話は出てこない。そのうち伊勢斎宮の恬子内親王との禁じられた恋の物語が出てきてようやく納得する。
斎宮は伊勢の神さまにささげられた皇女。天武朝に始まったとされ南北朝の時代に終わった。一生を神さまに尽くす身であるから恋などをしてはならない。まして男の方から恋するなど大胆にもほどがある。業平にかかわらずこの時代の宮廷人たちは恋に自由だった。桜が咲き舞い散るこの季節は恋心ももっとも盛んだったのだろう。うらやましく勝手に想像している。(平成の花咲爺)
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