消えた鳴り物 大震災被災地での開催
日本高校野球連盟、主催新聞社も意見の交換を重ねるなど対処に苦慮した。被災者の反感を買わないこと、復興作業の妨げにならぬ行動などを約束事にして第67回大会の開催が決断されている。応援バスの兵庫県下への乗り入れも禁止した。「出場校への注意事項」と題された冊子には鳴り物の応援は取りやめ。生徒一人にメガホンは1個だけで、応援団のリーダーには統制用の笛が3個までなど細かく規制した。 ともすれば華美に走り、ぜいたくな印象が強くなるばかりの高校野球にブレーキがかかる。派手さより質素であることの大切さを再確認できるチャンスと解釈した。多くの不幸を背負った地元の人たちに、野球をさせてもらえることへの感謝を伝えることも忘れてはならないものだった。 ちなみに、この大会には福留孝介(PL学園―中日―カブス)藤本敦士(育英―阪神)森野将彦(東海大相模―中日)らが出場。どんな思いでプレーしたのだろうか。 【写真】甲子園球場のある西宮市内でも多くの家屋が倒壊し多数の犠牲者が出た。行方不明者などの捜索をする自衛隊員=1995年1月18日、西宮市北口町(右) 万代隆(まんだい・たかし)1941年大阪市生まれ。長い野球記者生活で培った確かな取材力と幅広い人脈を誇る。春夏の甲子園大会もネット裏から熱い視線を送り続け、持ち味の平易な語り口で共同通信のコラムなどに思いをつづっている。近著のコラム集「球界時評」(高知新聞社、南日本新聞社発行)も好評。 (次回掲載は20日)
戦後、大会開催の大ピンチがあった。1995年1月17日に発生した阪神大震災は、甲子園が被災地にあるため「やってくれ」「こんなときに野球でもあるまい」と開催そのものに議論が噴出した。多くの犠牲者があり、家を失って生活もままならない住民感情を無視することはできなかった。
鳴り物が消えた応援席はどうだったか。これまでは休むことを知らなかった「音」がなくなった。主力は人間の声になっていた。肉声がこれほどの迫力を生み、厚みがあるとは予測できなかった。新しい発見が次々と出てきたことに、開催決行の意義を見つけることができた。
スタンドにひびが入るなどの被害を受けた甲子園球場では、補修工事が急ピッチで進められた=1995年3月22日、兵庫県西宮市