「泣くな別所、センバツの花」 左腕折りながら続投
その大会で観衆の胸を打つ敢闘精神を発揮したのが滝川中の別所昭(後に毅彦と改名)投手だった。後世に語り継がれるプレーの発端は準々決勝、岐阜商戦の九回表のことだ。1点を追う滝川中はこの回一死一、二塁。青田昇の三ゴロが一塁手への悪送球を誘い、一塁走者の別所はベースコーチの「ストップ」を振り切って三塁ベースを回った。 この好機で一気に逆転を狙った別所の心境も理解できる。右翼からの好返球があって本塁上のクロスプレーで悲劇が起こった。180㌢、75㌔、転倒した別所の巨体の下で左腕が骨折。同点ではあったが、逆転への走塁は大きな代償を伴った。発熱があり、寒けが襲ってくるのに別所は続投を訴え出ている。現在なら大会本部は出場続行を許さないだろう。 白い布で左腕をつった。グラブを使わず、捕手からの返球はゴロにする。大会屈指の剛球投手がアンダースローで投げるのが精いっぱい。交代する投手が不在で、悲壮感が漂う姿にスタンドは異様なムードになったそうだ。それでも延長十二回途中まで投げ、投手経験のない捕手の小林章良が救援。十四回でサヨナラ負けした。 同情と称賛を集めた別所の奮闘に「泣くな別所、センバツの花」と報じられた。戦争目前に咲いた花は、戦後プロに転じて歴代5位の通算310勝と咲き誇った。滝川中ばかりが脚光を浴びたのではなく、岐阜商にも光が当たっている。一度もバント攻撃をせず、別所の不運をおもんばかった精神に拍手を送る人も多かった。 (この項、校名は当時の名称) 【写真】左腕骨折の悪夢から55年後の秋、巨人―中日のOB戦でマウンドに立つ別所毅彦氏=1996年11月、ナゴヤ球場 万代隆(まんだい・たかし)1941年大阪市生まれ。長い野球記者生活で培った確かな取材力と幅広い人脈を誇る。春夏の甲子園大会もネット裏から熱い視線を送り続け、持ち味の平易な語り口で共同通信のコラムなどに思いをつづっている。近著のコラム集「球界時評」(高知新聞社、南日本新聞社発行)も好評。 (次回掲載は17日)
戦争へ突入、という暗雲が立ち込めた1941年の第18回大会が戦前最後の大会になった。ここから5年間、センバツは消えてしまう。