1人5升のコメ持参 食料難の下、大会復活
平和が帰ってきても、国民の暮らしは苦しかった。食糧難は当然のように球児にもついて回った。戦う前に食糧の調達に選手も関係者も腐心した。主催新聞社が報じている往時の回顧には細かく記されている。徳島商の選手は地元の警察で米穀証明書をもらい1人5升(9㍑)の米を持参。これが10日分という計算だった。食べ盛りが1日5合で済ませるのはつらかっただろう。 どの出場校も徳島商と似たような状況であったらしい。せっかく故郷の米を持ってきても駅頭での取締りが難関。大会本部は大阪の警察署に了解を得たり、大阪の中央市場に交渉して魚や野菜の確保に奔走した。当時の大会に参加した選手はいずれも学生服にリュックサックを背負っている写真が残されている。生活感があふれ、何となく切ない。 とても笑えない当時のエピソードをひとつ。大会に入って勝つごとに米の差し入れが増えた。そのころは代用食のサツマイモは当たり前で「食べ慣れていない物を食べたら腹を壊す」と差し入れの米を取り上げたチームもあったらしい。うそのような本当の話だから、これにも胸が詰まる。 どこまで戦えるかより、どこまで食糧が持ちこたえるか。そんな時代が戦後しばらくは高校野球にもあった。飽食の時代で食の苦労がなくなった今、往時の制限された困苦の日々を、少しでも理解に努めるべきではないか。 【写真】終戦直後の東京・新橋駅前の闇市。深刻な食糧難の時代、放出物資や隠匿物資を求めて復員兵やもんぺ姿の女性でにぎわった=1945年11月 万代隆(まんだい・たかし)1941年大阪市生まれ。長い野球記者生活で培った確かな取材力と幅広い人脈を誇る。春夏の甲子園大会もネット裏から熱い視線を送り続け、持ち味の平易な語り口で共同通信のコラムなどに思いをつづっている。近著のコラム集「球界時評」(高知新聞社、南日本新聞社発行)も好評。 (次回掲載は11日)
戦争での中断で、5年ぶりにセンバツが復活したのは1947年だった。26校が参加した第19大会の開会式は6万人の観衆でスタンドが埋まっていた。早春の風に揺れるセンターポールの日章旗。「あの日の丸をご覧ください」のあいさつに多くの人が胸を熱くさせていたという。