⑧戦争で5年の空白 鉄傘も撤去の運命
主催者は新聞で社告を掲載することもできなかった。スパイの活動を防ぎ機密情報などが敵に漏れないための「防諜」を徹底した。国民の知らないところで問題が処理され、闇の中を流れていった。地方大会はそのまま姿を変え、各府県大会として続けられている。球児にとっては突然のような大会中止は、諦めきれない不満と今後の生活不安に新たなおびえを感じていただろう。ここで甲子園大会に5年の空白が始まり、戦争に入ったのは12月8日だった。 1942年8月、文部省と学徒体育振興会が共催し甲子園に16校を集めて全国中等学校体育大会野球大会を開いた。自ら主導権を握りたかった文部省が力づくで実現させたものだったが、中等野球の大会としては戦前最後のものになった。翌43年には戦時学徒体育訓練実施要項が制定され、野球は完全に追いやられた。 だれの心にも傷がついた。そして耐乏と苦しさの中で、再び白球を握ろうとする人々がいた。人間の強さは計り知れない。 【写真】甲子園球場のシンボル、たくましいツタ。1924年の球場建設後すぐにスタンドの壁面に植えられたツタは大会受難の時代もしっかりと生き延び、球場リニューアルを前に伐採された時には幹の太さが直径10センチを超えるものがあった。(2006年10月18日撮影) 万代隆(まんだい・たかし)1941年大阪市生まれ。長い野球記者生活で培った確かな取材力と幅広い人脈を誇る。春夏の甲子園大会もネット裏から熱い視線を送り続け、持ち味の平易な語り口で共同通信のコラムなどに思いをつづっている。今春、コラム集「球界時評」(高知新聞社、南日本新聞社発行)を上梓した。 (次回掲載は14日)
とうとう戦争に突入した。1941年の第27回大会は戦局が深刻な様相になり、国民の生活行動が厳しく規制された。7月中旬に文部省次官通達により、スポーツの全国的な開催が禁止された。このとき既に甲子園の指定席券の発売が始まっていて、鹿児島大会がスタート。7月上旬には沖縄と宮崎では早くも2次大会へ進んでいた。
聖地の甲子園にも手が伸びできた。スタンドの象徴だった大鉄傘が金属回収のため、解体された。これが43年8月のことで、あの雄大な鉄傘が消えたあとの空しさはいかばかりだっただろう。45年の終戦直前、8月6日には球場正面の役員・選手が通用する鉄製扉も被弾したという。


