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桜の花が縁で名づけられた磐余稚桜宮

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 藤原京、平城京、平安京。教科書で習った日本の都だ。「みやこ」と読む。「京」も「みやこ」。「京都」は訓読みするとおかしなことになる。みんな唐の時代の長安を模して東西南北に碁盤の目の道路を配置した。天皇の御座所は中央北部にあり、「天子南面」の思想を具現化した。

 さて「桜」の名のつく都がかつてあった。「京」と呼ばれる前は天皇の御座所を「宮」と呼んだ。天皇が代わるごとに御座所が代わった。というより“自宅”が御座所になった。「宮」は「神宮」の宮に通じる。神のいますところの意味だろうか。

 日本書紀によると、履中天皇は現在の大和桜井の付近に磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)を営んだ。即位後3年目の11月朔(1日)に両技船(ふたまたぶね)を磐余の市磯池(いちしいけ)に浮かべて遊宴した。

 膳臣余磯(あしわでのおみあれし)が天皇にお酒とつごうとしたとき、どこからか桜の花が盃に落ちた。天皇は時ならぬ桜の花に驚いて、そばにいた物部長真胆連(なかまいのむらじ)に探させたところ、掖上室山に桜木があった。

 天皇は喜び、春に先駆けた桜ということで自らの宮に「稚桜」の名前をつけたという。膳臣余磯は稚桜武部臣の号をもらい、物部長真胆連もまた本姓に稚桜部造を賜った。いま稚桜神社がある。

 桜井の地名が稚桜と関連があるかとうかは分からない。附言すれば、歴史的に一番有名な桜井は「青葉繁れる桜井の・・・」の歌で知られる桜井駅だ。大阪府と京都府の境にある。楠正成が湊川の戦に出陣したとき、長男の正行に別れを告げたところだ。

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