全国の地方新聞社と共同通信社が識者らとつくる「地域再生列島ネット」の意見交換は、東日本大震災を受け中止しました。震災後も地方はさまざまな課題を抱え、多くの知恵が求められています。そこで、新メンバーを加え、名称も「地・宝・人(ち・ほう・じん)ネット」と改めて毎月の意見交換を再開、特集記事を出稿します。
≪まちの魅力伝える≫ 試される本気度や持続力 膨大な情報量に対抗
どのまちにも魅力がある。しかし、多くの人に伝えることは難しい。全国の地方新聞社と共同通信社が識者らとつくる「地・宝・人(ち・ほう・じん)ネット」にも、地道な活動を続けるメンバーがいる。第29回意見交換は、わがまちの発信戦略を話し合った。
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情報発信をめぐる「地・宝・人(ち・ほう・じん)ネット」のメンバーの意見交換では、膨大な情報が飛び交う中、わがまちの良さを埋もれさせない工夫が重要と指摘。伝える側の「本気度」や、アイデアを繰り返し練る持続力が試されるとの声が上がった。グローバルな思考など独自の取り組みも求められた。
渡辺英彦(わたなべ・ひでひこ)・富士宮やきそば学会会長(静岡)は、どのまちにも良い素材があるが「いかに伝えるかが問題」と指摘。一方、熊紀三夫(くま・きみお)・高松丸亀町商店街振興組合企画室長(香川)は、大量の情報に紛れないように届けることは難しいとみる。
このため、舩木上次(ふなき・じょうじ)・萌木の村社長(山梨)は、発信者にエネルギーが必要だと指摘。土居好江(どい・よしえ)・遊悠舎京すずめ理事長(京都)も、本気で発信に取り組んでいるかが鍵とし、戦略を考える人材を育てることを求めた。
多くの人に知ってもらうには「持続力が大事」(都竹淳也(つづく・じゅんや)・岐阜県商工政策課課長補佐)。合わせて、白戸洋(しらと・ひろし)・松本大教授(長野)は「共感してくれる人に的確に情報を」と、選択と集中を心掛けるべきだとした。
独自の発想の重要性も指摘された。阿部欣司(あべ・きんじ)・北海道電力地域担当部長は、東アジアに雪の世界を売り込むなど、グローバルに考えることで新戦略が生まれると話す。田村亨(たむら・とおる)・室蘭工大教授(北海道)も、都市部と違う価値観を地方が打ち出す必要があるとした。

11年続く手づくり映画祭 ロケ、まち見直す契機に
山あいの小さな町、群馬県中之条町にある古い木造2階建て校舎。教室には子どもたちが使っていた机やいす、黒板が残る。1990年に廃校になった中学校は「伊参(いさま)スタジオ」と名を変え、多くの映画やテレビドラマなどの撮影に使われている。
ここで毎年開かれる「伊参スタジオ映画祭」は2011年、11回目を迎えた。同映画祭実行委員会の委員長で「地・宝・人(ち・ほう・じん)ネット」のメンバー、福田公雄(ふくだ・きみお)さん(41)は「当初は1回限りの予定だったんです」と笑う。
▽忘れていた魅力
伊参スタジオは、取り壊し寸前だった町立中学校の廃校舎が、俳優の役所広司(やくしょ・こうじ)さん出演の映画「眠る男」のロケ地に選ばれたことを受け、中之条町が整備。その後、歌手の山崎(やまざき)まさよしさんが主演した「月とキャベツ」でも使われた。
2本の映画が1990年代半ばに公開されると、人口約1万8千人の同町に見慣れない若者の姿が目立つようになった。ロケ地を目指して来た映画ファンたちだった。
「撮影に使われ、多くの人が訪れるほどの魅力が町にある。町民が忘れていた古里の魅力を映画を通して見つめ直したい」。こうした思いを形にしたのが映画祭だった。
町民のボランティアが運営を担い、中学校の体育館だった場所で開かれる手づくりの映画祭。毎年上映する「月とキャベツ」を始め、中之条町での撮影作品が中心のため、エキストラなどに参加した町民が家族で見に来ることも多いという。
▽資金など課題も
同町にはロケ地誘致に取り組む専門組織はないが、これまでに町内で撮影された作品はプロモーションビデオなども含め200本を超える。無料開放している伊参スタジオにも年間1万人前後が訪れ、まちを発信する大きな手段になった。
製作会社が集中する東京から日帰りでき、撮影に邪魔な大きな人工物がないなど「地の利」が力となった。一方、映画祭を訪れる人は毎年延べ500人程度で運営費がチケット収入で賄えず、町の補助金に頼るなど課題もある。
映画祭で実施しているシナリオ大賞の応募作を映像化し販売するなどアイデアはあるが、実現はこれから。福田さんは「行政に頼らず資金を確保し、ロケ地の誘致などPRにもっと取り組みたい」と意欲を示している。

◎外・宝・人
外国語教育や国際交流のため、政府や自治体、自治体国際化協会は海外の若者を各地へ派遣する「JETプログラム」を行っている。多彩な経験を積んだ人たちを「外・宝・人(がい・ほう・じん)」と名づけ、地域への思いを寄せてもらった。

日本に住みたかった理由の一つは、茶道を学ぶことだった。和歌山県で語学補助教員として働いていた間に、期待以上の勉強ができた。
着いて間もなく、パーティーで若い女性に出会った。彼女の母、N夫人がガイド役となり、お湯とお茶の理想的な割合以上のことを教えてくれた。身のこなしやもてなし、微妙な日本のユーモアまで繰り返し学んだ。
N夫人は最初の夜、お茶でもてなしてくれた。私は正しく振る舞おうと神経質になり、ぎこちなかった。感想を聞かれ「お菓子もお茶も良かったけど、作法を間違えたかも」と答えた。すると、N夫人は「お茶のたて方を学ぶ前に、お客となることを学ぶ必要がある。茶道とは茶を楽しむこと」と諭してくれた。
2年のけいこを重ね、N夫人は茶会の亭主を務めてみてはと勧めた。当日は夫人らに手伝ってもらい、黄色の着物を着た。1週間続いた冷たい雨がやんで早春の青空が広がっていた。桜は咲いていなかったが、茶会にふさわしい天気だった。
部屋に入ると、多くの客に驚いた。いつもよりはるかに多い人たちがいたのだ。主賓である「正客」はN夫人のお茶の先生だった。美しくかくしゃくとした女性で、80年余りの人生の大半をお茶のけいこで過ごしてきた。緊張し深呼吸してお茶わんを温め始めた。私はけいこしてきた体の動きに任せた。正直にいうと、どうしたか覚えていない。数分間の記憶がぼやけてしまっているのだ。
気を張りつめていると、畳を歩く白足袋の柔らかな音しか聞こえない。数分後、いや、もっと長かったかもしれない。先生は飲み終えると陽気に言った。「外国人にお茶をたててもらったのは初めて。おいしかった」
先生の言葉と話しぶりがユーモアと明るさを運んだ。巧みに、茶室を肩の凝らない空気に変えたのだ。なごやかな会話があふれ、全ての客がゆったりとお茶を楽しんだ。
その日のお茶のけいこを通して、人生も学んだ。お茶を始めて何年もたつが、これだというお茶を飲むたびに、日本で学んだことを思い出す。
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テレッサ・カンター(Theresa Kanter) 米国出身。大学で都市計画を学び、1998年から2001年にかけ、和歌山県橋本市の中学や高校で英語教育に携わった。帰国後、医療関係の機関で働いている。35歳。

