「農業を再建するには」 安全性や連携が重要
全国の地方新聞社と共同通信社が識者らとつくる「地域再生列島ネット」は「農業を再建するには」をテーマに第8回意見交換を行った。景気低迷や地方経済の衰退が続く中で農業への期待が高まる一方、意欲ある人に農地が集まる仕組みなど課題も。発展には安全性や他の業界との連携が重要だとの声も上がった。
▽地域を守る
京都府綾部市。列島ネットのメンバー、若杉典加(わかすぎ・のりか)さん(42)が代表を務める住民グループ「きらり上林」が始めた山あいの耕作放棄地のコメ作り支援は、3年目を迎える。大阪府から移住した若杉さんはコメの味に感動。インターネットを中心に契約農家が作った低農薬米の販売に取り組む。
農家の一人、清水俊秀(しみず・としひで)さん(34)は会社員から転身した。除草剤を1回だけ使う水田にはメダカが泳ぎ、見学した消費者は歓声を上げるという。「いつ見られても大丈夫」と話し、安全なコメ作りに自信を示す。
5キロ2800円と、一般のコシヒカリより高いが、初年度の2008年産は完売。注文客も70件を超え、滑り出しは好調だ。「水田を10ヘクタールに広げ軌道に乗せたい」と、清水さんは話す。「農業で地域を守りたい」。若杉さんはなお知恵を絞る。
▽持続可能な農業
こうした中山間地の農業振興は大きな課題だ。条件が不利なため「企業の参入はほとんど聞いたことがない」(阿部欣司(あべ・きんじ)・北海道電力地域担当部長)。小林敬典(こばやし・たかのり)・鳥取県政策企画総室長は、過疎化の歯止めに「産業として再生を」と訴える。
その意味で若杉さんが取り組む「安心・安全」は重要なポイントだ。河内山哲朗(こうちやま・てつろう)・前山口県柳井市長は、バイオ燃料や堆肥(たいひ)を使う「持続可能農業」を国策として推進してはどうかと提案した。
経営戦略が重要との指摘も相次いだ。渡辺英彦(わたなべ・ひでひこ)・富士宮やきそば学会会長(静岡)は「いいものは作るが売り方が下手」とし、他業界との連携を提起。東朋治(あずま・ともはる)・神戸ながたTMO総括マネジャーは、農産物の格付け充実などアピール策を求めた。
▽労働力に不安
農地利用も論点だ。藤波匠(ふじなみ・たくみ)・日本総合研究所主任研究員は「積極的な農家に農地が集まらない」と指摘。沢井安勇(さわい・やすお)・日本防炎協会理事長は「能力ある人々が未利用地を利用できる農地管理システム」の導入を求めた。昨年の農地法改正で、借地期間の延長や企業への規制が緩和されたが、見直しが必要との声が強い。
都竹淳也(つづく・じゅんや)・岐阜県商工政策課課長補佐は、県内の4万人の基幹的農業従事者の7割が高齢者と分析する。沼尾波子(ぬまお・なみこ)・日本大教授も「農業を就職先に考える学生はほとんどいない」という。
小田切徳美(おだぎり・とくみ)・明治大教授は、鳩山政権が掲げる戸別所得補償が導入されても、このままの形で農業が残ることは「労働力の面で難しい」と指摘。「地域が選んだ担い手や集落営農を支援する手法に転換を」と提起した。
◎地・宝・人
「地域再生列島ネット」に参加した多彩な人たちを「地・宝・人(ち・ほう・じん)」と名づけた。その活動と横顔を順次、紹介する。
清里の再生に尽力する舩木上次・萌木の村社長

高原観光で絶大な人気を誇った山梨県・清里。約40年前喫茶店を開業以来、「地域に根ざした本物の価値と文化」を追求し続けてきた。
清里の歴史を切り開いた米国人ポール・ラッシュが指導した開拓農場で生まれ、ラッシュの言動に接しながら育った。「『最善を尽くす。そして一流であれ』という言葉が、今でも原点になっている」という。
国内最大規模のオルゴール博物館。星空の野外で有名ダンサーが競演する「清里フィールドバレエ」は今年で21回目。大勢の地元ボランティアに支えられ、約2週間に約1万人の観客を動員、夏の清里を飾るイベントになった。大手ビール会社の元醸造長が手掛ける地ビールも味が評判だ。
「物心ついた時、土地は1坪5円とアンパン並み。リゾートブームのピークは500万円。今は3万円でも買い手が付かない」と清里の盛衰を地価で表現する。農地や山林がつぶされペンションや土産物店に様変わりした。しかしバブル崩壊後は潮が引くように観光客が激減、駅前は寂れた。
そんな浮沈とは一線を画し、地道に進めてきた「本物」の高原リゾートづくりが結実し、清里再生の拠点として冬でも家族連れなどでにぎわう。
「清里を反面教師にしてほしい」。つぶさに見てきた清里の「語り部」は各地の取り組みにエールを送っている。61歳。
地域産品に取り組む木織雅子・工房おのみち帆布理事長

「白い糸が舞い、鶴の恩返しのよう。見たことのない光景に感動したんです」。広島県尾道市の帆布工場を初めて訪ねた時の様子を振り返る。船の交易でにぎわい、帆布の生産が盛んだったが、戦後は合成繊維に押され衰退。しかし、わずかに残った工場で見た帆布の良さに魅せられた。
中小企業の女性経営者仲間と資金を出し合い、洋裁経験がある知人女性に頼んで、小袋の縫製を始めた。1999年、市内の喫茶店などで販売を始めると、観光客の評判は上々。「バッグも作ったら」と新たな注文も舞い込み、本格的に取り組むことを決めた。
2003年にNPO法人化し、翌04年には市内の商店街の空き店舗に工房を兼ねた店舗を出店。帽子やブックカバーなど製品の種類は年々増え、売上高も08年度に5500万円まで上昇。店舗に多くの人が訪れるようになり、尾道市の新たな「顔」になりつつある。
ヨモギやススキなどから染料を作る研究にも挑む。お年寄りらが集めた草木を原料とする計画で、商品化し軌道に乗せ地域に売り上げを還元するのが目標だ。昨年からは市内で綿花栽培も始め、地元に根を下ろした活動は幅を広げている。
工房では東京からのIターン組も働く。「帆布があるから来たという人が増えればうれしい」と話し「メード・イン・尾道」の夢は広がる。70歳。

