衆院選あのとき
■吉田、鳩山両派が対立 「55年体制」が確立
30日に投開票の衆院選は戦後24回目を迎える。日本の歩みを左右した選挙戦を振り返った。(役職は当時、敬称略)

【抜き打ち解散=1952年10月1日投票】
首相吉田茂と、連合国軍総司令部(GHQ)による公職追放で吉田に自由党総裁の座を譲った鳩山一郎による激しい主導権争いから起きた選挙。吉田は現首相麻生太郎の、鳩山は現民主党代表鳩山由紀夫のそれぞれの祖父に当たり、半世紀以上を経た今回との因縁を感じる。
公職追放が解けて政界復帰した鳩山との対立で政権運営に行き詰まった吉田が、鳩山派追い落としを狙って抜き打ちで解散を仕掛けた。
吉田政権は継続したが、自由党は単独過半数をわずかに上回っただけ。反吉田派の欠席戦術で吉田学校の優等生、通産相池田勇人の不信任決議が衆院で可決、辞職に追い込まれるなど両派の争いは続くことになる。
【天の声解散=55年2月27日投票】
吉田との対立の末、鳩山は54年11月に自ら総裁となり日本民主党を結成。これをきっかけに吉田内閣は12月に総辞職に追い込まれ、早期解散を条件に当時左派、右派に分裂していた社会党双方からの指名も得て鳩山首相が誕生、国会で「解散は天の声」と答弁した。
日本民主党は憲法改正を掲げて第1党となったが、革新系政党は憲法改正阻止に必要な3分の1議席を確保した。
両社会党は55年10月に統一し、翌11月には自由、日本民主両党が「保守合同」して今に続く自由民主党が誕生。与党・自民党と野党第1党の社会党を軸にした「55年体制」の構図が出現した。
■ロ事件、自民に深い傷 不信任可決で衆参同日選

【ロッキード選挙=1976年12月5日投票】
2月に発覚したロッキード事件は前首相田中角栄逮捕に発展、政界を震撼(しんかん)させた1年となった。真相究明を強調する首相三木武夫に対し、自民党内で「三木おろし」の動きが活発となり抗争が激化。三木は解散を目指したが、閣内から抵抗が出て果たせず、公選法下で初の任期満了選挙となった。
若手ホープの河野洋平らが離党し新自由クラブを結成、一大ブームに。自民党は抗争を引きずったまま選挙に突入、金権批判の高まりで過半数割れに。三木は退陣を余儀なくされ、反三木派の中心だった福田赳夫が後継首相となった。
受託収賄罪などで起訴された田中は新潟3区から無所属で出馬、2位に11万票以上の差でトップ当選。以後、自派を膨張させ、強い影響力を発揮する。
【ハプニング解散=80年6月22日投票】
78年自民党初の党員投票による予備選を導入した総裁選で、福田は田中派の支援を受けた大平正芳に敗れ、新たな遺恨が生まれる。首相大平は79年10月の衆院選に敗北、党内で「40日抗争」が勃発(ぼっぱつ)する。翌80年5月に社会党が衆院に大平内閣不信任案を提出すると、福田、三木両派などが本会議を欠席、可決された。首相は解散を選択、史上初めての衆参同日選となった。
ハプニングはさらに続いた。参院選公示日に大平が不調を訴え入院。選挙戦中に心筋梗塞(こうそく)のため死去した。自民党は"弔い合戦"として首相(総裁)不在で戦い抜き、衆参ともに圧勝。後継の首相には大平派の鈴木善幸が選出された。(役職は当時、敬称略)
■政権前半は元首相が影響力 中曽根劇場で同日選大勝

【田中判決選挙=1983年12月18日投票】
中曽根康弘は82年11月の首相就任に際し田中派の支援を受け「田中曽根内閣」とやゆされた。東京地裁が83年10月、ロッキード事件で受託収賄罪などに問われた元首相田中角栄に懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を言い渡すと、田中の議員辞職勧告決議案採決を求める社会党など野党と自民党が対立して国会は1カ月余り空転。11月28日に野党が内閣不信任案を提出したのを受け、中曽根は衆院を解散した。
政治倫理が争点となり、自民党は単独過半数を割り込んだため新自由クラブと連立政権。中曽根は「田中氏の政治的影響力を排除する」との総裁声明を出し、非主流派を抑え込んだ。
【寝たふり解散=86年7月6日投票】
85年に田中が病に倒れたこともあり、中曽根は党内の主導権を握るため衆参同日選を模索。まず自民党国対委員長藤波孝生が「首相はうちひしがれている」と同日選断念との見方を広め、中曽根も衆院の1票の格差是正をめぐる野党との党首会談で「解散は全く考えていない」と表明、解散の前提となる改正公選法を成立させ、5月22日に国会は閉幕。ところが6月2日、臨時国会を召集して解散を強行したため野党は激しく反発、解散詔書が衆院本会議ではなく、議長応接室で読み上げられる異例の事態になった。
"中曽根劇場"効果で自民党は衆参で圧勝。衆院は史上最高の300議席を得た。余勢を駆って党則を改正し中曽根の党総裁任期を1年延長、87年11月まで5年の長期政権に。「戦後政治の総決算」を掲げて国鉄の分割民営化を実現するなど一時代を画した。(役職は当時、敬称略)
■竹下派が分裂、自民下野 小選挙区導入、民主が誕生

【政治改革解散=1993年7月18日投票】
東京佐川急便事件で前自民党副総裁金丸信が衆院議員を辞職したのをきっかけに、92年末竹下派から小沢一郎、羽田孜らが分裂。93年の巨額脱税事件での金丸逮捕で選挙制度改革を柱にする政治改革論議が沸騰した。
「資産倍増」を掲げ首相に就任した宮沢喜一にとって「政権の課題となった政治改革は苦手な分野」(官房長官河野洋平)。宮沢は政治改革法案成立に不退転の決意をテレビ番組で表明したが党内の反発で断念。野党提出の内閣不信任案に小沢らが同調し可決されると衆院を解散した。
自民党は過半数割れで結党後初めて下野。自民党を離党した小沢らの新生党や新党さきがけ、社会党など非自民8党派が連立政権を樹立、小沢が仕掛け人となり首相は日本新党の細川護熙に。94年1月に小選挙区比例代表並立制を導入する政治改革関連法が成立した。
【小選挙区解散=96年10月20日投票】
細川は94年4月に退陣。羽田内閣をはさんで自民、社会、さきがけ3党は6月、社会党委員長村山富市を首相に連立政権をつくり、自民党は11カ月で与党復帰。小沢らは公明党などと新進党を結党。村山の後継首相、橋本龍太郎は96年9月、衆院を解散、社さ両党議員を中心に菅直人と鳩山由紀夫が共同代表の民主党を結成、選挙に臨んだ。
自民党は過半数を獲得できず、惨敗した社民(社会党から党名変更)、さきがけ両党の閣外協力で政権を維持。政権交代を逃した新進党は97年末に解党、再結成された公明党は自民党との連立を選択した。新進党から分裂した多くの勢力と民主党が合併、曲折を経て二大政党の一方を担うまでに地歩を固めた。(役職は当時、敬称略)
■苦節10年、憲政会が政権に 結党11年の民主党は?
明治期に元勲、伊藤博文を初代総裁に結成された政友会に対抗する政権政党を目指した憲政会は1916年に結党、政権の座についたのが24年でこの期間は「苦節10年」と呼ばれる。旧民主党や新進党から分裂した新党友愛などが合併した現民主党の結党は98年だが、今回の衆院選で苦節10年の花は咲くだろうか。(役職は当時、敬称略)

【護憲運動選挙=1924年5月10日】
「平民宰相」と呼ばれ衆院に議席を持つ初の首相、政友会の原敬が21年暗殺され、後継の高橋是清内閣は政友会の内紛で崩壊。以後、軍人出身の首相が2代続き、さらに官僚出身の清浦奎吾(きようら・けいご)が首相となったことに世論が反発、政党内閣の実現や選挙権の納税要件廃止を求める「第2次護憲運動」が起きた。政友会、憲政会、革新〓(人ベンに貝の目が組のツクリ)楽部が内閣不信任案を提出したため衆院は解散。政友会から分裂した政友本党は、清浦内閣に与党の立場を取った。
選挙で反清浦内閣の3党が過半数を確保したのに対し、政友本党は約40議席減らし、清浦は退陣。第1党の憲政会総裁加藤高明が首相となり、護憲三派内閣が発足した。原則として25歳以上の男子に選挙権を認める普通選挙を実現し、1選挙区の定数が3~5の中選挙区制を導入する選挙法の改正を行った。以後、32年の五・一五事件まで二大政党が政権交代する"憲政常道時代"が続く。
明治憲法下で衆院が誕生した時は小選挙区制が基本。いったん大選挙区制となるが、19年に再び小選挙区を原則とする制度となり24年の衆院選はその2回目。中選挙区制などを経て、96年から小選挙区比例代表並立制での衆院選が4回行われたが、議会初期を別として、小選挙区を基本とする衆院選で首相交代が実現したのは24年だけだ。











