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柿崎明二 日本再生考

日本再生に何が必要か。この国はどうすれば活力を取り戻せるのか。月1回、有識者に語ってもらう。

柿崎明二氏

柿崎明二氏

柿崎明二(かきざき・めいじ)1961年秋田県生まれ。早大文学部卒。88年共同通信社入社。1993年から政治部で首相官邸、外務省、旧厚生省、民主党、自民党、社民党などを取材。2011年から編集委員。著書に「『次の首相』はこうして決まる」(講談社現代新書)、共著に「空白の宰相」(講談社)がある。

第13回 九州大学准教授・古賀徹氏

古賀徹氏

▲古賀徹氏=福岡市博多区の喫茶店

 古賀 徹氏(こが・とおる)67年熊本県生まれ。北大文学研究科博士課程単位取得。近著に「理性の暴力」(青灯社)。

全体主義

 —教条化か。

 「そういってもよい。それは私がかかわった原発反対運動も無縁ではない。運動の中で主張や行動が教条化することもある。自分のよって立つ前提について思考を続けることが大切だ。日本社会は、理性の形骸化が極限まで達しやすい感じがしている。理性が強い抑圧性と結びついて、いわば理性による全体主義が生じる」

 —日本の抑圧性は高いか。

「私の直感だが、日本は全体主義に対する防壁が弱い。キリスト教社会では、絶対的な神との関係の中で、自分を問い直し、なすべきことを考えるという習慣がある。日本の場合は、神ではなく、家族、地域社会、会社、あるいは世間との関係の中で考える。人の顔色、場の空気、状況の流れを非常に敏感に読むので、同調圧力が高まる」

 「こうした空気支配が科学的な権威主義と結び付く。事故時の原発報道においても、政府や東大の学者の見解がたとえ誤っていても記者に責任は生じないが、記者個人の判断で市民科学者の異なる見解を報じれば記者の責任が問われる」

 —周囲のことを考えるのは悪いことか。

 「空気を読む良さももちろんある。社会的な衝突が少ないし、消費者の意向を先回りしてくむサービス業が発達した。ただ、その姿勢が、多数派の客の空気を読んでハンセン病療養所の入所者の宿泊を拒否する事件を生むことにもなった。高度に洗練された美的な社会が、新しい差別を生んでいる」

 —事件、事故があると撲滅しようと過剰な対応をするようになった感じもする。

 「『理性の枠からはみ出たものは、何が何でも撲滅しなければならない』という衝動が働く。撲滅とは殴り殺すという意味だ。コントロールできない何かを理性で 抑え 込んで、その 抑え 込む力で強迫的に前進する社会になっていく。その典型が原発だ」

理性のあり方について哲学者の古賀徹九州大准教授に語ってもらった。

 —理性が暴力をはらんでいると主張している。

 「われわれは理性で暴力的な衝動を制御している。そして社会システムも高度に理性化されている。にもかかわらず、そのシステムの中で新たな暴力が生まれている」

 —具体的には。

 「例えば原発。推進側は理性の象徴である科学を根拠に『絶対的に安全で、問題もない』と主張、異論や不安を感情的と切り捨てて、合法的に押し切ろうとした。それどころか反対を非科学的な人たちと侮蔑さえした」

 「しかし、推進側の人たちも無意識のうちに、どこかおかしい、と分かっていたはず。安全なのになぜ、都市部につくらないのか。深刻なのは、その心のとげを押し殺すがゆえに、かえって反対する人々を攻撃し、補助金で住民を分断し、建設を強行してきた。理性が硬化して暴力を生んだ」

 —他の例では。

 「水俣病やハンセン病の強制収容。水俣病で言えば、公式確認から1968年に政府がチッソの排水が原因であることを認めるまで12年もかかった。この間、排水と病気の因果関係について科学的検証が繰り返され、工場など関係者の権利のため、規制が先送りされた。認定も医学的厳密性を理由に保留された人間が大量に生まれ、遅れに遅れた。真理と権利、つまり科学的・法的厳密性が被害を放置、拡大させた」

 —なぜ理性が硬化するのか。

 「科学は自然法則に、権利は法規則に立脚している。自然法則も法規則も絶対ではないのだが、異論、反論との戦いの中で、自らのゆらぎを抑え込み、根拠と推論を絶対視するようになる」

理性が生む新たな暴力 論争の中で自ら絶対視 限界を意識し反省を

「自分のよって立つ前提について思考を続けることが大切だ」と語る古賀徹氏=福岡市博多区の喫茶店

▲「自分のよって立つ前提について思考を続けることが大切だ」と語る古賀徹氏=福岡市博多区の喫茶店

感性と魂

 —理性の暴力をどう乗り越えるのか。

 「新たな理性を持ち出しても、新たな理性の暴力が生まれるだけだろう。また理性を投げ捨てて直接的な感性に身を任せても、より原始的な野蛮な暴力を呼び込むだけだ。最悪なのは、理性の暴力が野蛮な暴力と手を結ぶことだ。ナチズムや戦前の日本の軍国主義がそうだった。原爆もそうだ。理性を保ち続けながらも、自らの理性の限界を常に意識し、反省を手放さないことだ。自分の組織がよって立つ前提を思考することを互いに奨励しあう人々のつながり方も大切だ」

 —その認識を社会が共有するのは大変だ。

 「いや、今の若い世代には、違和感を理性で押し殺す力で前進することの問題に気付いている人が多い気がする。強迫的に上を目指すというよりは、自分らしい仕事を求め、隣人に目を向けている。感性が発する違和感に言葉を与え、またその言葉が感性を刷新していくような、感性と言葉、魂と理性の関係性を取り戻すことができれば、希望はある」

 「悪者探し」慎重に 留飲下げても解決せず

 以前から、ユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)を行ったナチスを「狂気の沙汰」と切り捨てることに違和感を持っていた。

 あの大量虐殺や迫害は狂っていると表現してもいい蛮行だ。しかし、その過程を見ると当事者の一部は、彼ら独自の一貫性を確立しようとしてもいた。「狂気だけではなく、行きすぎた理性と捉えるべき面もあるのではないか。狂気という一言で片付けると逆に真実が見えなくなる」というのが私の感覚だった。

 理性が暴力をはらんでいるとする古賀氏の主張に興味を持ったのは、そんな思いを抱き続けていたからだ。インタビューには収録できなかったが、古賀氏も同様の指摘をしている。さらに古賀氏は何か社会問題が起きた時に往々にして起きる「悪者探し」に警鐘を鳴らしている。

 この問題が起きたのはこの極悪人のせい—。分かりやすい構図は、人々の留飲を下げてくれる。しかし、高度に理性化された社会に起きる問題はそんなに単純ではない。

 責任者が、特定され、追及されても同様の問題は起こり続ける。いったんは自らの理性を疑うことから見えてくるものは多い。=2014年03月20日 

水俣病の原因断定までの動き
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