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『非核』の原型 Ⅱ

太平洋ビキニ環礁での水爆ブラボー実験のきのこ雲をバックにした池田長生(左上)、岡崎勝男(左下)、重光葵(右下)、ダレス各氏のコラージュ

太平洋ビキニ環礁での水爆ブラボー実験のきのこ雲をバックにした池田長生(左上)、岡崎勝男(左下)、重光葵(右下)、ダレス各氏のコラージュ
太田昌克 おおた・まさかつ

太田昌克(おおた・まさかつ)1968年富山県生まれ。早大政治経済学部卒業、政策研究大学院博士課程修了、博士(政策研究)。92年共同通信入社。広島支局、大阪社会部、高松支局、外信部、政治部、ワシントン特派員を経て2009年から編集委員。06年度ボーン・上田記念国際記者賞、09年平和・協同ジャーナリスト基金賞を受賞。近著に『日米「核密約」の全貌』(筑摩選書)。

 広島、長崎への原爆投下に次ぐ3度目の「国民的被ばく体験」となった1954年3月の第五福竜丸事件。しかし米水爆ブラボー実験で「死の灰」を浴びた同船乗組員の死亡直後、日本政府は核実験停止を求めず、米政府に継続容認を伝達していた。背景にあったのは、米ソ核軍拡競争下で絶対的優位を保とうとした米国の冷戦政策。米核戦略を優先し、核の傘堅持と核軍縮推進の両立に腐心する被爆国の「非核外交」の原型が60年前の外交記録に垣間見られる。

忠実な同盟論者

 2度、原爆の犠牲になった日本国民は強い衝撃を覚えている。ただ今回の事件で生じたいら立ちが、日米友好を損ねてはならない―。

 太平洋ビキニ環礁でのブラボー実験から丸2カ月後の54年5月1日。吉田茂政権の外相、岡崎勝男が駐日米大使アリソンに送った書簡の要旨が、同4日付の米公電に刻まれている。

 だがその後、日本の世論の動向は岡崎が望まない方向へと進む。

 東京・杉並の主婦らが始めた署名活動は、原水爆禁止の国民的運動に発展。全国紙の世論調査では70%が「日本人は今後も原水爆の被害を受ける心配がある」と答えた。

 第五福竜丸乗組員の病状も思わしくなく、米原子力委員会は「最重症患者5人の白血球の数値からすると、全員が回復すると考えるのは早計」と分析。米研究機関・国家安全保障公文書館が入手した5月8日付のダレス国務長官の在日米大使館宛て訓令によると、乗組員死亡に備えた米政府の声明も用意された。

 その後、同船無線長の久保山愛吉が9月23日に亡くなると、日本国内の反核のうねりはピークに。それでも岡崎は直後の10月5日、アリソンにこう伝えた。

 「可能なら核実験場を別の場所に移してほしい。不可能なら実験規模は最小に」。米公電からは、核実験継続で米軍のニーズを満たそうとする忠実な日米同盟論者の姿が浮かび上がる。

持ち込み是認も

 「(第五福竜丸の帰港直後に)患者2人を診たが、痛ましかった。やけどで顔面が包帯で覆われ、赤ずんだ肌も見える」

 当時「死の灰」の分析に携わった現筑波大名誉教授の池田長生(88)はこう回想しながら、岡崎の対米折衝については「初めて聞いた」と言及。「ビキニの患者を見れば、二度と核実験なんて...」と言葉を続けた。

 しかし、核被害の実相を目の当たりにした池田らの衝撃をよそに、岡崎の後任者も米核実験容認の従来方針を踏襲する。

 56年1月12日、米政府が太平洋エニウェトク環礁での新たな核実験計画を公表すると、鳩山一郎政権の外相、重光葵は「実験中止の申し出を行うことは常識的にできない」と公言。鳩山はこの前年「力による平和を正当として是認するなら(日本への核持ち込みを)認めなければならない」と発言しており、重光も核抑止力構築のために実験は必要との立場だった。

「日本人が核問題に敏感なのは分かっているが(核開発)分野でソ連を優位に立たせないことが不可欠だ。米国の優位が続くことのみが、自由主義陣営を真に防衛する」

 56年3月18日、来日したダレスが重光との会談で、こう核実験を正当化した様子が米側会談記録に記されている。

滑りやすい坂

 「共同声明への賛同はいいが、この動きは一体どこへ向かうのか。滑りやすい坂を下りているのではないのか」

 外務省高官によると、米政府は昨秋来、日本にこんなメッセージをひそかに伝達してきている。

 共同声明とは、昨年10月に国連総会第1委員会で発表された核兵器の非人道性と核不使用を訴える声明。「いかなる状況下でも核が二度と使われないこと」が人類生存につながると記され、125カ国が賛同した。

 同様の声明が、この時を含め計4回出されているが、日本の賛同は初めてだった。過去3回は核兵器の非合法化の重要性を指摘する文言などがあり、日本政府は「核の傘を重視する安全保障政策と相いれない」として賛同を拒否してきた。

 これを被爆地の田上富久・長崎市長が「被爆国としての原点に反する」と糾弾。広島出身の岸田文雄外相は苦渋の判断を迫られ、昨秋、初の賛同に踏み切った経緯がある。

 米政府はこの動きを注視した。声明発表を主導してきたのが、核兵器の開発・保有・使用を禁じる核兵器禁止条約制定に積極的なメキシコなど核廃絶推進国だったからだ。

 日本も一緒になって核兵器を非合法化する「滑りやすい坂」を下りていく気なのか―。米国が伝えてきたメッセージは「傘」の下にいる日本へのけん制だった。

 核抑止力を前提にした日米同盟が政策変更への死角を招き、米核戦略への呪縛が今なお続く。(一部敬称略)=2014年05月04日 

1954年9月、羽田空港でダレス米国務長官(右)と握手する吉田茂首相

1954年9月、羽田空港でダレス米国務長官(右)と握手する吉田茂首相

第五福竜丸乗組員の病状を伝える1954年5月8日付のダレス米国務長官の在日米大使館あて訓令のコピー(国家安全保障公文書館提供)。乗組員死亡に備えた声明が早くから用意された

第五福竜丸乗組員の病状を伝える1954年5月8日付のダレス米国務長官の在日米大使館あて訓令のコピー(国家安全保障公文書館提供)。乗組員死亡に備えた声明が早くから用意された

米の抑止戦略に呪縛  「傘」と軍縮、両立に腐心 

広島、長崎への原爆投下で本格的な幕を開けた原子力時代は、福島第1原発事故を受け大きな転換点を迎えた。核保有とは決別する一方、原子力の平和利用にまい進してきた被爆国。原子力時代の裏面をえぐり、核と日本人の軌跡を追う。

被爆国、核実験を容認

米国の核実験 

 米国の核実験 米国は1945年7月16日にニューメキシコ州アラモゴードで人類史上初の核実験を行って以来、地上と地下で92年9月まで1000回超の核実験を実施した。包括的核実験禁止条約(CTBT)は米議会の抵抗で批准できていないが、実験を停止中。一方、97年からは「核爆発が起きないのでCTBTの対象外」と主張し、核物質に高性能火薬で衝撃を加える臨界前核実験を続けてきた。

米国の核実験 
コラム

国民感情と微妙な間合い   対米同調の冷戦時代 

 日本は今でこそ、包括的核実験禁止条約(CTBT)の発効促進など核実験禁止のけん引役を国際社会で担っている。だが冷戦時代は、国民の反核感情と微妙な間合いを取りながら、米国の核実験に同調姿勢を示すことが少なくなかった。

 「核実験に公に賛同できないが、本心としては(ケネディ)大統領はなすべきことをなさねばならないと信じている」。米公文書によると、池田勇人首相は、核実験を一時停止していた米国がソ連に追随して実験再開を決めた直後の1961年11月、こう語っている。

 吉田茂、鳩山一郎両内閣が米核実験を容認したのに対し、その後の岸信介政権は実験中止を訴えた。ただその理由は核廃絶追求というよりも、保革対立の鋭い55年体制下における保守政権の延命という性格が強かった。

 57年9月23日の日米外相会談の米側記録には、核実験問題の処理を間違えば、岸政権の命取りになりかねないとみなす藤山愛一郎(ふじやま・あいいちろう)外相のこんな言葉が記されている。「日本の人々は核実験にとても敏感だ。政府も抗議せざるを得ない立場に置かれている。この問題の扱いは保守政権にとって極めて重要だ」

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