太田昌克(おおた・まさかつ)1968年富山県生まれ。早大政治経済学部卒業、政策研究大学院博士課程修了、博士(政策研究)。92年共同通信入社。広島支局、大阪社会部、高松支局、外信部、政治部、ワシントン特派員を経て2009年から編集委員。06年度ボーン・上田記念国際記者賞、09年平和・協同ジャーナリスト基金賞を受賞。近著に『日米「核密約」の全貌』(筑摩選書)。
昨年の原発事故後、国民の間で懸念が高まる内部被ばく問題。広島、長崎の被爆体験があるにもかかわらず、「未知の領域」が生じた要因として、原爆投下直後の実測データの欠如が挙げられる。核兵器を使った米国はこの問題をどう認識していたのか。核爆発後1分以内に出る初期放射線の影響を重く見る一方、放射性降下物などがもたらす残留放射線を過小評価した「軍の論理」が死角として浮かび上がる。
原爆開発を目指した「マンハッタン計画」が始動して約1年になる1943年9月。同計画の中心的科学者、ジェームズ・コナントが秘密報告書をまとめた。
「微量の放射性物質が動物の肺に吸着すると、数週間で死に至る。100万分の1グラムで致命的」
広島市立大広島平和研究所講師の高橋博子が入手した秘密報告書は、コナントが内部被ばくの脅威を認識していた事実を物語っている。
「放射性物質は色も味もなく、いつ防護マスクをかぶればいいか分からない」「除染後も残る汚染の持続性は毒ガスと比べても兵器として優位」。原爆そのものではないが、放射性物質の兵器化を検討した同報告書にはこんな記述も登場する。
いかに放射性物質を効率よく散布し、敵に永続的打撃を与えるか―。内部被ばく問題はコナントらの重大関心事だった。
45年8月6日に広島市の上空約600メートル、9日には長崎市の上空約500メートルで原爆がさく裂。表面温度が数千度の火球が現れ、猛烈な爆風が発生、放射性物質を含むきのこ雲は成層圏に達した。
被爆者が浴びた放射線は、ガンマ線や中性子線の初期放射線だけでなかった。(1)「黒い雨」に象徴される放射性降下物(2)初期放射線が土地や建築資材の原子核に衝突して発生した誘導放射線―の残留放射線も放出された。
米軍が残留放射線の本格調査に乗り出したのは、被爆から40日が経過した9月20日。原爆開発を所管した「マンハッタン工兵管区」の調査団が被爆地を訪れた。
「調査団の目的は二つ。一つは原爆の都市と住民に対する効果の観察。もう一つは放射線による独特の効果を調査すること。投下後に広島、長崎に入った人も(初期放射線を浴びた被爆者と)同様の症状が見られると日本側は報告している」
約20日間の調査を経て同管区が46年春にまとめた調査報告書はこう記し、被爆地に進駐する米兵の健康を守るためにも、残留放射線の調査が不可欠だったと強調している。
調査団は「黒い雨」の降った長崎・西山地区などで比較的高レベルの残留放射線を検出したが、「爆発後に広島、長崎に入り、住みついた人の健康に残留放射線が有害であり得なかったことは明白」と断定。内部被ばくの影響を否定した。
しかし、この調査結果に広島、長崎の関係者は異論を唱える。
「米側には先入観があったのだろう」。20歳の時に入市被爆した元長崎大学長の土山秀夫はこう語り、残留放射線の影響を米軍が「過小評価した」との見方を示す。
「先入観」の背景にあるのは、原爆が500メートル以上の高空で爆発したため、大量の放射性物質は地上に沈殿せず、きのこ雲に乗って成層圏の広い範囲に拡散したという米軍の当時の論理だ。
50年に米原子力委員会などが出版し、日本で翻訳もされた核戦争用の民間防衛マニュアル「原子兵器の効果」も「広島や長崎における高空での爆発の場合には、内部の放射能に由来する疾病や障害は全く報告されていない」と記し、この論理を追認している。
広島市立大の高橋は「原爆の非人道性に対する非難を恐れた米軍は最初から、残留放射線や内部被ばくの影響はたいしたことないと決め込んでいた」と指摘。マンハッタン工兵管区の調査についても、甚大な被害の出た45年9月中旬の枕崎台風の後に行われた調査だとし、「放射性物質が既に洗い流されていた」可能性に言及する。
同管区の調査報告書は17年前に長崎の地元放送局NBCが米国立公文書館で発見、日赤長崎原爆病院院長の朝長万左男らによって翻訳もされた。
2歳で被爆した朝長は原発事故後の福島におけるセシウムの残留状況に触れながら、台風が放射性物質を洗い流したとの説には否定的な見解を示した上で、こう語った。
「工兵管区が調査した頃には残留放射線のレベルは相当落ちていた。より本質的な問題は、核分裂後にどれだけの放射性物質が成層圏に飛散し、残りの何%が地上に落ちたか、その全容が今もよく分からないことだ。重要データがないため、内部被ばくをめぐり、いろんな論争が起きている」
米軍が残留放射線の深刻な影響を対外的に否定できなくなるのは、太平洋ビキニ環礁での水爆実験で第五福竜丸が「死の灰」を浴びる50年代半ばに入ってからだった。(共同通信編集委員 太田昌克、敬称略、2012年09月30日、肩書きは当時)


























