太田昌克(おおた・まさかつ)1968年富山県生まれ。早大政治経済学部卒業、政策研究大学院博士課程修了、博士(政策研究)。92年共同通信入社。広島支局、大阪社会部、高松支局、外信部、政治部、ワシントン特派員を経て2009年から編集委員。06年度ボーン・上田記念国際記者賞、09年平和・協同ジャーナリスト基金賞を受賞。近著に『日米「核密約」の全貌』(筑摩選書)。
「核抜き本土並み」の沖縄返還を決めた1969年11月の日米首脳会談では、二つの密約が交わされた。沖縄核密約と繊維密約。日本の繊維製品の対米輸出に歯止めをかけたい米国は「核」をカードに日本から譲歩を獲得。しかし「縄(沖縄)と糸(繊維)の取引」を受け入れた日本は密約を守れず、二つの衝撃的事件に直面する。当時の経緯をたどると、国益最大化を狙って同盟の盟主が行使する"核のパワー"に呪縛され、死角を突かれた被爆国の姿が浮かび上がる。
「総理は大統領との了解事項を果たせなかったことに大変苦悩しており、自身の誠意を示すため、さらなる努力を望んだ。総理は昨年11月、繊維問題で何が可能で何が不可能かという点をめぐり、実にうかつだった」
70年6月23日、夜のとばりが下りたワシントン。通商産業相(現経済産業相)の宮沢喜一が、米国務次官のアレクシス・ジョンソンにこう漏らした。日米繊維交渉を長年研究する日大の信夫隆司教授が米国立公文書館で入手した米公電に、宮沢の発言が記されている。
69年11月の日米首脳会談で、首相の佐藤栄作は米大統領ニクソンと二つの密約を結んだ。一つは、佐藤が切望した「核抜き本土並み」を担保するため、有事における核兵器の再搬入を認めた沖縄核密約。もう一つは、海外からの廉価な繊維製品流入で米繊維業界の壊滅を恐れたニクソンが、日本に包括的な輸出規制を求めた繊維密約。
72年の大統領選を早くも意識していたニクソンは繊維関連の票田を引き留めようと、急成長を遂げる日本を標的にした。
両首脳が二つの密約を結ぶべく、首脳会談の台本を周到に書き上げたのはニクソンの腹心、キッシンジャー大統領補佐官と、佐藤の密使で国際政治学者の若泉敬だった。
会談でニクソンは「核抜き本土並み」の72年返還を確約。その見返りに佐藤が繊維問題で、「包括的対米輸出規制」で69年内の日米合意を目指すことを了承するという筋書きだった。
日本側記録によると、両首脳は実際、69年11月21日の会談でこんなやりとりをしている。
ニクソン「(繊維問題は)自分にとって、総理にとっての沖縄問題と同様、現実の問題。米側関係者は包括的同意で圧力をかけ続けるであろう」
佐藤「自分はその場限りの男ではない。誠意を尽くすというのが自分の信条である。日本側においても業界は強い利害関係を持っている。しかし、本日述べた趣旨で自分が最善を尽くすことを信頼してほしい」
米側記録には「プリーズ・トラスト・ミー(信じてください)」との佐藤の言葉も刻まれている。
しかし佐藤は約束を守れない。包括規制に反対する国内繊維業界の圧力に直面したからだ。
年が明けても日米交渉はらちが明かず、70年3月15日、駐米大使の下田武三はこんな公電を東京に送り警鐘を鳴らした。「国家の対外約束中、政府首脳が自ら行った約束ほど重要なものはなく、この約束を尊重するか否かは直ちに国家の信用にかかわる重要事項だ」
「縄と糸の取引」が大きな禍根を残し、日米関係は険悪化する。
米側記録によると、70年6月6日、キッシンジャーはスタンズ商務長官との協議で、前日電話してきた若泉のことを「あのジャップ(日本人に対する蔑称)」と表現。米側の不満と不信は高まるばかりだった。
「佐藤は繊維を甘く見ていた。沖縄さえうまくいけば、あとは何とかなると思っていた。ニクソンやキッシンジャーにしてみれば、シナリオ通りに事が運ばず、裏切られたとの思いが残った」
日米繊維交渉を検証した著書「若泉敬と日米密約」を今年出版した信夫はこう語り、佐藤が密約を守れなかった代償として、日本が二つの「ニクソン・ショック」に見舞われたと指摘する。
ベトナム戦争の戦費負担などで財政赤字が拡大、貿易赤字も膨らんだため、ニクソンは71年8月、ドルの切り下げをもくろんで金とドルの交換停止を電撃的に発表。また前月の7月には自身の訪中も突如公表し、米国は日本への相談なしに国際政治経済の大変革に動いた。密約不履行のツケは余りに高かった。
佐藤は69年「核抜き」返還を求める国内世論に押されて対米交渉に臨んだが、ニクソンはギリギリまで「核抜き」を表明せず、交渉を巧みにリード。繊維密約を佐藤に結ばせ、核の持つ外交力をフルに活用した。その結果、「縄」とは本来無関係の「糸」が日本外交に絡み付いた。
「日本は右と左の〓(順の川が峡の旧字体のツクリ)を殴られたようなもの。(ニクソン・ショックは繊維密約を守らなかったことへの)しっぺ返し」。繊維交渉に関与した当時の駐米公使、吉野文六(93)はこう振り返った。(一部敬称略、共同通信編集委員 太田昌克、2012年07月19日、肩書きは当時)

























