太田昌克(おおた・まさかつ)1968年富山県生まれ。早大政治経済学部卒業、政策研究大学院博士課程修了、博士(政策研究)。92年共同通信入社。広島支局、大阪社会部、高松支局、外信部、政治部、ワシントン特派員を経て2009年から編集委員。06年度ボーン・上田記念国際記者賞、09年平和・協同ジャーナリスト基金賞を受賞。近著に『日米「核密約」の全貌』(筑摩選書)。
1970年代に20基の原発を稼働させた日本は、国際原子力機関(IAEA)と保障措置(査察)協定を77年に締結し、原子力依存への道をまい進した。「核の番人」を受け入れるに当たっては官民一体で、IAEA査察を簡略化する「欧州並み」の好待遇を模索。被爆国が「平和利用」分野での「平等」を求めた背景には、経済コストを意識して原発稼働率の向上と商業機密の保全を優先させたい原子力産業界の意向が働いていた。米国にも査察受諾を迫るが、一部核保有国を別格に扱う核不拡散体制の死角が、これを阻んだ。
73年5月17日、東京・飯田橋のホテル。東京電力など大手電力事業者、東芝や三菱金属鉱業(現三菱マテリアル)など原発関連企業の幹部十数人が、科学技術庁(現文部科学省)や通商産業省(現経済産業省)の担当者らと向かい合った。
「日本に適用される査察の内容と、欧州原子力共同体(ユーラトム)や米国などが受ける査察との間に不当な差異があってはならない。IAEA査察官は必ず日本政府の代表者同行の下、原子力施設を訪問すべきだ」。原発を強力に推進したい業界側はこんな注文と不満を政府側にぶつけた。
ユーラトム加盟のドイツやベルギーなど7カ国は核拡散防止条約(NPT)の署名に当たり、IAEAと協定を締結。ユーラトム自身が行う査察をIAEA査察官が「観察」する形で、IAEA査察の簡略化を図った。この「ユーラトム並み」が日本の業界には、欧州原子力界を優遇する特別待遇に映った。
そもそもユーラトムはIAEA受け入れを拒んだが、日本の外交圧力などを受け、簡略化を条件にIAEA査察をようやく認めた経緯がある。
「日本の産業界の意向が働いた。業界はIAEA査察を受け入れることで負担が大きくなると恐れた。また(産業力を高めていた)ドイツを意識していた」。74年から外務省科学課でIAEAとの協定交渉を担当した高倍宣義(70)は、日本が「ユーラトム並み」獲得を求めて対IAEA交渉を進めた背景をこう述懐した。
「IAEAが来て『ちょっと原発を止めろ』『出力を落とせ』と言われると、自分たちのスケジュールで運転している原発が、査察官の恣意的な指示で止まる恐れがある。電力会社はこの査察の問題点を懸念した。発電に影響を及ぼすような査察では困るというのが基本的な考えだった」
50年代から原子力行政に深く関与し、70年代後半には科学技術事務次官も務めた伊原義徳(87)は、「ユーラトム並み」に固執した電力業界が何よりこだわったのは原発稼働率だったと明かす。
その後ノーベル平和賞も受賞するIAEAだが、70年代の当時、日本の「原子力ムラ」は強い疑念の目で「核の番人」を見詰めていたのだ。
また、飯田橋で73年5月に開かれた先の政府と業界の意見交換会では「IAEA査察員が商業機密を漏えいした際の罰則や損害賠償規定が明確でない」との懸念も業界側から示された。
燃料開発に長年携わった三菱マテリアル名誉顧問の秋元勇巳(83)は「先端技術を用いて遠心分離機を開発していたから、IAEA査察官が入ってきて(商業機密やノウハウが)別の国へ漏えいする事態になればまずい。査察官の守秘義務にかなり神経質になっていた」と当時を振り返る。
IAEAは各国専門家の寄せ集めにすぎず、一部の国が産業スパイを働くかもしれない―。こんな業界の危惧を踏まえた政府は、自国の査察官を活用した「ユーラトム並み」をIAEAに認めさせ、77年に日IAEA保障措置協定が発効する。
「平和利用」の世界での平等性を追求した日本は、「原子の火」を被爆国にもたらした米国にも、民間の原子力施設についてはIAEA査察を受け入れるよう求めた。
69年夏、政府はIAEAが非核保有国のみを査察対象にしようとする姿勢を問題視。「平等性を確保し得ない恐れがある」(同年7月4日の在スイス大使館などへの外務省公電)との懸念を抱き、米英など核保有国にも適用可能な方式をIAEAに逆提案した。
「原発施設に査察が行われる場合、発電コストに影響する。もし核保有国の施設が査察を受けないとすれば、コストの差が生じ、非核保有国は経済的に不利とならざるを得ない」(70年の原子力産業会議の内部文書)という「ムラ」の論理がここでも働いた。
しかし米国は「当惑せざるを得ない」(69年5月29日の外務省公電)と反発、同盟の盟主の怒りを買った日本は結局譲歩した。核保有国を完全に別格扱いにするNPT体制の死角が、「平和利用」での真の平等性を妨げた。(共同通信編集委員 太田昌克、敬称略、2012年03月30日 肩書きは当時)
























