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原発導入の源流Ⅲ

東海原発を背景に、湯川秀樹(右上)、正力松太郎(左上)、小沼通二(右下)、伊原義徳のコラージュ(敬称略)

東海原発を背景に、湯川秀樹(右上)、正力松太郎(左上)、小沼通二(右下)、伊原義徳のコラージュ(敬称略)
太田昌克 おおた・まさかつ

太田昌克(おおた・まさかつ)1968年富山県生まれ。早大政治経済学部卒業、政策研究大学院博士課程修了、博士(政策研究)。92年共同通信入社。広島支局、大阪社会部、高松支局、外信部、政治部、ワシントン特派員を経て2009年から編集委員。06年度ボーン・上田記念国際記者賞、09年平和・協同ジャーナリスト基金賞を受賞。近著に『日米「核密約」の全貌』(筑摩選書)。

 科学技術が二度と戦争に利用されてはならない―。先の大戦の過ちを繰り返すまいと、「平和目的限定」で進められた被爆国の原子力開発。1954年には、日本学術会議が「民主・自主・公開」の原子力3原則を採択した。しかしその後、「政・財」に押し切られる格好で英米からの原発輸入が先行、地震国の実情に適した自主開発路線は脇に追いやられた。地震被害を重くみた科学者の警鐘は政府に届かず、「自主」の精神が裏切られていった軌跡。そこからは、東京電力福島第1原発事故の遠因ともなった死角が浮かび上がる。

英国炉

 「藤本先生が大きな地図を黒板に貼って『東海村がこっちで東京があっち。(事故が起きたら東京に)放射能の雲が流れてくる』と説明した。これに対し西脇先生は、扇子を振りながら『いやいや、そんなことはない。大丈夫』と反論した」
 59年7月31日。科学技術庁で原子力を担当していた伊原義徳(87)は、この日都内で開かれた原子力委員会の公聴会でのやりとりを覚えている。
 争点は初代原子力委員長、正力松太郎の肝いりで茨城県東海村への導入計画が進行していた英国製黒鉛炉コールダーホールの安全性。大地震とは縁遠い英国の炉を輸入することに、学術会議からは反対論が出ていた。
 学術会議メンバーで物理学者の藤本陽一(85)は、導入予定のコールダーホール改良型発電炉の「未知の危険性」を強調。事故が起きれば、風向き次第で「一時立ち退きは100キロ近くに及ぶ」と警告した。「地震が問題であることは、始めのころから皆が指摘していた」と回想する藤本。
 これに対し大阪市立大助教授(当時)の西脇安は、57年に英国で起きた世界初の原子炉重大事故ウィンズケール火災の教訓から「安全度の高い設計が行われている」と反論、事故が起きても退去範囲は限定的だと主張した。
 「西脇さんはビキニ被ばくの結果を世界に広めるのに決定的役割を果たしたが、突然変異を起こしたように推進派になった」。慶大名誉教授の小沼通二(80)が語る。
 西脇は54年3月に太平洋で被ばくした第五福竜丸の「死の灰」をいち早く分析し、水爆実験の真相を世界に伝えたことで知られるが、原発輸入には積極的で、学者仲間らは奇異に思ったという。

徹底抗戦

 伊原ら政策担当者の目にも、兵器用プルトニウムの製造ももくろんで英国が導入したコールダーホールの輸入には無理があると映った。それでも財界と組んで発電炉の早期輸入を目指す正力は官僚の意見に聞く耳を持たず、「木っ端役人は黙ってろ」と異論を封じた。
 小沼ら学術会議内の物理学者は、そんな「政・財」の性急な動きに徹底抗戦に出る。56年に「早急に特定国と動力協定を締結しようとする動きは、わが国の原子力開発の健全な発展を制限する」との声明を発表、58年には学術会議として「地震、洪水はじめ天災の多いわが国の事情」を考慮した安全対策を最優先するよう政府に申し入れた。
 さらに59年、改良型炉の問題点をまとめた冊子を作り、安全性は十分確保できると結論付けた原子力委員会を「科学的でない」と非難。3原則を提唱した立教大教授(当時)の武谷三男も「外国技術の導入によって目先の利潤追求しか考えていない」と政府を批判した。
 日本人初のノーベル賞受賞科学者、湯川秀樹に近かった小沼は「運転技術だけいくら学んでも、根の生えた技術は育たない。湯川さんもそう考えていた」と振り返る。

「ターンキー」

 学術会議の警鐘にもかかわらず、原子力委員会はコールダーホール改良型炉の建設を許可、66年に運転が始まった。そして64年には福島第1原発の建設計画が公表された。
 「福島第1原発の1号機はGE(米ゼネラル・エレクトリック)のターンキーだ」
 前原子力安全委員長の鈴木篤之がこう言明するように、日本への原発導入は設計から製造、試運転まで手掛けた外国メーカーから手渡された鍵を日本の電力会社が回すだけでいい「ターンキー方式」で進められてきた。
 54年の初の原子力予算計上以来、原子力政策に長年携わってきた伊原は、そんな「ターンキー」に死角が潜んでいたと打ち明ける。
 「(日本が輸入した)軽水炉は北米大陸でできた技術。せいぜい洪水でじわじわ水位が上がる事態を考えており、津波対策の発想がそもそもない。ある程度日本の事情に合わせて立地先を考慮したが、完全ではなかった」。米国では主に河川沿いに原発が建設される。
 外国技術の導入を急ぐあまり、ないがしろにされた「自主」の原則。「自主性の欠如でターンキーに走った。自主性とは全く逆行する形でこの50年間、原子力が推進されてきた」と小沼は語った。(共同通信編集委員 太田昌克、敬称略、2011年10月31日、肩書きは当時)

日本学術会議の書庫に眠る1950年代の記録。原子力研究に関する問題点や政府への申し入れなどをめぐって、「民主・自主・公開」を重んじる科学者間の議論が記されている=東京都港区

日本学術会議の書庫に眠る1950年代の記録。原子力研究に関する問題点や政府への申し入れなどをめぐって、「民主・自主・公開」を重んじる科学者間の議論が記されている=東京都港区

政と財、科学押し切る 浮かび上がる事故の遠因

広島、長崎への原爆投下で本格的な幕を開けた原子力時代は、福島第1原発事故を受け大きな転換点を迎えた。核保有とは決別する一方、原子力の平和利用にまい進してきた被爆国。原子力時代の裏面をえぐり、核と日本人の軌跡を追う。

裏切られた「自主」の精神

原子力3原則

 1954年春に改進党を中心に原子力予算が突如計上された事態を受け、日本学術会議が4月、原子力研究の民主的かつ自主性のある運営、情報の完全公開を求めて打ち出した基本原則。根底には原子力の軍事利用を否定する精神があり、「民主・自主・公開」は原子力基本法にも盛り込まれた。第2次大戦後の占領期間中、原子力研究は禁じられていた。

原子力3原則
コラム

揺らぐ独自開発路線 発電は軽水炉に依存

 日本の原子力政策は長年、当座の電力需要を賄う発電炉については米国で開発された軽水炉に依存する一方、使用済み核燃料の再処理で抽出したプルトニウムを活用する核燃料サイクルを自前で進めてきた。しかし原発事故を受けた脱原発の流れの中で、独自開発路線は大きく揺らいでる。
 発電炉を海外輸入に頼る路線を敷いたのは初代原子力委員長の正力松太郎だ。原発の早期実用化をテコに「総理のいす」をも狙った正力は、「自主」原則を重んじる湯川秀樹ら科学者の声を無視し、英国からの黒鉛炉輸入を強行。その後輸入先は米国に切り替わるが、正力が主導した輸入路線が現在の「軽水炉独占体制」を招いたと言える。
 一方、核燃料サイクルを目指す独自開発路線の「要」、高速増殖炉原型炉もんじゅ(福井県敦賀市)は、事故続きで実用化への道筋を付けられず、行政刷新会議の「提言型政策仕分け」の対象となる予定だ。(敬称略)

コラム