太田昌克(おおた・まさかつ)1968年富山県生まれ。早大政治経済学部卒業、政策研究大学院博士課程修了、博士(政策研究)。92年共同通信入社。広島支局、大阪社会部、高松支局、外信部、政治部、ワシントン特派員を経て2009年から編集委員。06年度ボーン・上田記念国際記者賞、09年平和・協同ジャーナリスト基金賞を受賞。近著に『日米「核密約」の全貌』(筑摩選書)。
日本の原発導入に決定的な役割を果たした同盟国米国。米秘密文書をひもとくと、「同盟の盟主」が日本への原子力協力を推進した背景に、米軍部の壮大な野望があったことが浮かび上がる。日本への核兵器配備構想―。冷戦が先鋭化した1950~60年代、米軍部は在日米軍基地への核貯蔵を極秘裏に試みた。構想は結局、幻に終わるが、「原子力の平和利用」には、"核ならし"によって被爆国の世論を懐柔、日本本土の核要塞(ようさい)化を図るという思わぬ死角が潜んでいた。
57年1月14日、ワシントン。核戦略や対日政策に携わる国務、国防総省の高官が顔をそろえた。駐日大使に新任されたマッカーサーの姿も。
「核エネルギーと核兵器を受け入れるよう、北大西洋条約機構(NATO)諸国と同様に、日本の世論にも影響力が行使できるだろう」。グレイ国防次官補がマッカーサーにこう語りかけた。
「日本で核兵器の問題は極めてデリケートだ。日本人は原爆が使われた世界唯一の国民。経済情勢から原子力は熱狂的に受け入れるだろうが、現時点で核兵器の受け入れは非常に疑わしい」と切り返すマッカーサー。
それでも国防総省は「駐日大使と日本の政治指導者がひそかに協議すれば、日本人の考え方も進化する」と主張、日本での核貯蔵実現にあくまでこだわる姿勢を示した。
朝鮮半島を間近ににらむ日本本土への核兵器の陸上配備―。こんな野望を米軍部が政府内で表明し始めたのは54年春。太平洋ビキニ環礁での水爆実験「ブラボー」で「第五福竜丸」など日本漁船が「死の灰」を浴びた時期と重なる。
「日本に原爆を持ち込み貯蔵したい。在日米軍基地から核攻撃できるよう、日本政府から事前許可を取ってほしい」。国防総省が国務省にこんな要求を突きつけたのは54年5月だった。
「大量報復戦略」を掲げる米アイゼンハワー政権は当時、NATO諸国内への核配備に動いていた。東西冷戦の最前線である西ドイツへの短距離型戦術核の配備が始まったのは55年春。
ベルリン問題をめぐる米ソ対立が深まる中、アイゼンハワー大統領は欧州に持ち込んだ核戦力を背景とした「即時大量報復」を打ち出すことで、通常戦力で優位を誇るソ連を抑止しようとした。
米軍部は西ドイツ並みに、日本でも米軍基地への核実戦配備を模索、朝鮮半島と台湾海峡に即時出撃可能な日本本土の核基地化を狙った。
しかし、そんな米軍部の野望の前に立ちはだかった最大のハードルは、ビキニ被ばくで反核・反米感情が一気に高まった被爆国の世論。そこで登場したのが、「原子力の平和利用」という対日カードだった。
ビキニ被ばく以降、米国は「原子力平和利用に専念することが米国にとって最善の結果をもたらす」(56年12月3日付のスミス国務長官特別補佐官のグレイ国防次官補宛て極秘書簡)との方針の下、対日原子力協力を推進。反核・反米世論の取り込みを図った。
57年12月にナッシュ大統領特別補佐官がアイゼンハワーに提出した報告書も、日本に核貯蔵を受け入れさせるため「原子力平和利用の進展」が必要だと指摘。報告書は、沖縄での米軍駐留をスムーズに行い、市民の「核嫌い」を解消するため、沖縄での原発建設の選択肢にも言及した。
アイゼンハワー政権下では最終的に、反核世論を深刻視した国務省や在京米大使館の慎重姿勢で、日本への核貯蔵構想は日の目を見なかった。
それでも米軍部は野望を捨てきれず、ケネディ政権下の62年になって議論を蒸し返す。
同年3月23日に開かれた国務省、国防総省、統合参謀本部の政策調整会議。デッカー陸軍参謀総長は「(日本での)核貯蔵権(の獲得)に向け、日本政府と接触する」よう国務省に要請した。
だがこの時も、日本の世論や内政事情を憂慮する国務省とライシャワー駐日大使が反対。軍部の悲願は成就しなかった。
「国務省は(軍部の要求を)取り合わなかった。なぜなら日本が(核貯蔵に)賛成しないと分かっていたから。それに、そんな提案をすること自体、日米関係を損ねることになる」。当時、対日政策を所管する東アジア部長だったジョセフ・イエガーは生前こう証言している。
「平和利用」の名目で"核ならし"を推進し、日本領土内への核持ち込みを狙った米軍部。その大胆な野望はついえたが、被爆国はその後、「平和利用」の道をまっしぐらに進んだ。(共同通信編集委員 太田昌克、一部敬称略、2011年09月13日、肩書きは当時)
























