太田昌克(おおた・まさかつ)1968年富山県生まれ。早大政治経済学部卒業、政策研究大学院博士課程修了、博士(政策研究)。92年共同通信入社。広島支局、大阪社会部、高松支局、外信部、政治部、ワシントン特派員を経て2009年から編集委員。06年度ボーン・上田記念国際記者賞、09年平和・協同ジャーナリスト基金賞を受賞。近著に『日米「核密約」の全貌』(筑摩選書)。
3カ月が経過した現在も収束が見通せない福島第1原発事故。政府と東京電力が初動から後手に回り、日米連携の体制構築にも時間がかかる中、危機管理の「空白」を埋める影の専門家チームが存在した。日米技術協力の舞台裏をのぞくと、原発事故に迅速対応できる常設の専門家組織を持たない原子力大国ニッポンの死角が浮かび上がる。
メルトダウン(炉心溶融)が始まった事故の発生から一夜明けた3月12日。内閣府所管の原子力委員会のトップ、近藤駿介(こんどう・しゅんすけ)委員長の卓上電話が鳴った。受話器の向こうは米エネルギー省ナンバー2のパネマン副長官。
「近藤―パネマン会談で日本への米政府専門家の即時派遣が決まった」。複数の日米外交筋は、この電話会談で専門家による日米協力の路線が敷かれたと強調する。
近藤率いる原子力委は原子力政策大綱の策定をはじめ、原子力政策を推進する組織で、事故対応は本来担当外だ。それなのに、どうしてパネマンは近藤に電話したのか。
「原発事故時のカウンターパート(相手方)が日本政府内では明確でない。だから誰に接触していいのか、どの組織が事故を掌握しているのか、米側には当初分からなかった」。在米日本大使館当局者が解説する。
米国の場合、米原子力規制委員会(NRC)という司令塔が存在する。その実力は1979年のスリーマイルアイランド原発事故で証明済みだ。
しかし、日本での事故対応は「基本的に事業者任せ」(日本政府高官)の性格が強い。原発の安全規制を担当する原子力安全委員会や経済産業省原子力安全・保安院が事業者を支えるが、NRCのように迅速かつ能動的に対応できる十分な力量を備えていなかった。
実際、安全委の班目春樹(まだらめ・はるき)委員長は事故の翌朝、菅直人首相と事故現場を訪れ「水素爆発はない」と言明したが、直後に水素爆発が発生。安全委は「現場が相当気を使う」(東電幹部)首相視察を制止できなかった上、見通しが甘く、対処能力のなさを早々に露呈した。
「われわれは早い段階から、日本側に『能動的に対処すべきだ』との見解を伝達していた」と話す米ホワイトハウス高官。最初の1週間、日本側の能力不足を目の当たりにしたオバマ政権の懸念は増幅する一方だった。
そんな危機の「空白」を埋めたのが、チュー米エネルギー長官ともパイプを持つ近藤を中心とした影のプロ集団だった。
近藤は今回のような過酷事故に対する福島第1原発の安全評価に携わった経験を過去に持つ。そのため内心じくじたる思いの近藤は多くを語らないが、日本政府関係者がこんな秘話を明かす。
事故からしばらくの間、東電本社の一室に近藤はじめ政府や東電の専門家約10人が集まり、米国と回線を結んで電話会議を連日開催。米側からはアイダホやサンディアなどの核関連研究所、エネルギー省の専門家十数人が参加、炉の長期冷却へ向けた技術的議論を早朝や深夜に繰り広げた―。
「原子炉への循環注水や海水による腐食問題などをめぐり、米側の助言を求めた。技術者同士の有意義な議論の場だった」と語る同関係者。水面下での電話会議の成果が、原発の冷温停止を目指した東電と政府の工程表にも反映されている。
別の専門家組織も事故直後に結成された。内閣官房参与を務めた小佐古敏荘(こさこ・としそう)東大教授と、小佐古の弟子の工学博士、空本誠喜(そらもと・せいき)衆院議員が立ち上げた「助言チーム」だ。
チームには小佐古と近い近藤も参画。民主党の空本は菅から3月15日に支援を直接要請され、官邸に技術的助言を行う枠組みをつくった。
「2炉心分放出大なら強制移転領域は200キロ」。助言チームはひそかに、こんな「最悪シナリオ」も策定。4号機の使用済み燃料プールから放射性物質が放出、チェルノブイリ原発事故レベルの広範囲な土壌汚染の発生を想定した。
政府の「場当たり的対応」を批判して参与を辞任する2日前の4月27日、小佐古はチームの活動内容や提言を報告書にまとめ、こう記している。
「大規模原子力災害では炉の安定冷却、線量率の測定だけでなく、周辺住民への放射線影響、社会的・経済的影響を含む全体を俯瞰(ふかん)した判断が求められる。そのため省庁横断の共同作業、安全委の適切な助言に基づく官邸の強いリーダーシップと適切な判断が必要だが、残念なことにこれがなされてこなかった」。(共同通信編集委員 太田昌克、一部敬称略、2011年06月21日、肩書きは当時)
























