裁判員をよむ

連載企画

直言

「過ち犯す」認識ない 作家、僧侶の玄侑宗久さん

 裁判員制度はあまりにも日本の国柄に合わず、反対だ。例えば、昔の農民一揆でもリーダーは原則死罪だが、寺に駆け込めば刑を免れた。権力者の「法」と、仏法や庶民感情は別で、そうした価値観の「重層性」が日本社会の豊かさ。それを否定し、権力と庶民が一緒になって一つの判決を出せば、被告にとって逃げ場がなく、救いがない。

玄侑宗久さん

インタビューに答える作家、僧侶の玄侑宗久さん

 仏教では、死者が六つある地獄のどこへ行くかを決めるため、閻魔(えんま)大王など7人の裁判官に49日かけて裁かれるが、最後は「六つの鳥居から自分で選べ」となる。裁判は不完全で、人は過ちを犯すという考え方が根底にあるからだ。

 裁判員制度はこの点を考慮していない。判断を間違うかもしれないと考えれば、3日や5日で裁判を終わらせるという発想にはならない。裁判迅速化は経済原理であり、前提から間違っている。

 財界主導の司法改革の中で持ち込まれた制度。正当か異端かを裁定するカトリックの思想には合致しても「柳は緑、花は紅」という言葉にもあるように“あるがまま”を分別せずに味わうわたしたちの考え方には合わない。裁きたくないという日本人の信条の根底を崩すと、すべてが壊れる恐れがある。

 守秘義務も問題だ。重大な判断に携わっても悩みを打ち明けられない。米国の陪審員は話していいのに。裁判員の個性を尊重せず、顔のない「民衆」として扱う。憲法が保障する幸福追求権、思想信条の自由も踏みにじられる。

 ただ、いまのままでいいとは思わない。人はみな罪を犯す存在だという認識に達した裁判官に、覚悟をもって裁かれたい。“無傷”な正義を疑わない学業優秀なだけの人ではなく、もっと社会経験を積んだ人が裁判官になるべきだ。

 日本人は裁判が立派であることを求めているのであって、必ずしも司法参加は求めていない。

玄侑宗久さん略歴 

 げんゆう・そうきゅう 1956年、福島県三春町生まれ。慶応大卒。京都の天龍寺専門道場に入門後、88年に三春町の臨済宗福聚寺の副住職、2008年から住職。01年「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞。「水の舳先」など著書多数。


(共同通信社 2009年07月06日)


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裁判員制度とは

 有権者から無作為に選ばれた裁判員6人と裁判官3人が原則審理し、殺人など重大事件の被告が有罪かどうかを判断した上、有罪の場合は刑も決める。