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 1997年3月、福島県庁で佐藤栄佐久県知事(左)にプルサーマル計画について説明する荒木浩東京電力社長

 「普通の会社になろう」「兜町(株主)を向いて仕事をしよう」―。1993年、東京電力の社長に就任した荒木浩。副社長時代からコスト削減を推し進めた荒木はこんな表現で合理化の大号令をかけた。

 諸外国に比べて高い日本の電気料金への批判が強まり、電力自由化の風が吹く。原油安が火力発電のコストを押し下げた。東電の原子力予算も例外ではなかった。犠牲になったのは、安全管理などの研究分野だった。

「秋葉原価格」

 電力会社にとって原子力はコスト不問の分野だった。右肩上がりの成長があり、建設コストは電気料金に簡単に転嫁できる。現場とメーカーが安全のため必要だと判断すれば、メーカーからの新設備や補修の提案はすべて通った。

 だが、荒木の就任直後から、社内に多様なコスト削減策の冊子が配られた。電柱の中空化、アルミ電線のリサイクル、マンホールの削減...。すみずみまで経費切り詰めが求められた。

 「(安売りの)"秋葉原価格"でないと自由化に耐えられないと言われた。軽水炉から再処理事業まで、みるみる経費を減らされた」と、原発メーカーの元幹部は嘆く。

 原発には何よりも稼働率の向上が求められた。電力各社が国に、定期検査の短縮を強く要求した。運転停止に結び付くトラブルは厳しく責任を問われ「2002年の"東電トラブル隠し"の一因になった」(東電原子力部門の元幹部)という。

国がやれば...

 電力各社とメーカーは「電力共通研究」という研究開発の場を持っている。各社が費用分担し、新型炉や新しい設備を研究。「成果は既存原発に随時反映し、安全性向上の柱になっていた」(元東電役員)。原子炉製造がとぎれがちなメーカーにとっても、共通研究は「事実上、技術陣を維持するための原資」(同)だった。だが、95年度の317億円が、2000年度には179億円と急減。05年度には74億円と、10年間で4分の1以下まで落ち込む。

 「原子力を守るためには合理化が必要と全社が考えていた。東電にはリーディングカンパニーとしての責任があったが、研究について各社に打診しても『必要なら国にやってもらえば』という声ばかりだった」。東電の研究部門の責任者だった人物はこう振り返る。

 「軽水炉にはもう大きな改善はない、研究の目玉がないとの思い込みがあった」とこの責任者。既存原発の安全性向上の研究は忘れ去られてゆく。電気事業連合会も「原子炉開発や炉内の補修関連技術など、費用の大きな研究が一段落したと分析していた」(広報部)と、これを認めた。

思い上がり

 日本原子力研究開発機構の安全研究予算も、96年度をピークに10年間でほぼ半減。メーカーなど民間の原子力研究予算も96~97年をピークに漸減した。しかも、大半は核燃料サイクルやプルサーマル計画、新型炉、検査の合理化など、次世代の技術開発や運転長期化の実現に振り向けられた。既存の炉は成熟した技術として、研究の片隅に追いやられていく。

 2010年9月、電事連の研究推進委員会がまとめた「電力事業者の原子力関連研究への取組」と題する資料では「世界最高水準の既設炉の安全性および信頼性の確保」と高らかに言い切った。だが、こうした思い上がりがまん延し、日本で研究費が削られ続けたちょうどその期間、欧米では過酷事故対策が大きく進み、日本とは大きな差がついた。

 海外の原発に詳しい日本の専門家によると、東電福島第1原発に米国並みのバックアップ電源があれば原子炉の冷却が失われることはなかった。欧州のように、緊急時に蒸気を抜く「ベント」の際に放射性物質を取り除く設備があれば、周辺汚染もはるかに小さくて済んだはずだという。"おごり"のツケはあまりに大きかった。(由藤庸二郎、敬称略)=2011年12月02日 

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日本を創る 連載企画原発編 原発と国家

①原発と国家

第1部「安全幻影」
第2部「『立地』の迷路」
第3部「電力改革の攻防」
第4部「『電力』の覇権」
第5部「原子力の戦後史」
第6部「原子力マネー」
番外編・原子力の戦後史を聞く
第7部「原子力人脈」
第8部「漂流する原子力」
番外編・アトムの涙 手塚治虫が込めた思い

②復興への道

第1部「漂う人びと」
番外編・専門家に聞く
第2部「再建のハードル」
第3部「地方のスクラム」
第4部「海外の被災地」

③インタビュー

震災と文明
震災後論
海外の原発政策
震災後論②
震災後論③
震災後論④