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新潟県柏崎市長を長く務めた故小林治助氏の胸像

 電力会社から電源開発促進税を徴収し、それを発電所周辺の自治体に配る電源3法交付金制度は1974年、首相田中角栄の決断で導入された。地元・新潟の東京電力柏崎刈羽原発計画をはじめ、難航する原発立地の打開に加え、原発をテコに地方の貧困解消を図る「列島改造」の視点もあったとされる。事故の危険に向き合う地元への「迷惑料」とも言えるシステムは絶大な効果を発揮。財政難の自治体が次々に原発を受け入れる構図ができあがった。

市長の執念

 柏崎市長を長く務めた小林治助(故人)は71年、通産相だった田中に電源交付金制度の原型となる「発電税」創設を陳情した。その場面を、亡くなる2カ月前の79年6月に講演で紹介している。

 100万キロワット出力の原発1基の総投資額を800億円とした場合、柏崎市に入る固定資産税は年間8500万円。これに対して、電気を使う都会の自治体には計23億円もの電気ガス税が入る―。小林は試算を示しながら「こんな不公平な、つじつまが合わない話がありますか」と立地自治体のための新税創設を訴えた。

 田中「市長、大蔵省に行って、そのことを言ってこい」
 小林「われわれが談判できるくらいなら、先生のところには来ない」

 さすがの田中もこの時点では慎重だった。経済界も霞が関も強く反対することが目に見えていたからだ。

 あきらめきれない小林は毎月のように上京し、田中に陳情を続けた。73年3月には原発推進派の経済人を中心とする社団法人「原子力産業会議」で講演。「エネルギー政策は国策だ。(原発立地は)国の責任で遂行するという意志と実行がなければ混乱を招くのみだ」と発電税創設などを提言した。

 小林の執念の背景には、柏崎刈羽をめぐる厳しい地元事情があった。

 68年の立地調査と同時に始まった反対運動は70年安保闘争と連動して拡大。集会やデモ、反原発学習会が毎月のように開かれた。小林は反対派の膝詰め談判に何度も引っ張り出された。「発電税には、地元説得の有力な手段になるという考えもあった」と、小林の長男正明は語る。

角栄動く

 73年10月の第4次中東戦争を契機に局面は転換する。石油ショックが国民生活を直撃し、過度に石油に依存する日本経済の弱点をさらけ出した。72年に首相に就任していた田中が動いた。

 「(石油の代替エネルギーで)いちばん早いのは原発だ。発電税をやらねばならない。重大な決意で促進したい」。田中は73年12月13日の参院審議で宣言した。すぐに通産省資源エネルギー庁幹部を呼び、74年度予算案への盛り込み作業を指示。大蔵省もねじ伏せた。突貫作業の末、74年1月閣議決定の税制改正要綱に電源3法交付金制度が盛り込まれた。

 通産省出身で田中の秘書官を務めた小長啓一は「電源立地で目的税をつくり、電力料金に上乗せし受益者に負担させるのは、道路整備のためのガソリン税と同じ。田中さん以外にはない大きな発想だった」と振り返る。同時に「まさに田中さんの国土開発だった」と、持論の日本列島改造論の具体化でもあったとの見方を示した。

 柏崎市が受け取った交付金は78年の約4億4千万円を皮切りに、2010年までに計約484億円に上る。だが関係者には複雑な思いが残る。

 交付金制度ができたのをいいことに、国が安全対策などで果たすべき責任をあいまいに済ましてきたと考えているからだ。小林正明は「原発の嫌な部分を、自治体首長と電力会社に押し付ける形ができてしまった」と指摘する。前市長西川正純も交付金制度の恩恵を認める一方で、迷走する核燃サイクル問題での国の対応などを挙げ、「その場限りの対症療法ばかり。しっかりした座標軸はあるのか」と批判した。(西野秀、敬称略)=2011年11月30日

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日本を創る 連載企画原発編 原発と国家

①原発と国家

第1部「安全幻影」
第2部「『立地』の迷路」
第3部「電力改革の攻防」
第4部「『電力』の覇権」
第5部「原子力の戦後史」
第6部「原子力マネー」
番外編・原子力の戦後史を聞く
第7部「原子力人脈」
第8部「漂流する原子力」
番外編・アトムの涙 手塚治虫が込めた思い

②復興への道

第1部「漂う人びと」
番外編・専門家に聞く
第2部「再建のハードル」
第3部「地方のスクラム」
第4部「海外の被災地」

③インタビュー

震災と文明
震災後論
海外の原発政策
震災後論②
震災後論③
震災後論④